道野辺ノ坂ノ小町/後篇
回想と述懐が終わった。
「オウショウクン……いみじくも古き名を聞くもの……」
林間の細い道の上、枝葉の間から見えるのは、いまや大きく開けた雲の切れ間……くまなき満月を凝視する老婆。
青年は、思わず息を呑んでいた。
「……知っているのですか?」
「その昔、諸々の道野辺に、かの者の立ちて咲きしと云う……」
しばしの沈黙。
「人なのですか……?」
困惑しきりの青年の方へと、再び視線を戻した老婆の口元に、ゆっくりと、謎めいた笑みが浮かぶ。
「人かも知れぬし、そうで無いのかも知れぬ……」
青年は戸惑うばかりだ。どういう意味なのだ?
月下、真白に明るい道野辺は――異様な雰囲気に包まれていく。次第に妖しい空気が濃くなっていく。
「ヨドミに聞くが良い、若いの……」
その刹那。
老婆はゆらりと袖を振った。
共に……世界がグラリと傾ぐ。
――地震!?
訳の分からぬ衝撃と震動。咄嗟に、地面に手をつく。
風湧き起こり、吹き敷いて。
木々は揺すれて、どよめいた。
葉ずれの音が鳴りわたる。
暗くなり明るくなり、明滅しきりの、その奥で。
いつしかスウッと立ち上がっていた老婆は、姿を変えていた……
老婆から、妙齢の女へ。深き目尻のきわだつ美女へ。
それは、まさしく妖怪変化。皓々たる満月の光のもと、あまりにも壮絶な変幻自在。
鮮やかな紅を口元にひく怪奇にして妖艶なる女は、いつの間にか絢爛たる装束をまとっていた。
卯花の――白と緑の――重ねだ。目を射るかのような鋭利な月光に、一層まばゆい白緑の袖がひるがえる。
身体が動かない。青年は中途半端に腰を浮かしたまま……ただ震えながら見入るのみ。
……どよめく闇の、そこかしこ、あやしき呼ばわりの声がする……
『桜求める旅人よ。我と共に来られよ。汝、杖もて、さすらう者なれば』
月の幻覚なのか……!?
既に磐座は消えていた。
そこには……底知れぬ穴が、漆黒の渦巻く深い穴が、現れている……
――その無限の渦の底、とぐろを巻き、そして解くのは、最も強大にして最も妖しき神。
黒く暗く謎めく神、古き大地の神……始原の国土の神。
その神の名を、確か、「大穴持命」と呼ぶのではなかったか……!
渦巻く歪のさなか、なおも涼しげに立つ女。月が照らす、あでやかさ。
物ノ怪そのものでありながらも、宇宙の果てまで及ぶかのような、ちはやぶる神気に燃えて屹立している。
荒れ狂う空気の流れが、いっそう強くなる。
髪は、妙齢の女ならではのつややかな輝きと長さだ。ザアッと吹き上がるや、無数の黒い蛇でもあるかのように、うねり広がってゆく。
――いにしえより。
雲のごと湧き、蛍火のごと多なる異類異形。
岐に邪れる是あり――
異形音を立てて、きしむ大地。裂けてひび割れ、あやしく地震る。とても正常に立って居られない。
「来ないの……?」
……その袖が、卯花の――白と緑の袖が、差し伸べられる……
やよ来たれかし。
この世ならぬ者の、いざない。
逃げる。そうだ……逃げなければ。
――あの渦に呑み込まれてしまう……!
妖しの女が着る闇は、話に聞く鳴門の渦潮のような響きを立てている。
……激しくも、さくなだり、落ちたぎて……
か黒き渦の底には、無数の星々の輝き。宇宙の深淵のようだ。あの無数の星々が、これまでに妖怪変化に呑み込まれてきた人々の魂だとしたら。
逃げなければ……!
死に物狂いで、竹の杖を掲げる。竹は、魔を打ち祓う聖なる植物だと伝えられている。
空気の流れが千々に乱れた。炎のような熱さと、氷のような冷たさが、同時に押し寄せて来る。
――幾つもの異界が、月下の道野辺に交差する――
いつしか、あやしき鈴の音が鳴り続けていた。神楽鈴の音の色のようだ……
『やよ、さすら人よ……ヤツマタよ』
『五百津昴の結びし炎ノ緒まばゆきをたどり……通らねばならぬ……』
『御身は……門をひらかねばならぬ。御身は……彼方に道を見出さねばならぬ――』
『――さすら王の海を――』
切れ切れの……詠唱の如きもの。
これは呪文なのか。そのかみの巫女王が唱えたという神々の託宣を実際に聞いてみたとしたら、このようなものかも知れない……
いまひとたび、光と闇の色をした烈風が吹きすさぶ。
女が、漆黒の渦の底、よどみの深淵に立ち消えて……次の瞬きの間に、別の光景が現れた。
夜の道野辺。
背丈を超える長杖を持つ旅人。
あれが、呼ばわる声の主なのか。
笠を深くかぶり、その全身を、蓑ないし合羽で覆う。満月を背にして佇む、さすらいの人影。
その異形の杖……
道々の者が、業として漂泊する者たちが、たずさえる道祖神の杖。
杖の先端には、『×』の形に似た象徴が取り付けられている。全体的にゆるやかな曲線で構成されている、不思議な幾何学的造形。先端で、二匹の蛇が交差しているようにも見える。
海を渡りし先の大陸、巨大帝国の果てに広がると聞く西域。その広大な西域をすら越えた先に、はるかなる遠き『彼方』に由来するのではないか……そのような汎世界的な気配が感じられる。
久遠の彼方。
渡り、さすらい、塞き。
久那度ノ塞ノ神の杖。
八衢の道々の者。
……あれは、『ヤツマタ』……
すべてが、ボンヤリと薄れてゆく。
――出し抜けに。
さすらいの人影が、異形の杖を一閃する。
新たに空気を切る音が鋭く響く。
天の八衢をおしわたる、純白の結晶のような月神が、四方八方に裂けた。
……清ら月は、道野辺に照り……
見る間に、すさぶ烈風の中の無数の雪片となり、花吹雪のように舞い散ってゆく。
無数の鈴の音が鳴りわたる。さながら、いと高き銀河の天より流れくだる、大いなる瀑布の響き。
いちめんの常夜闇の中……
……八百万の異界が巡り舞い、八百万の神楽鈴の音と共に、震えた。
*****
――どこかで、鳥が啼いている。
夏の熱を含む風は、濃い緑の匂いを運んで来ていた。
……あの月下の異類異形は、どうなったのか。それに、明るすぎる……
次第に、感覚が覚醒してゆく。
背中に感じるのは……土や泥ではない。厚手の着物を敷いて、当座の敷布団としてあるのだ。
手探りしてみると、身体の上に麻の長着が掛かっているのが分かる。
……青年は、ゆっくりと目を開けた……
まず目に入ったのは、新しい様式の板張りの天井だ。確かな建付けと工夫の技術が感じられる。
屋敷と言う程には大きくない。茶人の侘び住まいと言った風の、瀟洒ながら実用的な雰囲気。
傍には、部屋の仕切り用の竹製の衝立。
――ここは、一体……?
思わず身じろぎする。
「あれ、まぁ」
「目が覚めたか」
見知らぬ人の声。いずれも年配の男のものだ。
青年は半ば身を起こし……声のした方向を確認した。
開け放たれた縁側に、碁盤を囲んでいる二人の男が居る。
一方は頭を剃った老人だ。ふくよかな体格に、気の良さそうな丸っこい面差し。上質な道服をまとっており、いかにも悠々自適の隠居生活にいそしむ僧形の茶人という風だ。
もう一方はヒゲ面で、白髪混ざりの中年という年恰好。
胡乱な山伏なのか、隠れ陰陽師なのか……狩衣に比べると丈の短い、質素な布衣。身をやつしている風体ながら、妙に均整が取れていて洗練された雰囲気だ。肩を越す長さの髪を、うなじで簡単にまとめている。
……奇妙だ。
ヒゲ面をした胡乱な山伏風の中年男に、既視感を覚える。
異形の杖を一閃した、かの人影……
夏至に近い季節の、まばゆい陽差しが降りそそぐ。午前半ばの頃合い。
二人の年配の男たちは囲碁を止めて、交互にいたわりの言葉を口にしつつ、近づいて来た。青年が目を覚ますのを待っていたのだ。
「あんた、行き倒れだったよ……『坂ノ小町』に取り憑かれておったんだ」
「くだんのアヤカシは、『さすらい小町』と呼ばれとってね」
妖怪変化に襲われていたのか。そして、運よく生還したのか。
……ゆっくりと湧き上がって来る、身体の芯から震えるような何かと――言い知れぬ、深い予感。
*****
さすらい小町は、さすら王だと云う。
……私は、予期せぬ『さすらい』の物語をものがたることになりそうだ……
お読みくださり、誠にありがとうございました。
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《バックグラウンド詩歌作品》
生死の中の雪ふりしきる
天われを殺さずして詩を作らしむ
われ生きて詩を作らむ
われみづからのまことなる詩を
―山頭火