第57話:近江の湖畔で、揺れる心
「はぁー……不比等のやつ、マジで鬼。地盤の固さを一万歩歩いて確かめろとか、昭和の体育教師かよ」
近江の夕暮れ。海斗は琵琶湖のほとりで、クタクタになった足を投げ出していた。隣では子麻呂が「もはや胃に穴が……」と、もぬけの殻のようになっている。
そんな時だった。
「――海斗様ぁーっ!」
遠くから聞き覚えのある高い声が響いた。砂埃を上げて走ってきた牛車から飛び降りたのは、車持娘だった。
「車持娘ちゃん!? なんでここに!」
「海斗様が心配で、お父様に内緒できちゃいました! さあ、これ、飛鳥で一番のお菓子ですわ。あーん、してくださいませ」
デレデレと甘える車持娘に、海斗は鼻の下を伸ばす。だが、お菓子を口に運ぼうとしたその時、背後から「……父上がお探しですよ」と、低い声がした。
不比等だ。夕日に照らされた彼の横顔は、いつも以上に端正で、どこか寂しげに見えた。
「あ……不比等様。……い、いつからそこに?」
さっきまで海斗にベタベタしていた車持娘が、急に背筋を伸ばし、顔を赤くして一歩身を引いた。以前彼が見せた「冷徹な裏の顔」と「時折見せる孤独」に、彼女の心は少しだけかき乱されていたのだった。
「先ほどからです。海斗殿、地盤調査の結果は?」
「げっ、不比等……! い、いや、これはその……」
「……姫君も、このような危険な場所へ勝手に来られては困ります。……無事なようで、何よりですが」
不比等がふっと視線を逸らして呟いた言葉に、車持娘は「ひゃいっ!」と変な声を上げた。
「な、なんですの! 私は海斗様に会いに来ただけですわ! 不比等様なんて、これっぽっちも関係ありませんからっ!」
慌てて海斗の腕に抱きつく車持娘。だが、その視線はチラチラと不比等の方を向いている。
(え、何? この絶妙に気まずい空気……)
海斗は、おやつを口に含んだまま固まった。車持娘の海斗への「一途な愛」と不比等への「説明できない動揺」。そして不比等の「仕事一筋な背中」。琵琶湖の風が、三人の間を複雑に吹き抜けていった。
【今回の学習ポイント】
・古代の「砂糖」事情: 当時、今のような白い砂糖は無くて代わりに「甘葛」というツタの樹液を煮詰めた天然甘味料が使われていたんだ。これは枕草子にも登場するほど貴重なものだったんだ。
・牛車の「スピード」と「ルール」: 牛車は歩くより少し速い程度(時速約4km)だったが、当時の法律「儀制令」では、身分によって車に乗れるかどうかが厳格に決まっていたんだよ。
・飛鳥から近江への「道」: この時期、中大兄皇子は遷都のために「近江路」の整備を急がせていた。これは後に「東山道」の一部となる重要な幹線道路で、国家プロジェクトとして道が切り拓かれ始めていたんだ。




