第四十六話
真田丸参式の更に山奧に設けられた『真田丸四式』では兵の選別が行われていた。
まず工作兵一千については、明朝より徒歩にて大坂へ戻ってもらう。道中で大名や豪族に襲われる危険性もあるので、騎馬兵二百を護衛につける。
残り一千八百で一度、徳川勢と刃を交えるつもりであった。
今度は真田丸弐式からの逃亡時の様に、一頭の馬に二人騎乗したりはしない。
速度重視の編成を行う。
「さて、そろそろ最後の戦いに出るか」
「狙いは将軍ですか」
「いや、今日のところは将軍の首を取るつもりはない」
「それは何故ですか」
「また、真田が騙し討ちで将軍を殺した、と悪い評判が立つかもしれない。将軍の首は大坂まで本人に預けておくよ」
「確かにその方がいいかもしれませんね。じゃあ、さっさと出て、さっさと帰りましょう」
「そうするか。大坂での戦いの前に英気を養う必要もあるしな」
信繁は全軍を六百ずつの三隊に分けて、徐々に移動させてゆく。幕府軍に見つからない様にどこまで移動できるか、それが本作戦の要諦であった。
幕府軍は混乱の極みにあった。
将軍としては、真田信繁に一矢報いたい。
しかし軍として見た時に、大量の負傷兵を抱え、厭戦気分が高まっている。
敵である真田勢の行方も杳として知れない。
どうすればいいのか、わからない。
取り敢えず負傷兵を中央に配置し、周囲を無事だった兵が囲んでいる、という布陣になっていた。負傷兵には安心感のある配置ではあるが、戦闘集団としての能力では大きく低下する配置である。冷徹な判断を
するならば、負傷兵の存在を無視した布陣を敷くべきであった。圧倒的に少数である真田には、負傷兵を殺して回る様な余裕は無いのだから、別の場所に集めておけばよかったのである。
多くの兵が前方からの敵の出現に備えて緊張状態を強いられる。そうした中で物音はすれど姿は見えない
敵への警戒で精神的な疲労は高まっていた。
「さあ、始めるとするか」
まず六百騎が幕府軍の前に姿を現す。幕府軍は真田勢を全滅させる事を狙っているのか、正面で対峙している部隊よりも、左右に位置していた部隊をより大きく突出させて、六百騎を取り囲もうとしていた。ここで幕府軍は大きな間違いを犯していた。真田勢が『真田丸弐式』から脱出した際に用いた騎馬は一千騎であった。今回現れた騎馬は六百騎と明らかに少ない。ならば、伏兵について考慮しなければならないにも関わらず、目の前の敵に集中し過ぎていた。
突然、真田勢の左右から新たな赤備えの騎馬兵が現れた。真田信繁が三隊に分けた部隊の二つである。両隊は、徳川の突出した二隊の間隙をえぐる様に徳川陣に迫る。
その時、左右の二隊はこのまま中央の真田を攻めるべきなのか、本陣を守る為に新たに現れた二隊を攻撃するべきなのか、一般兵は愚か将達も迷ってしまった。その為に棒立ちとなり、戦闘能力を失ってしまった。
その好機を逃す真田勢ではなかった。中央の六百騎が左右に別れ、前進して来た左右の兵に対して戦いを挑む。また、新たに現れた二体も左右の兵の背後から襲う。思考停止していた軍は小数とは言え挟み撃ちとなった状況に対応する術は無かった。
兵を削られ、先細りしていく状況と、三隊がほぼ真田の全軍であり新たな伏兵の登場はないと判断し、幕府軍はようやく、反転攻勢を仕掛ける。最初に真田と対峙した一隊を二つに分け、三百ずつながらも攻勢をかける真田の後背を突くべく押し出して来た。さらに新たに現れた真田二隊の背後を突く為に徳川の布陣から二隊を回り込ませようとした。
その動きを察知した真田勢は、戦いを継続しつつも徐々に元の林に戻って行き、援軍が到達する頃には林の中に姿を消していた。
更なる挑発に備えて、徳川は元の布陣に戻り、周囲への警戒体制を継続した。
二日間真田勢が現れず、斥候からも真田信繁発見の報が入らなかったところで、秀忠はこの場での真田信繁打倒を諦め、大坂へ向かう事にした。
こうして、第二次関ヶ原の戦いは真田勢の勝利に終わった。
真田信繁 総数三千 死者六十 負傷者百二十
徳川秀忠 総数五万 死者九百 負傷者四千六百
しかし、これは来るべき大坂夏の陣の前哨戦であり、ここでの豊臣方の成果は幕府軍の遅参と兵数の削減であり、天秤の傾きが変わる程のものではない。真田信繁は将軍を討つ意志は無かったが、なりふり構わず豊臣の勝利を目指すならば、ここで将軍を討ち取るべきではなかったのか。今回の作戦は戦後の支配体制までを考えている現豊臣方幹部との考え方に従ったものである。殺すべきだったか、否か。どちらが正しいかは、大阪での決戦の後明らかになるだろう。
徳川秀忠はここで軍の再編を行った。
まず、負傷者の扱いであるが、全員江戸に帰す事とした。同時にこの戦において精神をやられた者も江戸に帰す。生きたまま馬に踏み抜かれそうになった者、爆発を避けた場所で更に爆発を受けた者、大砲の暴発により四散した同僚の肉片を見た者、どこから敵が来るのかわからない緊張状態で精神の限界を越えた者、これらにより今後の戦いには耐えられないと判断された者は負傷者の搬送役という仕事を与えられた。更に彼等を警護する一隊を編成し、江戸へ帰参する。
秀忠は、真田信繁が関ヶ原から離脱して四日後に、総数四万で大坂への進軍を再開した。




