第14話 人の血
「ひっ!」
セシリーちゃんが、袖をぎゅっとつかんできた。
ひゅっ。
マーヤーちゃんがすぐ脇を駆け抜けた。一人の首筋めがけて手刀を斜めに振り下ろし、もう一人の腰へ蹴りを放つ。
次の瞬間、マーヤーちゃんの喉元には曲刀が、腹には短剣がぴたりと当てられていた。
光の紋様が浮かぶ刃を一瞥し、それ以上は動かなかった。
仮面の二人も、動かない。
部屋がしんと静まり返った。
マータさんに目を戻した。
「マダム・マータも、懸賞金目当てですか?」
「懸賞金? ここはソラリオン帝国じゃないよ、お嬢ちゃん」
「じゃあ、何が目的なんですか?」
マータさんはパイプをひと吸いして、ゆっくり煙を吐いた。
「友人がいてね。元老院で議員席と向かい合ってる、あの象牙の椅子をずっと狙ってるのさ」
「その友人って、死山帰りのあの方と、つながりがあったりしませんか?」
「さあね。帝国との交渉に使える札があれば、来年にはあの椅子に、しかるべき人間を座らせられるのさ」
「敵国に内政干渉させるつもりですか?」
「政治なんて、商売だろう?」
笑って言った。
「……それなら、あたしからも商売の話をひとつ」
「何を売る気だい、お嬢ちゃん?」
「商売をするのは、あたしじゃなくて、深紅の長い髪をした友だちです」
「……へえ?」
「紺色の上着を着ていて、前には金色のボタンが二つ。死んだ魚みたいな目をしてます」
「……」
パイプをゆっくり下ろした。
「思ったことはそのまま口にする子なので、隠そうなんて考えなかったんでしょうね、右手の黒い――」
「あの女はここにはいない。あんたたちが死のうが行方不明になろうが、一生知りゃしないよ」
やっぱり、ルフィーナだったみたい。しかも、まだあたしのブレザーを着てる。
「五感が人間離れしてるのは、ご存じですか」
「それがどうした?」
「好物も、ご存じないでしょう」
「何の関係が――」
「人の血」
「……なんだって?」
「あたしなら、血が流れないように気をつけますね」
マータさんの顔が、一瞬でこわばった。
黙ってパイプで机を二度叩いた。
仮面の二人は武器を下ろすと、音もなく通路の奥へ消えていった。
「お嬢ちゃん、名前は?」
「白石真織です、マダム・マータ」
「マータでいいよ。オルザニアの王位継承者のことが知りたいんだろう?」
「どうして、それを……」
「真織。大事な話は、大通りのそばでするもんじゃないよ。物乞いに孤児、酔っぱらい――あの連中の情報網を甘く見るんじゃない」
「……勉強になりました」
「オルザニアの王位継承者の居場所を、マーヤーに教えてください」
「そう急ぐんじゃないよ。まずは座りな」
マータさんは立ち上がり、かまどへ向かった。
「薬草茶と酒、どっちにする?」
「お茶で。ありがとうございます」
正直、薬草の味ってどれもあんまり好きじゃないんだけど。
「お茶をお願いします」
セシリーちゃんが続けた。
「酒」
マータさんはかまどの上の壺をいくつか開け、眉をしかめながら中を覗いた。ひとつずつ元の場所へ戻していく。
「何の用で捜してるんだい?」
木樽を引っ張り出し、木のカップもいくつか取り出した。
「その人、危ない目に遭ってるかもしれないんです」
低い腰掛けを選んで座った。
「どうしてわかる?」
「そう言われた、というか……助けに行けって」
「そうかい」
カップを手に取り、差し出してきた。
「どうも」
受け取って、ひと口。
鼻の奥につんときて、危うく吐き出すところだった。
「お酒じゃないですか、これ!?」
「ミントもセージも切らしててね」
「先に言ってくださいよ!」
「大麦の味が苦手なのかい? これでもずいぶん薄いよ」
「そういうことじゃなくて……」
二人にちらっと目をやった。
マーヤーちゃんはごくごく飲み続けてるし、セシリーちゃんは首をかしげて見返してきた。唇の端には、白い泡が少しついている。
……もう、考えるのやめていいかな。
「水、ないんですか?」
「自分で術を使うか、一階に上がって裏庭の井戸まで汲みに行きな」
はぁ。本当に喉が渇いたら、そのときでいいや。
カップを机に置くなり、マーヤーちゃんにかっさらわれた。
「……その人がどこにいるか、ご存じですか?」
「知ってるよ」
「!」
「ただ、本人は素性を伏せておきたいんだよ」
「危なくても、ですか?」
「危ないからこそさ」
「助けたいだけなんです」
「見ず知らずの相手を、なんで助けたいんだい?」
「助けないと、あたしたちもただじゃ済まないかもしれないんです」
「なんでだい?」
神様に言われたから、なんて言ったって、下手な嘘だと思われそう。
どうしよう。
セシリーちゃんがカップを置いた。
「マダム・マータ。話だけでも伝えていただいて、ご本人に決めてもらうのはどうでしょうか?」
「断られるよ」
「どうして、おわかりになるんですか……?」
「わかるんだよ。あれこれ聞くんじゃない」
セシリーちゃんはしゅんとうつむいた。
これでも、だめか。
「どう思う?」
マーヤーちゃんの耳元で、声をひそめて聞いた。
「もう一度、強く出て構いません。マーヤーは、あの二つの脅威の位置をすでに捕捉しています。今度は失敗しません」
「マータさんは?」
「生かしておきます」
マーヤーちゃんにうなずいた。
「ずいぶん怖い顔だね、真織」
マータさんは腰を下ろし、またパイプを手に取った。
マーヤーちゃんは平然と立ち上がり、通路の奥をまっすぐ見据えている。
「あたしを痛めつけて、居場所を吐かせる気かい? あんたにできる?」
「……」
「……できるんだ」
「あたしたちの事情も、わかってください」
マータさんは黙った。
それから巻物を取り上げ、差し出してきた。
「これは……?」
「ここ七日分の、一階の会話全部だよ。本気で助けたいなら、自分で見つけな」
七日分。読み切るのに、どれだけかかるんだろう。
でも、今はほかに手がない。
「ありがとうございます」
「次も金を払わなかったら、地獄まで道連れにしてやるよ、真織」
「……はい」
お金か。
いつまでもセシリーちゃんに頼りっぱなしじゃいられない。
ゴーン、ゴーン、ゴーン。
外から、くぐもった鐘の音が響いてきた。
マータさんは眉をひそめ、壁の松明を外して部屋を出ていく。
「ついていったほうがいいんでしょうか……?」
セシリーちゃんが不安そうに聞いてきた。
「うん、そのほうがいいかも。マーヤーちゃん、もう樽からお酒すくうのやめて!」
あとを追って通路を抜け、石段を上がっていく。
中ほどで、立ち止まっていたマータさんに、ごつんと顔からぶつかった。
「いたた……すみません」
「しっ」
いつの間にか、鐘は鳴りやんでいた。
隠し扉の向こうから、男の声がはっきり聞こえてくる。
「……彼らは我々の知らぬ力を持ち、我々の知らぬ道を通り、我々の知らぬ手段で見張りの目をすり抜ける。ソラリオン人の地に災いをもたらし、今や我々の領内にも姿を現した」
「イサ共和国の市民諸君。諸君はみな、あの鐘を聞いた。前に鐘が鳴ったとき、何が起きたかを忘れるな。国境に立つ墓碑を忘れるな。鮮血に染まった神殿を忘れるな。だからこそ問おう。敵の口から出た話だというだけで、我々は耳を塞いでよいのか?」
「今夜から、日没後は城門を閉じ、通りには夜警を置く。公務に当たる者、裁判官が発行した通行文書を持つ者、差し迫った事情のある者を除き、日没後は外にいてはならない。私が捜すのは、自分の寝床で安らかに眠る市民ではない。私が捜すのは、夜の闇に紛れれば人目を逃れられると思っている者たちだ」
「彼らの居場所を知る者は、ただちに市政官か、夜巡三人官のいずれかに知らせよ。彼らに宿を貸す者も、車や馬、船、武器を用立てる者も、よく心得ておけ――その瞬間から、イサの敵を助けることになる。共和国は、手を貸した者を敵の一味として扱う。イサ人はひざまずかぬ!」
「「「イサ人はひざまずかぬ!」」」
外から、大勢の叫び声が空を震わせるように轟いてきた。
直後、一斉に足を踏み鳴らす音が一度だけ響いた。
マータさんがゆっくりと振り返った。黙ったまま、あたしの目を見ている。
セシリーちゃんがおそるおそる口を開いた。
「マダム・マータ、私たち……出ていったほうがいいんでしょうか……?」
マータさんは何も言わず、マーヤーちゃんへ視線を移した。
「マーヤーは、少なくとも今夜はここに留まりたいです」
視線がまた、あたしに戻ってきた。
「……おいくらですか?」




