桃太郎と優しい鬼【後篇】
「くっそ……!! あの馬鹿犬……!!」
犬を追いかける桃太郎の脚は、既に限界だった。
今桃太郎を突き動かすのは、意地だ。
が、犬との距離はどんどん開いてゆく。
ついに桃太郎の心が折れそうになったとき。
犬の逃げる先に、一匹の猿が見えた。
「っしゃあ!! そこの猿!! その犬を捕まえてくれ!!」
桃太郎の声に気が付いた猿が足を止め――道を空けた。
「はあッ!?」
犬は速度を緩めることなく、猿の脇を悠然と走り去った。
「おい……! なんで捕まえてくれなかったんだよ……! ってうぼあ!?」
猿の脚につまずき、桃太郎は頭から地面に崩れ落ちた。
「……なにしやがる!!」
「騙されるほうが悪いんだウキ」
「なあ……ッ!?」
どうやらこの猿は、あの犬と仲間のようだ。
「ふざけ――っいだだだだだだだだ!?」
立ち上がろうとした桃太郎の頭に、鋭い痛みが走った。
「雉ィ!?」
桃太郎の頭をつついていたのは、鮮やかな羽を広げた雉だった。
「ピギョー!!」
「いだだだだだだ……!!」
「そのまま頭をかち割るのだウキー」
クチバシによる猛攻が桃太郎を襲う、はずだった。
「な、何だ……?」
桃太郎が恐る恐る顔を上げると、猿と雉が道の外れに広がる森を見つめていた。
「ワオーン……!!」
「犬殿……!! ウキ……!!」
「ピギョー!!」
猿と雉は、森の中へと翻った。
残された桃太郎はひとり呆気に取られる。
「くそ……!! なにがどうなってんだよ……!!」
なにが起こったのかはわからないが、桃太郎の目的は、あの犬である。
桃太郎は道から外れた森の中へ脚を踏み入れた。
「犬殿ー!! ウキー!!」
「ピギョー!!」
桃太郎が追いついたとき、猿と雉の二匹は、眼前に広がる険しい崖を覗き込んでいた。
桃太郎も、二匹に倣って崖を覗き込む。
「クウーン……」
崖に突き出た細い木の枝に、犬がしがみついていた。
その枝は風に揺れ、今にも折れそうである。
「どうしようウキーッ!!」
「ピ、ピギョー……!!」
猿と雉はすっかりパニックに陥っていた。
そんな二匹を無視して、桃太郎は再度崖を覗き込む。
一瞬思案し――、それでも悩んだのはほんの数秒だった。
「な、なにしてるウキッ!」
「……うるせえ! そこで見てろ!!」
桃太郎は崖の端に手を掛け、ゆっくり下り始めた。
闇に包まれた崖の底は、どこまで広がっているのか全く想像が付かない。ただ風の音だけが、響いていた。
ゆっくりと、しかし確実に桃太郎は犬の元へと近付く。
そして、
「……掴まれ」
「……ワン……!」
桃太郎が伸ばした手が、しっかりと犬を抱こうとして――
「ぶわ!?」
「ワン!?」
強風に吹かれ、枝が折れた。
が、ギリギリのところで桃太郎の腕が犬の身体を抱き留める。
「はあ……。……これから上がるから、お前は背中にしがみついとけ」
「桃太郎さん……なんで……ワン……」
犬が桃太郎を見上げる。
しかし、桃太郎が犬の問いに答えることはなかった。
「犬殿ー!! ウキー!!」
「ピギョー!!」
無事崖を登り切った桃太郎は、満身創痍でその場に崩れ落ちた。
その背中から地面に降り立った犬は、桃太郎の頬を一舐めした。
「桃太郎さん、わたしはあなたを騙したのに……なんで助けてくれたんですか、ワン……」
「…………別に……お前を助けたわけじゃない。きびだんごを取り戻すためだ」
「ツンデレだウキー」
「ピギョー!」
「お前ら黙れ!!」
拳を振り上げた桃太郎から逃げるようにして、猿と雉が距離を取る。
「桃太郎さん、ごめんなさい、きびだんごは……崖に落としてしまいましたワン……」
「…………ったく……助け損じゃねぇか……」
痛む身体を無理矢理起こし、桃太郎は立ち上がった。
「桃太郎さん…………ありがとうワン」
桃太郎は何も言わなかったが、きっとこの声は届いたはずだ。
三匹はいつまでも、桃太郎を見送っていた。
藁葺き屋根の質素な家が、鬼の住処だった。
周りに人気はなく、森に囲まれた空き地に、ぽつんと建っている。
あたたかな日差しの下でうたた寝をする鬼に、桃太郎は堂々と正面から近付く。桃太郎に気が付いた鬼が、目を開いた。
「あれ? 桃太郎さん! こんなところまで、どうしたんですか?」
鬼は慌てて立ち上がると、着物に付いた土を払った。
その巨体を、桃太郎が見上げる。
「……けッ。俺は村の奴らのように甘くないぞ。なにせ、俺は『桃』から生まれた『妖怪』らしいからな……。俺が本気を出せば、お前なんぞ一捻りだぜ!(嘘)」
桃太郎が、所謂人間離れした特殊な力を使えたことはない。
しかし、このハッタリには自信があった。
幼い頃から、虐げられてきたのだ。
きっとこの鬼も自分を恐れるだろう、と。
しかし鬼は真剣な表情で、言った。
「えッ……。桃太郎さんが妖怪なわけないじゃないですか! むしろ怪しいのは、ぼくみたいな鬼で……だから、桃太郎さんは妖怪なんかじゃないです!」
「……」
予想外の展開に、桃太郎の頬が引きつる。
「そうだ、もうそろそろお昼にしようと思ってたんです。良かったら、桃太郎さんのお話聞かせてくれませんか?」
桃太郎は大きく息を吸い込み、自らに気合いを入れた。
そして、目の前にそびえる鬼の脚へ、渾身の拳を叩き込んだ。
が、鬼の分厚い皮膚はあっさり桃太郎の拳をはじき返す。痺れるような痛みが、拳から全身に伝わる。勝手に殴り、勝手にダメージを受けた桃太郎は、心身共に破壊され、その場に崩れ落ちた。
「ぎょあああああああああああああああ……!!」
「桃太郎さん!?」
鬼は桃太郎を支えようと手を伸ばすが、その手は振り払われる。
桃太郎の脳裏に、幼い頃から、現在まで、これまでの記憶が走馬燈のように蘇った。
記憶の中の自分は、いつも泣いていた。
そして、求めていた。
もう、認めるしかなかった。
――この鬼が、羨ましかった。
自分と同じ、人ならざるものにも関わらず、村人達に受け入れられている鬼のことが、憎らしくて、羨ましかったのだ。
桃太郎は、目頭を乱暴に着物の袖で擦った。
鬼がもう一度桃太郎に手を伸ばそうとして、
「――ピギョー!!」
桃太郎と鬼の間に割って入ったのは――
「雉!?」
そして、
「桃太郎さん! ワン!」
「桃太郎! おれらが来たからには安心しろ、ウキー!」
雉、犬、猿の三匹が、桃太郎を護るようにして鬼を睨み付けていた。
「な、なんでお前ら……」
犬が、肩越しに振り返る。
「……友達の危機を、放ってはおけません、ワン!」
「あの鬼をやっつけろ!! ウキ−ッ!!」
「ピギョー!!」
呆気にとられていた桃太郎だったが、三匹の雄叫びで我に返る。
「ちょ、ちょっと待て! そいつは……違うんだ……!」
桃太郎は一瞬躊躇うように視線をさ迷わせ、そして、口を開いた。
「……そいつは、と、と、いや、し、知り合い……だ。だから――大丈夫だ」
「桃太郎さん……」
鬼が、桃太郎を見つめる。
桃太郎はその視線に気付かないふりをして、そっぽを向く。
「なんだよ、心配させんなウキ」
「……お前なー……」
調子の良い猿に、桃太郎は呆れて言葉も出ない。
「みなさん、そろそろお昼にしませんか? 良かったら、一緒に食べましょう」
鬼の提案に、三匹は湧く。
きびだんごを食べ損ねて、お腹が空いていたのだ。
さっさと家の中へ消えてゆく三匹。
「さあ、桃太郎さんも!」
鬼の大きな手が、桃太郎の背中を押す。
「……ぼくが鬼ヶ島を出たのは、鬼と人の架け橋になりたかったからなんです」
「架け橋?」
「こうやって、鬼と人が仲良くできれば良いなって思うんです」
鬼の儚い願いは、叶う日が来るのだろうか。
それは途方もない願いに思える。
しかし、この鬼ならば、あるいは――。
羽子板が羽を打ち、心地良いリズムを刻んでいた。
「くらえ!!」
高く上がった羽を、桃太郎は地面に叩き落とす。羽は力なく地面に落ちた。
「……またかよ桃太郎! そういう遊びじゃねーんだよ!」
「ああ? 悔しかったら取ってみろ。文句を言うのはそれからだ」
悪びれた様子もなく、桃太郎はふんぞり返る。
そんな桃太郎に呆れた子供達は、その場から立ち去った。
「あ、あれ……?」
ひとり残された桃太郎は、途方に暮れる。
手をさしのべたのは、遠くから様子を見ていた鬼だった。
「桃太郎さん! 皆さんと仲良くしたいのなら、あれじゃあ駄目です!」
桃太郎はがっくり肩を落とす。
「……わ、わかってるっつーの! そう簡単にはいかねーよ! …………っと、もうこんな時間か」
桃太郎は今朝おばあさんからもらったあるものを思い出して、腰の袋に手を入れた。
「あー、なんだ……これ、ばあさんに言われて……その、べ、別に深い意味はないからな」
桃太郎が差し出したのは、ひとつのきびだんご。
鬼にとっては、少し小さいきびだんごだったが、大切そうにそれを受け取り、口に入れた。
「おいしいです」
「当たり前だ。ばーさんがつくったきびだんごだぞ。……さて。今日は収穫を手伝ってもらうからな」
「はい!」
少し前を歩く桃太郎を、鬼が追いかける。
二人の長く伸びた影が、今重なった。