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異記録叢書

脳髄回廊

作者: Hulanes
掲載日:2026/09/20

この文書は、某県某所にあった私立精神科療養院「甦生館《こうせいかん》」が昭和十一年に火災によって閉鎖された際、焼け残った書庫の奥から発見された一束の書類である。発見者の氏名は伝わっていない。整理番号も附されていない。ただ、表紙にあたる部分に「脳髄回廊」という四文字が、震える筆致で書きなぐられていたことだけが確かである。


編者はこの文書を可能な限りそのままの形で世に出すことにした。理由は単純である。手を加えようとして読み返すたびに、どこからどこまでが「記録」で、どこからが「創作」で、どこからが「事実」であるのかが、編者自身にも分からなくなっていったからだ。読者諸賢におかれては、以下の文章を、正気の人間が正気の人間に向けて書いた文章だとは、努々お考えにならないことをお勧めする。


さらに言うならば――これを読み終えたとき、あなたは自分が今この瞬間、この文章を「読んでいる」側の人間であることを、果たして疑わずにいられるだろうか。その疑いこそが、この書物の仕掛けた最初の罠である。


なお、編者はこの文書を整理するにあたり、専門家に鑑定を依頼することも考えた。しかし、依頼した鑑定人のうち二名までもが、原稿を一読した後、理由を明かさぬまま、突然、依頼を辞退してきたという経緯がある。三人目の鑑定人は、原稿の紙質と筆跡から、これが確かに昭和初期の文書であることを認めた上で、次のような、奇妙な感想を書き添えて返送してきた。


「この文書には、通常の文書には見られない、ある種の『癖』があります。読み進めるにつれて、文体そのものが、書き手の人格の変化に応じて、微妙に揺れ動いているのです。これは、単一の人物が一気に書き上げた文章というよりも、幾人もの異なる人格が、一冊のノートを、順繰りに回し書きしていったような印象を、私に与えます。もっとも、これはあくまで、一介の書誌学者の、根拠薄弱な感想に過ぎませんが」


編者は、この鑑定人の言葉を、当初は軽く受け流していた。だが、幾度も原稿を読み返すうちに、次第に、その指摘の重みを、痛感するようになっていった。


読者諸君は、この記録を読まなくてもよい。


それでは、始めよう。

   壱


   弐


   参


   数える


   肆


   伍

 

   陸


   まだ生きていない土塊の名前を


   漆


   数え奉る



第一章 鐘


ゴオオン……


という音で、二十代の男は目を覚ました。


いや正確に言うのならば……それは目を覚ましたのではなく、目を覚ましつつある自分という状態そのものに、初めて気がついたというべきなのかもしれない。……なぜなら、この端くれの私にはその直前の記憶が一片たりとも存在しなかったからである。


私が眠っていたのか……それとも生まれて初めてこの世に生を受けたのか……その区別さえつかなかった。だが体の重みはあり、四肢の先には冷たい感覚があり……そして耳の奥には、たった今聞いたばかりの鐘の音の余韻が、まだ渦を巻いて残っていた。


ゴオオン……


もう一度鐘が鳴った。低く太く、腹の底に響くような音だった。それは寺の鐘のようでもあり、船の号鐘のようでもあり、あるいは何か巨大な生き物の心臓の鼓動のようでもあった。


私は目を開けた……。


見えたのは灰色の天井だった。染みだらけの罅《ひび》の入った、いつ崩れ落ちてもおかしくないような天井。その染みの形がなぜか人間の顔に見えた。老いた女の顔だった。口を大きく開けて何かを叫んでいるように見えた。


不思議なことに、私はその染みの輪郭の一本一本を、まるで見飽きた自分の掌の皺のように、詳細に知っていた。ここの……この罅がこう曲がって、そこから染みがちょうど涙の形になっている。それを……私はこれまでに何度、見つめ続けてきたのだろうか。今この瞬間、生まれて初めてこの天井を見ているはずなのに、その確信だけがなぜか私にはなかった。


そして鼻先に漂う臭いにも、覚えがあった。石灰と消毒液と古い木材の匂い。それに混じって、かすかに、線香のような香りもした。誰かがこの部屋のどこかで、死者を弔ったことがあるのだろうか。それともこれから弔われるのは――私自身なのだろうか。


私は跳ね起きようとした。だができなかった。体が鉛のように重い。

「ようやくお目覚めですか」


声がした。


私は首だけを動かして、声のした方向を見た。白い上衣を着た若い男が立っていた。丸眼鏡の奥の目は、優しげでもあり、同時にひどく冷淡でもあった。その両方が同居していることに、私は妙な違和感を覚えた。


「……ここは」


私は尋ねようとした。だが、声帯がまるで錆びついた蝶番のように軋み、言葉にならなかった。


「ここは甦生館です。精神病者のための療養施設です」


男はそう言うと、私の枕元にあった椅子に腰を下ろした。


「あなたは七日間、眠り続けておられました。いえ、正確には『眠っていた』のかどうかも分かりません。医学的には、一種の緊張病性昏迷、あるいは解離性の遁走状態《とんそうじょうたい》にあった、ということになりましょうか。ですがこの館では、そのような呼び名にどれほどの意味があるのか、私は日々疑わしく思っております」


「私は……」


私は……記憶を……失っている。


「あなたが誰であるか、ということですね」

男は微笑んだ。その微笑みが、なぜだか私の背筋を冷たくした。


「それは、これからあなた自身が、思い出さねばならないことです。私にできるのは、あなたが思い出す手伝いをすることだけです。ああ、申し遅れました。私はこの館の医員で名を若槻《わかつき》と申します」


若槻。


その名を聞いた瞬間、頭の奥で何かがちりちりと音を立てた気がした。鈴の音にも似た、小さな、しかし決して無視できない音だった。


「あなたは私の名を、ご存知だったのですか」


若槻は身を乗り出して、そう聞いてきた。その目には、明らかな期待の色が浮かんでいた。


「いいえ……分かりません。ただ、何か、聞き覚えのあるような……」


「結構です。結構ですとも」


若槻は満足げに頷くと、懐から一冊の手帳を取り出し何かを書きつけた。


「では、単刀直入にお尋ねしましょう。あなたはご自分の名前を、思い出せますか」


私は考えた。考えようとした。だが頭の中には広大な、何もない空間が広がっているだけだった。まるで、家中の家具をすべて運び出した後の、がらんどうの座敷のようだった。壁も柱もある。だがそこに置かれていたはずのものが、何一つ見当たらない。


「……思い出せません」


「では、なぜここにいるか、覚えていますか」


「いいえ」


「昨日のことは」


「いいえ」


「一昨日は」


「いいえ」


若槻は溜息をついた。だがその溜息にも、失望というよりは、むしろある種の学術的な満足感が滲んでいるように、私には感じられた。


「よろしい。では今日はここまでにしましょう。あなたには休息が必要です。た、一つだけ申し上げておきます」


若槻は立ち上がり、扉に手をかけながら、振り返ってこう言った。


「あなたはある事件の関係者です。それも単なる関係者ではありません。この館において、あなたは極めて重要な――いえ、これ以上は今は申せません。追ってお話しいたしましょう」


扉が閉まった。


私は一人、灰色の天井を見上げたまま、老いた女の顔をした染みを、いつまでも見つめ続けていた。


そして、遠くでまた、鐘が鳴った。


ゴオオン……


その音を聞くたびに、私は妙な既視感に襲われた。この鐘の音を私はこれまでに何度、何度聞いてきたのだろうか。あるいは――これから何度、聞くことになるのだろうか。


夜になって、一人の付添婦《つきそいふ》が粥《かゆ》を運んできた。年老いて、痩せ細っている女であった。彼女は私の顔を一瞥すると、なぜか短く息を呑み、それから何も言わずに膳を置いて出て行った。一瞬の表情に、私は恐怖とも憐れみともつかぬ、それを確かに感じた気がした。


粥を口に運びながら私は自分の両手を、まじまじと見つめた。骨ばった、それでいて意外に節くれだった指。爪の間には、何かの黒い染みがこびりついていた。乾いた血のようにも墨のようにも見えた。私はそれを、暫くの間、拭い去ることもできずにただ見つめ続けていた。


窓の外は、いつの間にか完全に暮れていた。月の光が格子の影を、床の上に幾筋も落としている。その影の縞模様を眺めていると、なぜだか何かの楽譜の五線に見えてきた。もし本当にそうだとしたら、そこにはどんな旋律が記されているのだろう。そんな埒もない考えに耽(ふけ)りながら、私はいつしか、再び深い眠りへと落ちていった。


その眠りの中で、私は夢を見た。誰かが遠くで私の名を呼んでいる夢だった。だが、目が覚めたとき、その名前がどうしても思い出せなかった。ただ口の中に、その名の最初の一音節だけが、苦い後味のように残っていた。



   鐘の音がひとつ響くたび


   私の名がまた削られていく


   灰の天井、浮かぶ染み


   本当の顔を知るのは誰



第二章 医師の話



 三日後、私は若槻に呼ばれて、館長室へと向かった。


この廊下は、以前にも歩いたことがある。


曲がり角。


扉。


三つ目の扉。


その向こうに階段。


歩いたことがないはずなのに、私は全て理解していた。廊下の両側にずらりと扉が並んでいた。どの扉にも小さな覗き窓がついており、時折その奥から、うめき声や、独り言のようなものが漏れ聞こえてきた。ある扉の向こうからは、誰かが延々と数字を数える声が聞こえてきた。「いち、に、さん……」と数え、百に達するとまた「いち」に戻る。それを何度も何度も繰り返していた。


館長室に入ると若槻ともう一人、白髪の老人が机の向こうに座っていた。老人は深い皺の刻まれた顔をこちらに向け、値踏みするような視線を私に注いだ。


「彼が館長の、呉羽博士《くれははかせ》です」


若槻がそう紹介した。呉羽博士は、私に椅子を勧めると静かにこう切り出した。


「あなたに、事件の概要をお話ししましょう。あなたにはその権利がある。いや権利というより、義務と言うべきかもしれません」


呉羽は机の上に一枚の古い写真を置いた。写真には白無垢《しろむく》を纏った若い女性が写っていた。美しい、しかしどこか能面《のうめん》のように無表情な顔立ちだった。


「この女性の名は、千鶴と申します。当地の旧家、九条家のご息女で三月前、婚礼の夜に自室にて絞殺されました」


「絞殺……」


「ええ。しかも、犯行の凶器と目されるものは、いまだに発見されておりません。彼女の首には細い紐のような痕が残されていましたが、その紐そのものは、部屋のどこからも見つからなかったのです」


「私が、その事件と、どう関係しているのでしょうか」


呉羽と若槻は、顔を見合わせた。二人の間に何か暗黙の了解のようなものが流れたのを、私は感じ取った。


優に十数秒は続いたであろうか。壁の柱時計の振り子の音だけが、やけに大きく部屋の中に響いていた。私はその間、二人の顔を交互に見比べながら、自分の心臓の鼓動が次第に速まっていくのを感じていた。


やがて呉羽が深く息を吐き出しながら、机の抽斗から、もう一枚の写真を取り出した。今度の写真には、古い日本家屋の全景が写っていた。瓦屋根の連なりが、まるで幾重にも折り重なった獣の背のように見える、広壮な屋敷であった。


「これが、九条家の屋敷です。当地では『黒門《くろもん》の屋敷』と呼び習わされております。かつては近隣一帯の大地主であり、名字帯刀《みょうじたいとう》を許された家柄でした。今は当主も途絶え、残されたのは千鶴殿のご遺体と、屋敷を守る数名の使用人のみです」


「当主も、亡くなられたのですか」


「事件の翌朝、心臓発作にて。医学的には、極度の精神的衝撃による発作性の心不全と診断されております。ですが――」


呉羽はそこで言葉を切り、私の目をじっと見据えた。


「その診断書に署名したのは、他ならぬこの私です」


「あなたは九条家の縁者――正確には千鶴殿の婚約者として、婚礼の夜、屋敷に居合わせておられました」


私は言葉を失った。呉羽は続けて、事件の詳細な状況を語った。


「千鶴殿の遺体は、婚礼の衣装を纏ったまま、自室の布団の上に、仰向けに横たわっている状態で発見されました。両手は胸の上で組まれ、まるであらかじめ弔いの支度を整えられたかのような、奇妙に整った姿勢であったと聞いております。首には幅一分ほどの、細く鋭い痕が深々と刻まれておりました。検死にあたった医師の見立てでは、絹糸を撚り合わせたような、極めて細い紐が凶器であろうとのことでしたが、先ほども申し上げた通り、その凶器そのものは屋敷内のどこからも発見されませんでした」


「窓や襖に、不審な点は」


「一切ございません。部屋は内側から施錠されており、いわゆる密室の状態であったと記録されております。屋敷の使用人たちの証言によれば、事件当夜、婚礼の宴が終わった後、千鶴殿は一人で自室に下がられ、その後、誰も部屋に出入りした形跡はないとのことでした」


「では、私はどうやってその部屋に……」


「それが分からないのです。あなた自身がどうやってその密室に出入りしたのか。あるいは、そもそも出入りなどしていなかったのか。それすらも、今なお謎のままです」


呉羽は、一枚の見取り図を机の上に広げた。九条家の屋敷の間取りが細かく書き込まれていた。千鶴の部屋には赤い印がつけられ、その隣の間には小さく「新郎控えの間」と書かれていた。


「あなたは事件当夜、この控えの間で、休んでおられたはずでした。にもかかわらず翌朝発見されたのは、屋敷から半里ほど離れた裏山の中腹――ここです」


呉羽は見取り図の外側、余白に描かれた粗い地図の一点を、指し示した。


「この距離を、意識を失った状態で、一体どうやって移動したのか。それもまた、いまだに解明されていない謎の一つです」


さらに呉羽は、声を落としてこう付け加えた。


「もう一点、申し添えておかねばならないことがあります。裏山であなたが発見された際、その周辺の下草が広範囲にわたって、何かを引きずったかのように薙ぎ倒されておりました。まるで大きな荷物を、あるいは――人一人分の重さのものを、引きずっていったかのような跡です。ですがその跡の先には、何も見つかっておりません」


「では誰かが、私を運んだのだと」


「そうかもしれません。あるいは――あなた自身が何かを引きずって、そこまで歩いていったのかもしれません」


その可能性を口にした呉羽の声には、確信めいた響きは微塵も感じられなかった。


「そして、事件発生の翌朝、あなたは屋敷の裏山で意識を失った状態で発見されたのです。以来三月、あなたは記憶を完全に喪失したまま、この館で保護されております」


「私が……犯人だと」


「それは分かりません」


呉羽は静かに首を振った。


「ですが、あなたには、思い出していただかなければならないことがあります。なぜなら――九条家には、代々伝わる、ある呪いにまつわる巻物が存在するからです。そして、その巻物にまつわる伝説と今回の事件とが、恐るべき符合を見せているのです」


「呪いの巻物」


「ええ。それについては、これからお読みいただく資料の中に、詳しく記されております」


呉羽はそう言うと、机の引き出しから分厚い紙の束を取り出した。


「これは、当館の前身にあたる研究機関で、かつて主任研究員を務めておられた、火野教授という方が遺された論文です。表題を『遺伝旋律論』と申します。一見、荒唐無稽《こうとうむけい》な学説に見えるやもしれません。ですがこの論文を読まずして、あなた自身の――そして九条家の悲劇の――真相に近づくことは、到底できないと私は考えております」


「火野教授は、今どちらに」


呉羽は一瞬、目を伏せた。


「行方が分かりません。事件のあった夜以来、忽然と姿を消されたのです」


若槻がその紙束を私の手に押し付けるようにして渡した。その紙の束はひどく古びており、端の方は湿気で波打っていた。そしてなぜか――かすかに血の匂いがするような気がした。


「お部屋にお戻りになって、ゆっくりとお読みください」


若槻はそう言うと、私を部屋の外へと促した。

扉を閉める間際、私は呉羽博士のつぶやきを、確かに耳にした。


「――今度こそ、うまくいくといいのだが」


今度こそ。


その言葉が、いつまでも耳の奥にこびりついて離れなかった。



   この物語は僕のではないと


   叫び続けたこの唇が


   いつしかこの他人の悲劇ばかりを


   この喉の奥で何かが微笑んで

   

   この続きを催促していた



 部屋に戻ってからも、私は暫く、寝台に腰掛けたまま動くことができなかった。窓の外に広がる庭園には、手入れの行き届かない木々が、月明かりを浴びて、黒々とした影を落としている。その影の一つが、風もないのに、かすかに揺れたような気がした。


私は目を凝らした。だがそれはただの木の枝が、夜露の重みでしなっているだけであった。おそらくは。


紙束を手にとって、その重みを確かめる。ずしりとした、思いのほか厚みのある束だった。表紙には墨で「遺伝旋律論」とあり、その下に小さく掠れた文字で「関係者以外閲覧を禁ず」と書き添えられていた。


誰がこの文字を書いたのだろう。私は関係者なのだろうか、それとも――閲覧を禁じられるべき、部外者の側の人間なのだろうか。


その問いに答えの出ぬまま、私は表紙をめくった。



第三章 挿入文書・第一 遺伝旋律論



以下は、火野教授なる人物が遺したとされる論文の全文である。文体、用字ともに原本にできる限り忠実に転写した。


遺伝旋律論――脳髄は記憶を蔵する器に非ず、との仮説について


緒言


 記憶とは脳に保存されるものではない。


 記憶とは血液を流れる旋律である。


 ――という仮説を、私は長年唱えてきた。


世の学者たちは脳髄という器官を、記憶を貯蔵する倉庫のごとくに考えている。ある経験をすれば、それに対応する痕跡が脳の襞《ひだ》のどこかに刻まれ、その痕跡を後に呼び覚ますことが想起であると。まことに単純明快な理論であり、まことに幼稚な誤謬《ごびゅう》である。


もし脳髄が単なる貯蔵庫であるとするならば、なぜ双子の兄弟が互いに一度も会ったことのない環境で育ちながら、寸分違わぬ犯罪を寸分違わぬ齢において犯すという事例が、洋の東西を問わず頻発するのか。なぜある種の一族には、代を経てもなお、同一の妄想、同一の幻聴、同一の自殺方法が、まるで家紋のように受け継がれていくのか。


私はここに一つの仮説を提示する。すなわち――


記憶とは、脳髄の中に蔵められるものではない。記憶とは、血液の中を流れる一種の旋律であり、その旋律は、個体の生死を超えて、子から孫へ孫から曾孫へと、絶えることなく奏で継がれていくものである。


遺伝旋律論


記憶とは、脳に保存されるものではない。

記憶とは、血液を流れる旋律である。

――という仮説を、私は長年唱えてきた。


証拠は、ある。だが、証拠から先に語ることを、私は好まない。証拠とは、後から都合よく並べられるものだからだ。まず、事実だけを記す。


九条家の子供には、奇妙な共通点があった。彼らは皆、自分が生まれるより前に起きた事件を知っていた。

しかも、その記憶について尋ねると、全員が同じ答えをした。

「思い出したのではありません」

「最初から、知っていました」

その違いを、私は当時理解できなかった。


今も、理解できているとは言い難い。


九条家には、開いてはならぬ絵巻が一巻、伝わっている。中身については、ここには書かない。書けば、この紙自体が、その絵巻の続きになってしまう気がするからだ。


ただ一つだけ、書いておく。


絵巻に描かれた下手人の顔は、代替わりのたびに、その代の当主の顔へと、変わっていくのだという。


見た者は皆、そう証言する。見た者の数だけ、その証言は増えていく。


私はこれを、迷信だと笑うことが、できなかった。


――右手が、震える。誰かの手を借りて、私はこれを書いているような気がしてならない。


実験結果を、ここに記す。


ただし、これは私の実験結果ではない。


私がこの記録を書いている時点では、私はまだ、生まれていなかった。


『我が旋律を継ぐ者へ』

あなたもまた、この旋律の続きを奏でる者なのだから。


(火野の署名、以下判読不能)


私は論文を読み終えると、暫く茫然として、天井を見上げていた。


「あなたもまた、この旋律の、続きを奏でる者なのだから」

その一文が、まるで自分自身に宛てて書かれたもののように感じられて仕方がなかった。


そして――なぜだろう。私の右手も確かに震えていた。


私は自分に問いかけた。この震えは単なる、慣れない長文を読み続けたことによる、生理的な疲労に過ぎないのだろうか。それとも、火野教授が最後に記した、あの不吉な予言――「右手がひどく震えるのを感じる」という、あの一文と、私の今の状態とが、何か目に見えぬ糸で結ばれているのだろうか。


私は、自分の手のひらを、じっと見つめた。掌の皺の一本一本、指先の乾いた皮膚、爪の間にこびりついた、あの正体不明の黒い染み。これらはすべて間違いなく、私自身の肉体の一部であるはずだった。だが、その肉体の内側を流れる血液の中に、もし本当に見知らぬ先祖たちの記憶が――彼らの喜びや、憎しみや、絶望が――今もなお脈々と流れ続けているのだとしたら。


私という存在は、一体どこまでが「私」で、どこからが私よりも遥かに古い、名も知らぬ誰かの残響なのだろうか。


その問いは、あまりにも巨大で、あまりにも底が見えず、私は暫くの間ただ呆然とその問いの縁に立ち尽くすことしかできなかった。


窓の外では、いつしか雨が降り始めていた。硝子を打つ雨音が、まるで無数の細い指先が、こつこつと窓を叩いているかのように聞こえた。私はその音に耳を澄ませながら、火野教授という顔も知らぬ一人の学者の、追い詰められた末の筆致を、幾度も幾度も頭の中で反芻し続けた。



   血のなかを


   流れる旋律


   こえ閉ざす


   耳の奥底


   数を数えて



第四章 挿入文書・第二 絵巻の伝説



翌日、若槻が持ってきたのは、九条家の菩提寺の住職が書き残したという、古い写本であった。表題には「業縁絵巻由来記(ゆらいき)」とあった。


(以下、その全文を転写する)


昔、この地に九条の家ありき。当主、名を出雲守と申しき。


出雲守、若かりし頃、旅の絵師を屋敷に招き入れ饗応(きょうおう)せり。絵師の名を、宗円(そうえん)と申しき。宗円は、その画技まことに神妙にして、描く花はまさに薫るがごとく、描く水はまさに流るるがごとくなりき。


されど宗円には、一つの奇癖(きへき)ありき。すなわち人の顔を描くにあたり、必ずその者のまだ起こらざる未来の相を描く、というものなりき。


出雲守(いづものかみ)、これを面白がり宗円に命じて、我が家に伝えるべき絵巻を描かせんとせり。宗円、これを承り、七日七夜、閉じこもりて筆を執りたり。


八日目の朝、宗円、絵巻を完成させて出でたり。されどその顔色、まるで死人のごとく蒼白なりき。


「この絵は、決して開いてはならぬ」


宗円はそう言い置きて、屋敷を去りたり。以来、その行方、杳(よう)として知れず。


出雲守、宗円の言葉に従い絵巻を桐の箱に納め、蔵の奥深くに秘したり。されど好奇心、抑えがたく婚礼の夜、密かに一人、蔵に入りて箱を開けたり。


翌朝、花嫁が自室にて息絶えて発見されたり。首には細き紐の痕ありき。されどその紐、いずこにも見当たらざりき。


出雲守、これを見て悟りたり。宗円の描きし絵は、まだ起こらざる未来の相にあらず、必ず起こらしめる未来の相なるを。すなわちその絵巻は見る者の未来を、そのままに縛りつける呪物なりしを。


されど既に開けし箱を、再び閉じることは能わず。出雲守、絵巻を焼き捨てんとせり。されど絵巻いかなる火にも燃えず。土に埋めんとせり。されど三日にして、ひとりでに蔵の元の場所へと戻りきたりぬ。


出羽守、涙して申しき。


「この絵巻、我が一族と共に在らんとする意志を持てり。ならば我ら一族、これを封ずるにあらず、これと共に生きるほかなし」


かくして九条家、代々この絵巻を伝うることとなりぬ。その約定、次のごとし。


一、絵巻は、決して家の外へ出してはならぬ。

一、絵巻は、当主一代につき、一度だけ開くことを許す。

一、絵巻を開きし者は、その夜のうちに、絵巻に描かれし光景を、身をもって上演せねばならぬ。


この最後の約定こそ、まことに恐ろしきものなりき。すなわち、絵巻を開いた当主はその夜、絵に描かれた下手人として、絵に描かれた犠牲者を、絵に描かれた通りの方法によって、手にかけねばならぬというのである。


なぜかかる恐ろしき約定を、九条家は守り続けたのか。伝えて曰く――


「約定を破りし場合、絵巻に描かれし悲劇は、その夜のうちに終わることなく、幾世代にもわたって幾度も幾度も、繰り返され続けることとなる」


すなわち、一度の悲劇として上演し終わらせることによってのみ、その世代における呪いは完結し、一族は次の世代へと命をつなぐことができる。もし誰も上演しなければ、呪いは終わることなく、その血を引くすべての者の上に、際限なく降りかかり続けるのだという。


なおこの約定には、さらに恐ろしき但し書きの、ありたりと伝う。曰く――


「もし、絵巻を開きし者が、その夜のうちに上演を果たせざりし場合、あるいは上演を果たしたる後、その光景を自らの罪にあらずと心の底より否みたる場合、絵巻の中の光景は、新たなる一頁を自ずから加うることとなる」


すなわち絵巻とは、七代分の悲劇を描き終えて完結した書物ではなく、今なお描き足され続けている、未完の巻物なのだという。宗円という絵師が七日七夜かけて描いたのは、あくまで最初の一場面に過ぎず、それ以降の場面は九条家の人々自身が、その生と死とをもって自ら描き加えてきたのだ、と土地の古老は語り伝える。


さらに奇妙なることに、この絵巻を実際に目にしたことのある者――出雲守を含め、代々の当主のうち幾人か――は、口を揃えてこう証言したという。


「絵巻に描かれし下手人の顔は、一度目に見た時と、二度目に見た時とで、微妙に異なって見える」


ある者はこれを絵の劣化による錯覚であろうと片付けた。されど別のある者は、こう述べたり。


「あれは絵が変わるのではない。見る者自身が絵の中の顔に、少しずつ近づいていっているのだ」


住職、この由来記を記すにあたり、末尾にこう書き添えたり。


「われ、九条家の菩提を弔う者として、切にこの絵巻の焼却を願う。されど九条家の人々は、頑としてこれに応じず。曰く――『この絵巻を焼くことは、この地に生きるすべての者の上に、終わりなき呪いを解き放つことである』と」


「果たして、いずれが正しきや。われは知らず。ただこの記録を後世に遺し、賢明なる後の人の判断を仰がんとするのみ」


この由来記の末尾には、さらにもう一葉、別筆による紙片が添えられていた。そこには、五線を思わせる横線が幾本か引かれ、その上に古い仮名遣いで、短い歌詞のようなものが書きつけられていた。表題には「九条家子守唄」とあった。


(以下、その全文を転写する。旋律を示す記号の類は、原本には記されていない)


 ねんねん ころりよ 絵の中の仔は  いつまで待てども 目を覚まさぬ  開けてはならぬと 母は言えど  開けてしまえば もう戻れぬ


 ねんねん ころりよ 紐は白う  誰の手にあるやら 誰も知らぬ  朝が来るまで 歌うておくれ  朝が来たなら もう歌えぬ


住職の添え書きによれば、この唄は九条家の女中たちの間で、代々赤子をあやす際に、密かに歌い継がれてきたものであるという。表向きは単なる子守唄として扱われていたが、その実、一族の女たちの間では、この唄こそが絵巻の呪いを鎮めるための、一種の呪文であると信じられていたらしい。


住職はこの唄について、こう書き添えている。


「この唄を幼き頃より、繰り返し繰り返し聞かされて育った子は、たとえ絵巻の存在を知らずとも、成長した後、なぜかこの旋律を、ふとした拍子に口ずさむようになるという。まるで唄そのものが、当人の意志とは無関係に、体の奥深くに住み着いてしまうかのように」


読み終えて、私は紙束を取り落としそうになった。


「約定を破りし場合、絵巻に描かれし悲劇は、幾世代にもわたって、幾度も幾度も、繰り返され続けることとなる」


もし今回、誰も上演しなかったとしたら――千鶴という娘の死は、絵巻に描かれた光景の、忠実な再現ではなかったのだとしたら――


呪いは、まだ終わっていないということになる。


そして私はその呪いの続きを、これから演じさせられる役者の一人なのではないか。


そう思った瞬間、部屋の隅の暗がりから、かすかな衣擦れの音が聞こえたような気がした。私は震えながら振り返った。だがそこには何もなかった。


ただ壁に掛けられた古い鏡だけが、ぼんやりと部屋の様子を映し出していた。


その鏡に映る若い男の顔を見て、私ははっとした。


その顔は――どこか無表情な、能面のような顔をしていた。


まるであの写真の中の千鶴という娘の顔に、そっくりであるかのように。



  わたしはわたしだと言い張りながら


  館の扉をあとにした

  

  けれど歩く足取りの拍子さえ


  あの男と同じだと気づかずに



第五章 挿入文書・第三 手記



その夜、若槻が私の部屋を訪れ、一冊の手帳を差し出した。


「これは、あなたが事件当夜、身につけておられたものです。これまでお見せしなかったのは、あなたの精神状態への影響を懸念してのことでした。ですが呉羽館長はもはやその段階は過ぎた、あなたに全てをお見せすべきだと、判断されました」


手帳の表紙には何も書かれていなかった。だが開いてみるとそこには紛れもなく、私自身の筆跡――なぜかそれが自分の筆跡であると……直感的に分かった――こう記されていた。


(以下、手記の全文を転写する)


――彼は紙をめくった。


三月十日


千鶴殿との婚礼が、一月後に決まった。九条の家に婿として入ることに、正直なところいまだに実感が湧かない。だが千鶴殿の静かな微笑みを見るたびに、この縁談を受けて良かったと心から思う。


三月二十日


九条の屋敷にて、奇妙なものを見た。蔵の前を通りかかったとき、老いた女中が蔵に向かって手を合わせ、何事かをつぶやいていたのである。近づいて聞いてみると彼女はこう言った。


「若旦那様、この蔵の中の箱だけは決してお開けになりませぬよう」


理由を尋ねても、女中は震えるばかりで何も答えてくれなかった。


四月一日


千鶴殿と、初めて二人きりで話す機会を得た。彼女は驚くほど博識な女性で、特に絵画についての造詣が深かった。話の流れで私は蔵の中の絵巻のことを尋ねてみた。すると千鶴殿の顔色が、みるみる青ざめていった。


「あの絵巻のことは、どうかお忘れになってくださいませ」


千鶴殿はそう言うと、それ以上何も語ろうとしなかった。


四月五日


千鶴殿と庭園を散策した。彼女はふと立ち止まり、遠くの蔵を見つめながらこう呟いた。


「あの中に、何が入っているか、あなたはご存知ですか」


私は知らぬふりをして、首を横に振った。すると千鶴殿は寂しげな微笑みを浮かべながら、こう続けた。


「私は、幼い頃からあの蔵の夢ばかり見て育ちました。夢の中で、私はいつも誰かに首を絞められているのです。その誰かの顔はいつも違います。ある時は父の顔、ある時は見知らぬ老人の顔、そして――近頃は、あなたの顔をしていることが多くなりました」


私は言葉を失った。千鶴殿はそんな私の様子を見て、慌てたように付け加えた。


「ごめんなさい。変なことを申しました。どうか忘れてくださいませ」


だが私はその夜、彼女の言葉を、忘れることができなかった。


四月八日


九条家に出入りする漢方医の老人と、廊下で行き会った。彼は私の顔をまじまじと見つめると、独り言のようにこう漏らした。


「不思議なものよ。旦那様の若い頃とあなた様は、本当によう似ておられる」


「当主殿と、私がですか」


「いや」


老医師は首を振った。


「先代の旦那様でございますよ。私がまだ小僧の時分にお仕えした、先々代の旦那様に」


先々代。それは伝説の中に登場する、五代目の当主のことであろうか。井戸に身を投げたとされる、あの三代目ではなく。


私が問い質そうとすると、老医師はすでに、そそくさとその場を立ち去っていた。


四月十日


婚礼まであと十日。九条家の当主、すなわち千鶴殿の父君に呼ばれ、こう告げられた。


「婚礼の夜、そなたには我が家に伝わる一つの儀式に立ち会っていただかねばならぬ」


儀式の内容を尋ねると、当主は苦渋の表情を浮かべながら、蔵の中の絵巻について語り始めた。私はそこで初めて、あの「業縁絵巻(ごうえんえまき)」の存在と、その恐ろしい約定について知ることとなった。


当主は言った。


「わしは、この約定を破りたいと思うておる。もうこんな馬鹿げた迷信に、我が娘を犠牲にするわけにはいかぬ」


私は当主に賛同した。だが心のどこかで、言いようのない不安が、じわじわと広がっていくのを感じていた。


四月十二日


火野教授という人物が屋敷に到着した。当主から、絵巻を長年研究している学者であると紹介された。教授は初対面の私に対し、まるで旧知の間柄であるかのように、親しげに話しかけてきた。


「ほうあなたが。なるほど、なるほど。噂に違わぬ良い面構えをしておられる」


「噂、とおっしゃいますと」


「いや失礼。独り言です。お気になさらず」


教授はそう言ってごまかしたが、その目の奥には何か値踏みするような、冷たい光が宿っていたように、私には思われた。


四月十四日


夜半、ふと目を覚ますと、部屋の外の廊下を、誰かが行き来する足音がした。私は息を潜め、襖の隙間から、そっと外を覗いた。


そこにいたのは当主と火野教授であった。二人は蔵の前に立ち、小声で何やら言い争っているようだった。切れ切れに聞こえてきたのは、こんな言葉であった。


「――もう後戻りはできぬのだぞ」


「――分かっております。ですがあの若者を、本当に……」


「――呉羽先生の御指示だ。逆らうことは許されぬ」


呉羽。その名を私はこの時、初めて耳にした。だがなぜだろう、初めて聞くはずのその名に、私は妙な、身の毛のよだつような親しみを覚えたのである。


四月十五日


奇妙な夢を見た。夢の中で私は誰かの首を、細い紐で絞めていた。相手の顔はよく見えなかったが、その髪の長さ、体の細さからどうやら女性であるらしいことは分かった。


目が覚めたとき、私の右手には、確かに何かを握りしめていた感触が生々しく残っていた。


四月十六日


同じ夢の続きを見た気がする。絞め終えた後、私は何かを――紐のようなものを――口の中に含んで、飲み込んでしまう夢だった。目覚めた後、喉の奥にひどい違和感が残っていた。医務室で診てもらったが、異常はないとのことだった。


夜、鏡に向かって自分の喉を覗き込んでみた。奥の方に、何か細く白いものが見えたような気がしたが、それはすぐに、闇の中へと消えてしまった。おそらくは見間違いであろう。


四月十八日


再び同じ夢を見た。今度は相手の顔が、はっきりと見えた。


千鶴殿であった。


私は震えながら、この夢のことを誰にも話せずにいる。


四月十九日


不思議な安らぎを覚えている。奇妙な話だが、あの繰り返す夢を見るたびに、私は次第に恐怖よりも、むしろ懐かしさに似た感情を抱くようになっていた。まるでその夢が、私にとって初めての体験ではなく、幾度となく反復してきた、ある種の儀式であるかのような。


千鶴殿に、それとなく尋ねてみた。「もし、もう一度生まれ変わるとしたら、また私と結ばれたいと思われますか」と。彼女は少し驚いた顔をした後、静かにこう答えた。


「分かりません。ただ――もし生まれ変わっても、また同じようにこの庭で、あなたと同じ月を見上げているような気がいたします。それが幸せなことなのか、それとも悲しいことなのか、今の私には、判じかねますけれど」


その言葉が、今も耳に残って離れない。


四月二十日


婚礼の前日。当主から、こう告げられた。


「明日の夜、儀式として絵巻を蔵より運び出し、皆の前で開くことにした。もはや隠し立てはせぬ。皆で正々堂々と、この馬鹿げた迷信に終止符を打とうではないか」


私は賛成の意を示した。だがその夜また、あの夢を見た。今度は夢の中の自分の顔が――鏡に映るように――くっきりと見えた。


それは……私自身の顔ではなかった。


見知らぬしかしどこか、火野教授の写真で見た顔立ちに似た、初老の男の顔であった。


四月二十一日 婚礼当日


これより、婚礼の儀が始まる。


奇妙なことに、私は今、恐怖よりもむしろある種の――安堵にも似た感情を覚えている。


まるで、長らく待ち続けていた瞬間が、ようやく訪れようとしているかのような。


もし私が、この手記を書き終えた後、次に何が起こるのか、自分でも分からない。だがもし万が一、私の身に、何か取り返しのつかないことが起こったとしても――


どうか、これだけは覚えていてほしい。


私は、千鶴殿を心から愛していた。


――彼は紙をめくった。

――一枚。

――二枚。

――三枚。

――この時点で、彼はまだ知らなかった。


私は顔を上げる。

「……誰が――書いたのだ――……」


(手記は、ここで途切れている。以降のページはすべて白紙である。ただし最後のページの隅に、爪で引っ掻いたと思われる、判読困難な文字が残されている。かろうじて読み取れるのは、「わたしではない」という七文字である。)


彼は次の紙をめくった。

彼は今、この文章を読んでいる。


  鏡のなかに立てるのは


  殺された娘か


  殺した男か


  いま手首を締めあげれるのは


  決まって一人



手記を読み終えた私は、その場に凍りついたように動けなくなった。


「私は、千鶴殿を心から愛していた」


私は記憶を失っていた。


その言葉を書いたのが、紛れもなく自分自身であるという確信と、同時にその記憶が自分の中には全く存在しないという事実。この二つの矛盾が、頭の中で激しくぶつかり合い目眩がした。


そして――最後のページの、「わたしではない」という文字。

――この記憶は、私のもの……では……ない。……だとすれば、誰の……――記憶だ。



第六章 挿入文書・第四 症例記録



その日の午後、若槻は思い直したように、もう一冊の帳面を持って私の部屋を訪れた。表紙には「甦生館・特別観察記録 乙第(おつだい)一号より乙第六号」と記されていた。


「まだお見せするべきか、迷っておりました。ですが今のあなたには、知る権利があると思います」


若槻はそう言うと、帳面を私に手渡し静かに部屋を出て行った。


(以下、記録の抜粋を転写する)


乙第一号 被験者・火野三郎(当研究の発案者本人)


久条家分家の血を引く。実験の最初の被験者として、自ら志願す。三月にわたる資料閲覧の後、記憶の回復を報告。同時期、九条家において最初期の実験的悲劇(記録上は四代目の事件として偽装)が発生。事件後、本人は姿を消す。以後の消息不明。館内の伝承によれば、乙第一号は以降の実験においても、しばしば観察者」して、他の被験者の前に姿を現すことがあったという。これが同一人物によるものか、あるいは単なる幻視であるかは、判然としない。


乙第二号 被験者・氏名不詳 浮浪の身なり


九条家所縁の地にて保護。血縁関係の有無は確認できず。実験開始後、比較的早期に強い抵抗反応を示す。「これは自分の話ではない」との訴えを繰り返す。三月目にして突如として抵抗をやめ、以後は資料の内容をそのまま自らの記憶として語り始める。実験完遂後、廃人同様となり、当館の別棟にて静かに余生を送る。言葉を発することはもはやない。


乙第三号 被験者・九条家分家の青年


血縁関係、最も濃厚。実験開始後、驚くべき速さで記憶の統合が進む。開始よりわずか十七日にして、久条家の悲劇にまつわる詳細を、資料に記載のない部分まで、自発的に語り始めた。呉羽博士はこれを「旋律的記憶の直接的発現」として高く評価するも、被験者は実験完遂の前夜、自ら舌を噛み切り死亡す。


乙第四号 被験者・元教師の中年男性


九条家との血縁関係、皆無と推定される。実験は失敗に終わる。資料をいくら読ませても、これは他人の物語であるという認識を、最後まで崩すことはなかった。呉羽博士はこの症例から、旋律的記憶の覚醒には、やはり一定の血縁的素地が必要であるとの結論を得る。乙第四号は実験終了後、記憶を保持したまま、当館より退院す。ただし退院後の消息は追跡されていない。


乙第五号 被験者・氏名不詳 女性


九条家に嫁いだ女性の遠縁にあたるとされる。実験開始後、資料の内容と、被験者本人の実際の生い立ちとの間に、奇妙な符合が次々と発見される。すなわち被験者は実験開始以前から、既に九条家の悲劇に酷似した体験を、実生活において経験していたのである。これは旋律的記憶の存在を裏付ける、極めて重要な症例と見なされたが、被験者は実験完遂の直後、自らの体験と資料の内容との区別が完全につかなくなり、重度の解離性同一性障害を呈するに至る。現在も当館にて療養中。


乙第六号 被験者・氏名不詳 青年


前回の実験。本記録における、あなたの直前の先行者にあたる。実験は最後まで遂行されたが、完遂の瞬間、被験者は「わたしではない」という言葉を繰り返し叫びながら、当館の裏山へと逃走。翌朝、山中にて意識不明の状態で発見される。以後、記憶は完全に喪失され、現在に至るまで意識は回復していない。


――筆跡が……私のそれに似ているのは……偶然――なのだろうか。

――私はさらに下を読み進める。


※乙第六号本人には、この記録を読ませないこと。


――私はこの文章に取り込まれるように見入ってしまった。


絶対に読ませないこと。

――ただし、もう遅い


(担当医師による追記)


六件の症例を通じて明らかになったのは、旋律的記憶というものが、単に「思い出す」というだけの、受動的な現象ではないということである。それは被験者自身の意志――否といい然りという、その一挙一動――によって、絶えず形を変え続ける、能動的な生きた過程なのである。


次なる乙第七号の被験者に対しては、これまでの反省を踏まえ、資料の提示順序をより慎重に検討する必要があろう。特に被験者自身に、実験の構造そのものを、ある段階で開示することの是非について、呉羽博士と若槻医員との間で、意見の対立が生じている。


若槻医員は、被験者に真実を告げることで、かえって旋律的記憶からの「離脱」が可能になるのではないかとの仮説を提示している。一方、呉羽博士は、真実を告げてなお離脱できないことこそが、この理論の最終的な証明になると主張して譲らない。


なお、この意見の対立に関連して、次のような一文が記録の欄外に、呉羽博士自身の筆跡で、書き添えられている。


「若槻君の仮説には、一つの弱点がある。彼は自らが『離脱』に成功した唯一の例であると信じているようだが、私に言わせればそれもまた、旋律が彼に見せている、一つの形に過ぎぬのかもしれぬ。すなわち、『離脱した』という確信そのものが、この旋律の、最も巧妙な擬態である可能性を、彼はまだ考慮に入れていない」


この一文を読んだとき、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。もし呉羽の指摘が正しいのだとすれば、若槻自身もまた、自分では気づかぬまま、今もなおこの円環の内側に、深く組み込まれ続けていることになる。真実を語る者でさえ、その真実の在り処を確信することができない。この物語の恐ろしさは、まさにその一点に、集約されているのかもしれなかった。


いずれの説が正しいかは、乙第七号――すなわち、この記録を今、手にしているであろう、あなた自身によって、証明されることになる。


私は帳面を閉じ、暫くの間、指先の震えが止まらなかった。


自分は乙第七号なのだ。過去に六人もの人間が、この同じ部屋で同じ資料を読まされ、同じように記憶を回復し、そしてそれぞれに異なる、しかしどれも痛ましい結末を迎えてきたのだ。


そして、私という存在は――その七番目の実験として、今まさにこの瞬間を生きている。


その事実を知ってなお、私はこの後、資料を読み進めることをやめられなかった。まるで続きを知ることそのものが、既に旋律の一部に組み込まれているかのように。



  爪で刻みつけた「わたしではない」


  夜の裏山へ逃げ出しても


  脳髄の長い回廊からは


  一歩も出られてはいなかった



第七章 矛盾



翌朝、私は若槻に手記について問い質した。


「この手記に書かれていることが本当なら、私は事件の前日まで、はっきりとした記憶を持っていたことになります。それなのに、なぜ事件当夜のことだけが、すっぽりと抜け落ちているのですか」


若槻は、困ったような表情を浮かべた。


「それについては、私も呉羽館長も、明確な答えを持ち合わせておりません。ただ一つの仮説はあります」


「聞かせてください」


「あなたが体験した出来事は、あまりにも強烈すぎたために、通常の記憶の回路では処理しきれず、脳が『自己防衛』のために、その記憶を意図的に切り離してしまった、という可能性です。俗に言う、解離性健忘というものです」


「では、いずれ思い出せるということですか」


「かもしれません。かもしれませんが……」


若槻は言葉を濁した。


「かもしれませんが、何です」


「もう一つの可能性として――あなたが思い出す記憶は、必ずしも『事実』とは限らない、ということです。特に、火野教授の理論が正しいとするならば――つまり、記憶が血液を通じて先祖から伝わるものだとするならば――あなたが今後思い出すことになる『記憶』は、あなた自身の経験なのか、それとも九条家の先祖たちが経験してきた、代々の記憶の断片なのか、区別がつかなくなる恐れがあるのです」


私は心は錆びついていく。

「つまり、私が犯人であるという記憶が蘇ったとしても、それが本当に『私』の記憶なのか、それとも初代の下手人の記憶なのか、判断できないと」


「その通りです」


若槻は静かに頷いた。


「では、私がこれから思い出すであろう記憶は、確かめる術すらないということですか。それが真実の記憶なのか、それとも幾世代も前の、見知らぬ誰かの記憶の残響に過ぎないのか」


「残念ながら、その通りです。ただ一つ、火野教授が提唱していた、興味深い仮説があります」


「聞かせてください」


「教授は、旋律的記憶には、必ず特有の音が伴うと考えておられました。すなわち、それぞれの記憶の断片には、固有の旋律――音の連なり――が付随しており、その旋律を注意深く聴き分けることができれば、今、自分の中に蘇っている記憶が自分自身のものか、それとも先祖のものかを、判別できるはずだと」


「私はそのような旋律を、聴いたことがあるでしょうか」


若槻は、少し躊躇うような表情を見せた後、こう答えた。


「あなたは先ほど、無意識のうちに、ある旋律を口ずさんでおられました。ちょうどこの部屋にお連れする、少し前のことです」


自分がそのようなことをしていたという自覚は、まったくなかった。


「その旋律は、私自身のものだったのでしょうか、それとも――」


「分かりません。ただ、あなたがそれを口ずさんでいたとき、あなたの目はまるでこことは違う、遠い場所を見ているようでした」


「そしてもう一つ、申し上げねばならないことがあります」


「何でしょう」


若槻は、少しの間、視線を宙にさまよわせた。それから、意を決したように、こう切り出した。


「これは、まだ館長の許可を得ていないお話です。ですが、あなたには知っておいていただきたい」


「何でしょうか」


「私自身も、かつて――この館の、被験者の一人でした」


私は息を呑んだ。


「あなたが、ですか」


「はい。今から十二年前のことです。私もまた記憶を失った状態で、この館に運び込まれました。当時、私は九条家の遠縁にあたる者として、実験の対象に選ばれたのです。ですが私の場合は――先ほどご覧いただいた症例記録には、記されておりません。おそらく、意図的に除外されたのでしょう」


「なぜ、除外されたのですか」


「私は、実験の途中で、真実に気づいてしまったからです。資料を読み進めるうちに、これが仕組まれた虚構であることに、はっきりと気づいてしまった。そして、九条家の悲劇を『演じる』ことを、最後まで拒み通しました」


若槻の声は、静かだが確かな重みを持っていた。


「呉羽博士は、私のこの失敗をたいそう興味深く思われたようです。旋律から完全に離脱した、唯一の症例として。そして博士は私に、この館の医員としての職を与えました。おそらくは離脱者である私を、今後の実験の観察者として、間近で使いたかったのでしょう」


「ではあなたは、この実験の意義をどう思っておられるのですか」


若槻は、初めて、私の目をまっすぐに見た。


「分かりません。ただ一つ言えるのは――離脱したはずの私でさえ、今もなお、時折あの絵巻の光景を夢に見るということです。真実を知ってなお、旋律は完全には消え去ってくれないのです」


その告白は、私の中に新たな、しかしより深い恐怖を植え付けた。もし真実を知り、虚構だと理解してもなお、旋律から逃れられないのだとしたら――私に、一体何ができるというのだろうか。


「先ほどお読みいただいた手記――あれは、実は当館に保管されている複数の記録の、ほんの一部に過ぎません」


若槻はそう言うと書棚の奥から、もう一冊の手帳を取り出した。表紙は先ほどのものと全く同じであった。


「これは、九条家の当主、すなわち千鶴殿の父君の書斎から発見された手記です。日付はあなたのものと、ほぼ同時期のものです」


若槻は、私がその手帳を開く前に、一言付け加えた。


「申し上げておきますが、この当主の手記は、事件後、屋敷を整理していた者によって発見され、当館に届けられたものです。真贋の鑑定は、既に済んでおります。筆跡は、当主本人のものと相違ないとのことでした」


私はその手帳を受け取り、震える手でページを開いた。


(以下、当主の手記より抜粋)


四月二十一日(婚礼当日)


婿殿には、絵巻の儀式のことを話した。彼は快く協力を申し出てくれた。良い青年を娘の婿に迎えられたことを、心底嬉しく思う。


だが、実を言うと、私はまだ迷っている。本当に、絵巻を開いてよいものか。


婿殿の様子が、ここ数日、どこかおかしい。目つきが虚ろで、時折、私に向ける視線が、まるで見知らぬ他人を見るかのように、冷たく感じられることがある。


いや、これは私の思い過ごしであろう。単なる、婚礼を前にした緊張であるに違いない。


今宵、蔵より絵巻を運び出し、皆の前で開くことにする。この馬鹿げた迷信に、終止符を打つために。


これが、この手記の最後の記述である。


(当主本人は、事件の翌朝、屋敷内で心臓発作により死亡しているのが発見された。死因に不審な点はなかったとされている)


私は手記を閉じ、若槻を見上げた。


「当主の手記には、私が快く協力を申し出たと書かれています……しかし私自身の手記には……そのような記述はなく、むしろ迷いと恐怖に満ちていました……これは、どういうことでしょうか」


「私にも分かりません」


若槻は首を振った。


「ただ、もう一つ、極めて重要な事実をお伝えせねばなりません」


若槻の声が、心なしか低くなった。


「当館の記録によれば――事件当夜、九条家の屋敷にはあなたと当主、そして千鶴殿の他に、もう一人の人物がいたことが分かっています」


「もう一人」


「そうです。それは、行方不明になっている、火野教授です」


私は息を呑んだ。


「火野教授はあの絵巻の伝説を、長年にわたって調査しておられました。そして事件当夜、九条家に招かれ、絵巻を開く儀式に、学術的な立会人として同席していたのです」


「では、火野教授こそが真犯人だという可能性は」


「その可能性も、無論考えられます。ですが――」


若槻は、私の目をまっすぐに見据えた。


「これまで館長も私も、あえてあなたにお伝えしていなかったことがあります。それは――あなたが発見されたとき、あなたの持ち物の中に火野教授の懐中時計が、握りしめられていたという事実です」


私の心臓が大きく跳ねた。


「その時計の裏蓋には、こう刻まれていました。『我が研究を継ぐ者へ』と」



  「開けてはならぬ」と怯える指が

 

  吸い寄せられるように箱を暴く


  さあ、手帳のページがめくられる


  次の役者はあなたです



第八章 地下



ああ……私は眠ることができない。ああ……頭の中が……ああ、おかしくなった……みたいだ。

体の重みは、あるの……だが、四肢の先には冷たい感覚があり、視界に映るのは灰色の天井だった。染みだらけの罅の入った……崩れ落ちても、おかしくないような空である。その皺の形は人間の顔だ。……若い……女の顔だ。口は小さく……優しく笑っている……。


ああ、不思議だ……私はその染みの輪郭の一本一本を……まるで始めてみたかのように感じた。自分の掌の皺のように詳細に知っていた。ここの……この……罅が……こう……曲がり、そこから……染みがちょうど……締め付けられた首の形に……なっている。……私はこれまでに……。


無数の断片がぐるぐると渦を巻いていた。


手記に書かれた「わたしではない」という文字。 ――この文章を書いた「私」は、私ではない。当主の手記に書かれた、協力的な婿の姿。 自分の中に、その記憶がまるでないという事実。 そして火野教授の懐中時計。


――では、この文章を読んでいる「私」は?


……私は……ふと部屋の壁の一部が、わずかに動いているのに気がついた。目を凝らしてみると、壁の羽目板の継ぎ目から、かすかな光が漏れているのが見えた。


私は迷った末に、その羽目板を押してみた。すると驚いたことに、それは音もなく回転し、その向こうに、狭い通路が現れたのである。


最後の天の恵か。あるいは私を苦しめる悪の望みか。


だが好奇心か、それとも何か別の、抗いがたい衝動に突き動かされてか、私はその通路へと足を踏み入れた。


通路は下へ下へと続いていた。壁面には、ところどころに古びたガス灯が灯されており、揺らめく光が、壁に無数の影を這わせていた。段差の一つ一つに私は妙な既視感を覚えた。左足から降りるべき段、右足から降りるべき段。まるで体そのものが、この階段の刻み方を、頭よりも先に記憶しているかのようだった。


途中、壁に嵌め込まれた小さな額に気がついた。古い写真が収められていた。白衣の男たちが、五人ほど並んで写っている、集合写真であった。その中の一人の顔に私は目を奪われた。それは確かに、若い頃の呉羽博士であった。そしてその隣には――火野教授と思しき、痩身の男が写っていた。二人はまるで兄弟のように、親密げに肩を寄せ合っていた。


さらにその写真の隅、最も奥まった位置に一人の女性が写っていた。白い簡素な着物を纏った、若い女性であった。その顔立ちはあの写真で見た千鶴の顔と、そして手記の中に描かれていた千代という名の面影と、奇妙なほどに重なり合って見えた。


私はその額を外し裏返してみた。裏面には達筆な文字で、こう記されていた。


「甦生館研究部発足記念 大正十五年」


大正十五年。ということはこの写真は、今から十年以上も前のものということになる。だとすればこの実験は――九条家の悲劇にまつわる実験は、私が想像していたよりも、遥かに長い年月をかけて、練り上げられてきたものだったのだ。


私は額を元の場所に戻し、再び歩き出した。


やがて通路は、地下の広い空間へと繋がっていた。そこには何十もの扉が、迷路のように並んでいた。天井は低く、頭上を這う無数の配管からは絶え間なく……ぽたり……ぽたりと、水滴が落ちる音が響いていた。その音の間隔さえも、私にはどこか覚えのある律動に感じられた。


私はその扉の一つ一つを、通り過ぎながら眺めていった。ある扉の覗き窓からは、白髪の老女が壁に向かって、延々と何事かを語りかけている姿が見えた。よく耳を澄ませるとそれは、誰かへの詫び言のように聞こえた。「すまなんだ、すまなんだ」と。


また別の扉の向こうには、痩せこけた中年の男が、床に描かれた何かの図形を指でなぞり続けていた。その図形は、私の位置からはよく見えなかったが、幾重にも重なった渦巻き状の線であるように見えた。男は、その渦の中心にたどり着くたびに、満足げに頷き、そしてまた外側から同じ渦をなぞり始めるのだった。


私はその光景の一つ一つに、言いようのない既視感を覚えた。まるで、この光景を、これまでに何度も、この同じ通路を歩きながら、目にしてきたかのように。


そうしてさらに数間ほど進んだところで、私はその中の一つから、微かな話し声が聞こえることに気がつき、そっと覗き窓に目を近づけた。


そこにいたのは――呉羽博士であった。


呉羽は一人の患者らしき男に向かって、何やら熱心に語りかけていた。


「――ですから、今度は、うまくやっていただかねば困るのです。前回も、前々回もあなたは肝心なところで、記憶を取り戻してしまわれた。それでは実験になりません」


私は耳を疑った。「前回」「前々回」とは、どういうことなのか。


その患者が、ゆっくりとこちらを――いや、正確には、覗き窓のある扉の方を――振り向いた。


私は思わず、声を上げそうになった。


その男の顔は……――私自身の顔と……瓜二つだったのである。


いや正確に言うのならば、その顔は私の顔でもあり、同時にあの写真で見た火野教授の顔にも見え、さらには、九条家当主の顔にも見えた。まるで複数の人間の顔が、幾重にも重なり合って、一つの顔を形作っているかのようだった。


私の足は震えだした。床がガタガタと揺れるほどに。私は壁に手をつき、その場を離れようとした。だが……足がすくんで動かない……扉の向こうの男――私自身であり……火野教授であり九条家の当主でもあるその顔――は、依然としてこちらを見つめ続けていた。その口元が……ゆっくりと、笑みの形に歪んでいくのが見えた。


あなたは……誰……なのですか。


呉羽は、その男の頬に手を当てながら優しい声でこう続けた。

「あなたには感謝しています。この十年、あなたが我々に与えてくれた記録は、計り知れぬ価値を持つものでした。ですがあなたの役目は、もう終わりに近づいています。次なる担い手が、既にこの館に到着しているのですから」


次なる担い手。


その言葉が、私自身を指しているのだということに、私は遅ればせながら気がついた。呉羽の言う「あなた」とは、あの部屋の中にいる男のことでありながら、同時にこれから先、幾度となく繰り返されるであろう「乙第何号」のすべての被験者のことでもあったのだ。


私は思わず後退りをした。踵が石畳に擦れ、小さな音を立てた。


その音を、扉の中の男が、聞き逃すはずはなかった。彼は――否、「私」は――ゆっくりと、扉の方へと視線を向けた。……覗き窓越しに……二つの目がまっすぐに合った。



   火の……海の灰から掘り起こされ


   わたし……は今日も目をさます


   轟く鐘の音で


   また…………始まるために……



私は自分の意識の奥底で、何か巨大な扉が、軋みながら開かれていくような感覚を覚えた。まるで、長らく鍵をかけられていた蔵の扉が、今まさに開け放たれようとしているかのように。


だがその感覚は背後からの声によって、唐突に断ち切られた。


「そこで何をしておられるのですか」


振り返ると若槻が立っていた。その顔には、これまで見たことのない、冷たい表情が浮かんでいた。


「今の……部屋にいたのは……あれは、一体……」


「ああ、ご覧になってしまいましたか」


若槻は溜息をついた。


「仕方ありません。ここまで来たのなら、すべてをお話しするしかないでしょう」


若槻は私を、さらに奥まった部屋へと案内する前に、先ほどの部屋の扉を、静かに開けた。


中には呉羽博士と、あの「もう一人の私」だけが残されていた。呉羽は私の姿を見ても、特に驚いた様子もなく、むしろ待ちかねていたかのように、穏やかな笑みを浮かべた。


「来られましたか。ちょうど良い機会です。お引き合わせしましょう」


呉羽はそう言うと、椅子に座ったままの男を、手で示した。男は虚ろな目でこちらを見つめるだけで、言葉を発することはなかった。


「これは乙第六号です。あなたの直前の先行者にあたる方です。裏山で発見されて以来、意識はこうして戻ってはいるものの、言葉らしい言葉を発したことは一度もありません。ただ時折、誰かに向かって微笑みかけるような表情を見せることがあります。それが、あなたに対してであったことは、私にとっても興味深い事実です」


「なぜ……彼を……そのままにしておくのですか。治療の施しようは」


「治療、とおっしゃいますか」


呉羽は少し困ったような笑みを浮かべた。


「彼にとって、これが『病』であるのかどうか、私にはもはや判断がつきません。もしかすると彼は、この円環の外側に――我々には決して辿り着けない、ある種の平穏の中に身を置いているだけなのかもしれません。だとすれば、それを『治療』と称して掻き乱すことこそが、むしろ罪深い行為なのではないかと」


呉羽は立ち上がり、私の方へとゆっくりと歩み寄ってきた。


「あなたには、聞きたいことが山ほどあるでしょう。ですが私からも一つ、お尋ねしたい。あなたは今、恐怖を感じておられますか」


私は答えられなかった。


「それとも――どこかで、ほっとしてはおられませんか。ようやく自分という存在の輪郭が、はっきりと見えてきたことに対して」


胸の奥深くに、鋭くナイフのように突き刺さった。恐怖とそして否定しがたい、ある種の安堵。その両方が、確かに私の中に同居していたからだ。


「あなたのその表情こそが、答えです」


呉羽は満足げに頷くと、若槻に目配せをした。


「若槻君、続きを頼む。私はもう少しここに残ろう」


若槻は私を促し、部屋を出た。振り返ると呉羽が、乙第六号の頭を、まるで我が子をあやすかのように、優しく撫でているのが見えた。


若槻は私をさらに奥まった部屋へと案内した。そこには無数の資料棚と、一つの大きな机があり、机の上には、あの「業縁絵巻」と思われる、桐の箱が置かれていた。


「これはこの館において、長年にわたって続けられてきた、ある『実験』についてのお話です」


若槻は静かに語り始めた。


「火野教授の『遺伝旋律論』は、単なる机上の空論ではありませんでした。教授はその理論を実証するため、ある恐るべき方法を編み出したのです。それは――記憶を失った人間に、九条家の悲劇にまつわる資料を、順序立てて『読ませる』ことで、その人間の中に旋律的記憶を人為的に『覚醒』させる、という実験でした」


「まさか……」


「そうです。あなたが読んできた、論文、由来記、手記――それらすべては、あなたの記憶を回復させるための資料であると同時に、あなたという人間の中に九条家の『呪い』を、意図的に呼び覚ますための、装置でもあったのです」


「では……私は……この実験のために……意図的に選ばれた……被験者だったということですか」


「いいえ」


若槻は、悲しげに首を振った。


「あなたは、選ばれたのではありません。あなたは――幾度も幾度も、繰り返し、ここに『戻ってきた』のです」


「戻ってきた……?」


「この実験はこれまでに、少なくとも七度、行われてきました。そのたびに被験者は記憶を回復し、九条家の悲劇を再演し、そして事件の後、再び記憶を失ってこの館に運び込まれる。そこからまた、同じ資料を読まされ、同じ記憶を回復し同じ悲劇を再演する――その繰り返しです」


「なぜそんな、馬鹿げたことを……」


「火野教授は、この輪廻のごとき繰り返しの中にこそ、旋律的記憶の本質があると考えておられました。すなわち、記憶とは一直線に流れる時間の中で伝わるものではなく、円環のように何度も何度も、同じ地点に回帰しながら、少しずつその強度を増していくものである、と」


若槻は机の上の桐の箱に、そっと手を置いた。


「そしその円環の中心にあるのが、この絵巻です。この絵巻を開くたびに、悲劇は繰り返され、そのたびに、絵巻に描かれた光景は、より鮮明により確固たるものとなっていく。まるで、繰り返し弾かれることで、より深く刻み込まれていく旋律のように」


「では先ほど見た、あの男は……」


「あなたです」


若槻は静かに、しかしはっきりとそう言った。


「正確には、あなたの『前回』の姿です。この実験において、被験者は一人ではありません。同じ役割を演じるべく用意された、複数の人間が順番に、あるいは同時に実験に投入されているのです」


「そんな……」


頭を抱えた……眼の前がぐるぐると……廻り、牀が浪(なみ)打っているように感じられた。


「では……火野教授は……どこにいるのですか」


若槻は……机の上の桐の箱を見つめながら答えた。


「火野教授は、この実験の――最初の被験者でした」


喉が閉まるように、言葉が出なかった。


「教授は、自らの理論を証明するため、自ら被験者となることを望まれました。教授は、九条家の血を、実は密かに引いておられたのです。九条家の分家筋の、隠し子として生まれたのだと、後に判明しました」


「では、あの部屋にいた男は……」


「教授です。あるいは――あなたです。あるいは、その両方であり、同時にどちらでもない、何かです」


若槻の言葉は、もはや私の理解を超えていた。


「呉羽博士は、いつからこの実験に……」


「呉羽博士こそが、この実験の真の発案者です。火野教授は、博士の助手に過ぎませんでした」


私は震える声で尋ねた。

「呉羽博士は、何をしようとしているんですか」

若槻は答えない。


しばらくして、

「……私も、それを知りたいのです」


私は笑う。

「冗談でしょう」


若槻は視線をあわせなかった。

「君がそう言ってくれるうちは、まだ大丈夫ですよ」


「なぜ、そこまでして……」


若槻は悲しげな、しかしどこか達観したような表情で、私を見つめた。

「一つ言えるのは、呉羽博士はかつて、ご自身の娘さんを、精神の病で亡くされています。娘さんは、原因不明の幻覚と幻聴に苦しみ、最後は自ら命を絶たれました。博士はその原因を、突き止めようとされたのです。それが、遺伝、血、そして――旋律的記憶という、この理論の出発点でした」


私は暫く、何も言えなかった。


「娘さんの、お名前は」


若槻は、少し驚いたように、私を見た。


「なぜ、それを」


「分かりません。ただ、聞かねばならないような気がしたのです」


若槻は、ためらいがちに、口を開いた。


「千代、と申されました」


千代。千鶴。あまりにも近い響きの二つの名前が、私の頭の中で、こだまのように反響した。


「まさか、千鶴殿は……」


「いいえ。血のつながりはございません。ですが、呉羽博士ご自身は、千鶴殿の中に、亡くなられた千代様の面影を、重ねて見ておられたのではないかと、私は密かに思っております。あるいは、それこそが、博士が九条家の悲劇に、これほどまでに執着なさる、本当の理由なのかもしれません」


「では、博士にとって、この実験は――学問のためではなく」


「復讐、なのかもしれません。誰に対する復讐であるかは、博士ご自身にも、判然としていないのでしょうが」


その言葉を聞いた瞬間、私の中で、何か冷たいものが、すとんと腑に落ちるのを感じた。学問という体裁をまとった、老いた父親の、行き場のない哀しみ。それこそが、この地下深くに築かれた、円環する悲劇の、本当の設計図だったのかもしれない。


「若槻さん、あなた自身は……この実験に、どのように関わっているのですか」


若槻はふっと、力の抜けたような笑みを浮かべた。


「それは、まだ、あなたにお話しする時ではありません」



第九章 円環



若槻は、私を再び元の部屋へと連れ戻した。道すがら、彼はぽつりぽつりと、実験の詳細を語り続けた。


「この実験には、一つの重大な問題がありました。それは、被験者が完全に記憶を取り戻し、悲劇を『正しく』再演した場合、その被験者自身の精神が、耐えきれずに崩壊してしまうということです。ある者は自ら命を絶ち、ある者は完全な廃人となりました。そのたびに呉羽博士は、新たな被験者を必要としたのです」


「では……私も、いずれは……」


「分かりません。ただ今回は、これまでとは違う兆候が見られます」


「違う……兆候。そんな、ことで、……私が……なぜ……」


若槻は足を止め、私の目をじっと見つめた。


「あなたは、これまでの被験者の誰よりも、資料を読み進める過程で、強い『違和感』を表明しておられます。手記に残された『わたしではない』という走り書きも、これまでの被験者には見られなかった現象です。呉羽博士は、これを実験の失敗の兆候と見るべきか、あるいは――」


「あるいは……」


「あるいは、旋律そのものが、初めて『自らを認識し始めた』証拠と見るべきか、判断しかねておられます」


部屋に戻ると、若槻は最後に一つの封筒を私に手渡した。


「これは、呉羽博士から、あなたへの伝言です。今、読むべきかどうかは、あなた自身の判断にお任せします」


若槻が去った後、私は一人その封筒を見つめ続けた。


開けるべきか……開けざるべきか……。


耳の奥でこれまで聞いてきた声たちが、重なり合って合唱を始める。 第一の鐘が鳴り、唇が他人の悲劇を語り、血の味が蘇り、能面のような自分の顔が鏡に浮かび上がる——。


「――開けてしまえば、もう戻れぬ」


八つの声がひとつの太い旋律となって頭蓋を揺さぶる。 それは過去にここに立ち、同じように箱を開けてきた「乙第一号」から「乙第八号」までの、私であり私ではない者たちの最後の手記だったのだ。


「私はもう、戻らない」

私はその封を切った。中には一枚の便箋が入っていた。


(以下、便箋の文面)


拝啓


これを読んでいるということは、あなたは既にこの実験のすべてを、若槻から聞いたということでしょう。


私はあなたに、一つだけ真実を告げねばなりません。


九条家の絵巻に描かれた悲劇――それは実は、絵巻が予言したものではありません。あの絵巻はそもそも、この私が火野教授と共に、九条家の歴史を偽造するために作り上げた、贋作(がんさく)なのです。


すべては、私の実験のために、仕組まれたものでした。宗円という絵師も、由来記も、七代にわたる悲劇の記録も、すべて、私と火野が、長い年月をかけて捏造したものです。


千鶴という娘の死は――呪いによるものではありません。それは、私が、火野に命じて、実行させたものです。


なぜそんなことをしたのか。あなたには理解できないかもしれません。しかし私は、どうしても、確かめたかったのです。人間の精神というものが、繰り返し与えられる暗示によって、どこまで容易く、他者の運命を、自らのものとして「思い込む」ことができるのか。


そして、その思い込みは――何度繰り返せば、本物の「記憶」へと、変わり果ててしまうのか。


あなたは、その問いへの、七人目の答えです。


もし、あなたが、この手紙を読んでもなお、九条家の悲劇を、自分自身の罪として受け入れてしまうのだとしたら――


それこそが、私の求めていた、答えなのです。


追伸。もしあなたが、この真実を知った上で、なお全てを演じきることを選ぶのだとしたら、それこそが、記憶というものの、本当の恐ろしさを証明することになるでしょう。人は、真実を知ってさえ、物語から逃れられないのですから。


呉羽


読み終えた私は、暫(しばら)くの間、体が痺れるように動かなくなっていた。これが、答えなのか。すべてが、贋作だったのか。呪いなど、初めから存在しなかったのか。私が読まされてきた論文も、由来記も、手記でさえも、すべては呉羽博士という一人の老人が自らの学術的探究心――あるいは狂気――のために、綿密に作り上げた、壮大な虚構だったのだ。


私は記憶を失ったことにされている。


「私は……―――記憶を―――失し―――なって」


ブルブル―――……―――ブルブル―――


お前の右手の震えは止まらない。


千鶴という娘の顔を思い浮かべると、お前の胸の奥が締め付けられる。お前があの婚礼の夜のことを思い出そうとすると、指先に細い紐の感触が、生々しく蘇ってくる。


それが、本当に「お前」の記憶なのか、それとも繰り返し読まされた物語によって、後から植え付けられた「思い込み」に過ぎないのか――もはや、お前自身にも判別することができないであろう。


お前は……ふと―――乙第一号―――乙第六号までの、六人―――被験者たちのことを―――思い出した……。彼らもまた、この同じ部屋で、この同じ夜に同じように―――真実と虚構との間で、引き裂かれていたのだろう―――か。ある者―――は舌を噛み切り、ある者は―――言葉を失い―――ある者は……山中で気を失った。そして七人目であるお前―――もまた―――、彼らと同じ分岐点に立たされている。


だとすれば、お前に残された選択肢とは一体何なのだ?


一つ。すべてを虚構と割り切り、この部屋に留まり続けること。だがそれが果たして解放であるのかどうか、お前には確信が持てなかった。なぜならたとえ頭では虚構だと理解していても、お前の右手の震えは一向に収まる気配を見せなかったからだ。


二つ。真実を確かめるべく、九条家の屋敷へと赴き、絵巻をあるいは自らの中に眠る何かを、開いてみること。だがそれは同時に、乙第七号としてのお前が、これまでの六人と同じ道を辿ることを意味していた。


三つ目の選択肢が、果たして存在するのかどうか、お前には分からなかった。だが少なくとも、この部屋に座り込んだまま、朝を待つという選択だけは、もはやお前には耐え難いものに思われた。


お前はふらふらと立ち上がり、窓辺へと向かった。窓の外には暗い夜空が広がっていた。


そのとき、遠くでまた鐘が鳴った。


ゴオオン……


その―――音を聞いた―――お前の頭の中に―――……突如として―――鮮明な光景が蘇ってきた。


婚礼の夜―――白無垢を纏った千鶴。蔵から―――運び出された、桐の箱―――皆の前で開かれる絵巻。そして――絵巻に描かれた光景を見た瞬間、お前の中の何かが―――まるでスイッチが切り替わるよう……に、変貌していく―――感触。


その先の記憶は―――まだ戻ってこない。だが―――お前は確信―――していた。


もし、今夜、お前がこの部屋を抜け出し、もう一度、久条家の屋敷へと向かうことができたなら――そこで、私はきっと、すべてを思い出すだろう。


お前はそして思い出した――――――久条だと―――……永遠―――に続く―――お前はきっと、それを演じてしまうだろう。


真実が贋作であることを知ってなお。


―――ああ

「ねんねん ころりよ 絵の中の仔は  いつまで待てども 目を覚まさぬ  開けてはならぬと 母は言えど  開けてしまえば もう戻れぬ。ねんねん ころりよ 紐は白う  誰の手にあるやら 誰も知らぬ  朝が来るまで 歌うておくれ  朝が来たなら もう歌えぬ」


――それは、あの由来記の末尾に添えられていた、九条家子守唄の一節に、他ならなかった。


お前は、あの唄をこれまで一度も、誰かに歌ってもらった記憶がない。にもかかわらず、その旋律は、まるで生まれた時からずっと、お前の内側で鳴り続けていたかのように、あまりにも自然に、喉の奥から溢れ出てきたのだった。


「―――開けてしまえば―――もう戻れぬ―――……」


その一節を―――口ずさんだとき……お前の足は既に―――あの地下への通路へと向かって、動き出していた。

お前は部屋の扉に手をかけた。鍵はかかっていなかった。


廊下は―――しんと静まり返っていた。お前―――は足音を忍ばせ―――ながら……―――あの地下への通路を目指して―――歩き出した。


歩きながら、お前はふと―――お前の口から……―――


……まるで―――生まれる前から―――知っていたか―――……のように。


長―――廊下を抜け、地下への階段を降りていくと、やがてお前はあの資料室へとたどり着いた。机の上には、あの桐の箱が、静かに置かれたままだった。


お前はその箱に、そっと手を伸ばした。


指先が箱の蓋に触れる。冷たい―――桐特有の―――乾いた―――。だが……その―――冷たさの奥――――――かすかな、熱の、ようなもの……が―――確かに感じられ―――まるで……―――この―――箱の―――中に……何か生きたものが――――――……閉じ込められているか……のよ……うに。


蓋の合わせ目に―――指をかける。ほんの―――少し力を……込め―――この蓋は開く―――開けば……その中には、宗円という絵師が―――七日―――七夜……かけて―――描いた……というあの―――……絵巻が……眠っ……てい……るはず……だった―――。


お前は、お前自身に問いかけた。


――お前は―――これを開きたい……のか。それとも……開かねばならないと―――思い込まされている……だけなのか。


お前は記憶を失ったことにされている。

――誰によって?


――明確な――答えを……出すことは、ついにできなかった。ただ――――指先の震えだけが――――蓋を開けることを……まるで最初から決まっていた――――結末であるかのように……促し続けていた。


背後でかすかな足音がした。お前は振り返らなかった。それが呉羽博士のものなのか――若槻のものなのか、あるいは――あの地下の部屋にいた「もう一人のお前」のものなのか、――――お前は確かめる勇気はなかった。


「開けてはならぬ」


そうお前自身に言い聞かせようとした。だがその声は、まるで他人の声のように、遠く頼りなく響いた。それどころか、――――その声に重なるようにして、耳の奥で、――あの子守唄の――一節が、静かに鳴り始めていた。「開けてしまえば、もう戻れぬ」――そう歌う声は、――――お前自身の声でありながら、同時に、これまで幾度も――この箱の前に立ってきたであろう、名も――――知らぬ先達たちの声のようにも、聞こえてならなかった。


そして――お前の指は、ゆっくりと――しかし確実に、蓋を持ち上げていった。


中から現れたのは、古びた一巻の絵巻であった。錦の紐で結わえられ――長い年月の重みに、端の方が黄ばみ、脆くなっていた。お前はその紐に……指をかけた。


結び目を解くのに――……さほど時間はかからなかった。まるで……その紐自体が――解かれることを、待ち焦がれていたかのように――――……


ド――……――ドド――――ドドド――……――ドドドド――――


絵巻がするりと開いた。


そこに描かれていたのは――


お前は――……それ以上を――……――書き記すこと――……ができない。……いや――――正確に……言うのならば――……――その先の記憶が、……お前――……の中には……存在しない――のだ――。絵巻――を開いた――――次にお前――が――覚えているのは――ただ――あの音だ――けである――


そして――


ゴオオン……


という音で、二十代の私は目を醒ました。


いや……正確に言うのならば……それは……目を醒ましたのではなく、目を醒ましつつある自分という状態そのものに……初めて気がついたというべきなのかもしれない。……なぜなら、この端くれの私の記憶はすべて……


そして天井を見た。染みだらけだった。体が本当に鉛のように重い。


「ようやくお目覚めですか」


声がした。私は首だけを動かして、声のした方向を見た。白い上衣を着た、若い男が立っていた。丸眼鏡の奥の目は、優しげでもあり同時にひどく冷淡でもあった。


「……ここは」


私はそう尋ねようとした。だが、声帯がまるで錆びついた蝶番のように軋み、言葉にならなかった。


「ここは甦生館です。精神病者のための療養施設です」


男はそう言うと、私の枕元にあった椅子に腰を下ろした。


「あなたは、七日間、眠り続けておられました……」


その声を聞きながら、私は、ぼんやりとこう思った。


――ああ、また、ここから、始まるのか。


そしてもう一つ、こうも思った。


――いや、待て。「また」とは、どういう意味だ。私はこれを、初めて経験しているのではないのか。


その疑問さえも、次の瞬間には、灰色の霧の中に溶けて消えていった。


若槻は私の額に手を当てながら、静かにこう続けた。


「あなたには、思い出していただかなければならないことがあります。ですが今日は、これくらいにしておきましょう。あなたには休息が必要です」


その口調、その言葉の運び方――すべてが、あまりにも聞き覚えのあるものだった。まるで台本に書かれた台詞を、寸分違わず読み上げているかのように。


若槻が部屋を出て行った後、私は一人、天井の染みを見つめ続けた。老いた女の顔をした、あの染み。口を大きく開けて、何かを叫んでいる、あの顔。


ふとその口の形が――以前見た時よりも、心なしか、大きく開いているように感じられた。まるで、叫び声が、少しずつ、その音量を増しているかのように。


私は目を閉じた。瞼の裏に、無数の光景が、めまぐるしく去来した。灰色の天井。白衣の若槻。九条家の屋敷。千鶴の白無垢。絵巻の中の光景。地下の部屋にいた、もう一人の自分。呉羽博士の疲れた眼差し。そして――まだ見ぬ、乙第八号となるはずの、次なる誰かの影のような輪郭。


私は、これから再び、あの論文を読まされることになるのだろう。「遺伝旋律論」という表題の、あの古びた紙束を。そして、あの由来記をあの手記を、あの症例記録を、また一から読み進めていくことになるのだろう。


だが――今度は少しだけ違うかもしれない、という予感が私の中にかすかに芽生えていた。


なぜなら、今この瞬間、私は既にこれがすべて「繰り返し」であるということをうっすらとながら、感じ取っているからだ。乙第七号としての記憶――呉羽の告白、若槻の告白、地下で見たもう一人の自分の姿――それらは、完全に消え去ったわけではなく、意識の奥深く、まるで水面下に沈んだ小石のように、確かにそこに在り続けているのではないか。


だとすればこの円環は、本当に……寸分違わぬ繰り返しなのだろうか。それとも……一周するたびに、ほんの少しずつ――誰にも気づかれぬほどのわずかな角度で――その軌道を変え続けているのではないだろうか。


窓の外で、鐘がもう一度鳴った。


ゴオオン……


その音を聞きながら、私はふと、こんなことを考えた。


もしこの円環が、幾度も幾度も繰り返されるうちに、少しずつ、その形を変えていくのだとしたら――七度目の私は、六人の先達たちよりもほんの少しだけ、真実に近づいているのではないだろうか。そして、いつか訪れるであろう、まだ見ぬ乙第八号、乙第九号もまた、私よりもさらに真実に近づいていくのではないだろうか。


だとすれば、この繰り返しの果てに、待っているのは絶望だけではないのかもしれない。


そんな根拠のない、しかしどこか温かい予感を抱きながら、私は再び深い眠りへと落ちていった。


その眠りの中で、私はあの旋律をまた口ずさんでいた。生まれる前から知っていたはずの、あの旋律を。


――ねんねん ころりよ 絵の中の仔は  いつまで待てども 目を醒まさぬ  開けてはならぬと 母は言えど  開けてしまえば もう戻れぬ


 ねんねん ころりよ 紐は白う  誰の手にあるやら 誰も知らぬ  朝が来るまで 歌うておくれ  朝が来たなら もう歌えぬ


この唄の続きを私はいつか、最後まで歌い終えることができるのだろうか。それともこの唄もまた、九条家の絵巻と同じように、決して描き終えることのない、未完のまま歌い継がれ続ける、円環の一部に過ぎないのだろうか。


そんな問いを、まるで子守唄の続きのように、頭の奥で繰り返しながら、私はゆっくりと深い眠りの底へと沈んでいった。


ゴオオン……


その音は、いつまでもいつまでも、鳴り止むことがなかった。



第十章 挿入文書・第五 新聞記事



(発見された書類の束の最後には、以下に転写する、一枚の新聞の切り抜きが、挟み込まれていた。紙面は黄ばみ、日付の部分は破れて判読できないが、記事の内容から、火災による閉鎖の直前――昭和十一年頃のものと推定される。)


私立療養施設「甦生館」にて怪火 入院患者数名、行方不明


某郡某村に所在する私立精神科療養施設「甦生館」において、去る未明、原因不明の火災が発生し、建物の一部を焼失した。出火場所は施設の地下にあたる旧研究棟と見られている。


施設関係者の話によれば、火災発生当時、地下研究棟には、館長である呉羽某氏(七十二)と、複数の入院患者が滞在していたとみられるが、火災後、呉羽氏の姿は確認されておらず、行方が分かっていない。


また、当該研究棟に長期入院していたとされる患者数名についても、遺体は発見されておらず、消息は不明のままである。捜索は現在も続けられているが、地下部分の崩落が激しく、難航が予想されるという。


施設の医員を務めていたという若槻某氏(三十四)は、消防および警察の聴取に対し、次のように証言している。


「あの地下には、我々医員でさえ、立ち入りを禁じられていた区画がありました。館長がそこで具体的に何をしておられたのか、私には最後まで分かりませんでした」


なお火災現場からは、大量の医療記録および、内容不明の古文書の類が発見されたが、そのほとんどは火勢によって判読不能な状態にまで焼損しているという。


焼け残ったわずかな資料の中には、一巻の絵巻物と思われる遺留品があったが、消防関係者によれば、この絵巻もまた、他の資料と同様、炎に包まれる中で完全に灰と化したとされている。


――ただし、この記事を追跡取材した記者は、次のような、奇妙な噂を地元の古老から聞き及んでいる。


「あの絵巻は、燃えなんだよ。前にも一度、燃やそうとして、燃えなんだことがあったからね。今度もまた、灰の中からそのままの形で見つかったそうな。誰が持ち去ったものか、それとも誰かがまた、あの蔵にでも隠したものか――わしにゃ、分からんがね」


真偽のほどは、定かではない。


(記事はここで途切れている。切り抜きの余白には、鉛筆で小さく、こう書き添えられている。「乙第八号、発見さる」)


この記事を読んだとき、私――すなわちこの文書全体の編者である私は、思わず原稿の束を取り落としそうになった。


「乙第八号、発見さる」


その一文が、いったい誰の手によって、いつ書き加えられたものなのか、私には知る由もない。だが、もしこの記事の内容が事実であるとするならば――そして、この走り書きが事実を指し示しているとするならば――


あの実験は、火災による施設の閉鎖をもってしても、終わっていなかったことになる。


そして、乙第八号という存在が、実際に「発見」されたのだとすれば――その者もまた、今この瞬間、どこかで、あの灰色の天井を見上げ、鐘の音を聞いているのかもしれない。


あるいは――この文章を、今まさに読んでいるあなた自身が。



跋(ばつ)



以上をもって、発見された文書はすべて終わっている。


編者として、最後に一つだけ、申し添えておきたいことがある。


この原稿を清書するにあたり、編者は幾度となく読み返しを行った。その過程で奇妙なことに気がついた。読み返すたびに、細部の記述が、微妙に、しかし確実に変化していくように感じられるのである。ある時は「若槻」という名の医師が優しげに描かれ、またある時は同じ場面が、どこか冷酷な筆致で描かれているように読めた。ある版では、症例記録に記された被験者の数が六名であったはずが、別の版を読み返すと、いつのまにか七名に増えているようにさえ感じられた。


編者の記憶違いであろうか。それともこの文書そのものが、読むたびに――否、読む者自身の内側で、少しずつ形を変えていく類の、ある種の生き物なのであろうか。


編者は、この疑念を確かめるべく、原稿の複写を三部作成し、それぞれを別々の知人に預け、後日、内容を照合するという試みを行った。結果は――ここに記すことを編者は躊躇う。三部の複写は、細部において、微妙に、しかし確かに食い違っていたのである。


ある複写には、九条家の当主の名が「出雲守」と記されていたが、別の複写では同じ箇所が「出羽守」となっていた。またある複写では、火野教授の懐中時計の裏蓋の文言が「我が研究を継ぐ者へ」であったのに対し、別の複写では「我が旋律を継ぐ者へ」となっていた。


一文字、あるいは一語の違いに過ぎない。だがその違いの一つ一つが、まるでこの物語そのものが、複写されるたびに、ほんの少しずつ、自らを書き換え続けているかのような、そんな薄気味悪さを編者に抱かせるのに十分であった。

最後に、表題について


なぜこの文書に「脳髄回廊」という表題が付されているのか、その由来については、編者もまた、明確な答えを持ち得ていない。ただ、原稿の綴じの隙間から見つかった、一枚の小さな紙片に、次のような書き込みがあったことを、最後に記しておく。


「脳髄とは、記憶を蔵める箱ではない。脳髄とは無数の扉が並ぶ、一つの長い回廊である。その扉の一つ一つの奥には、まだ生まれていない誰かの記憶が、静かに、順番を待っている」


これを書いたのが、火野教授であるのか、呉羽博士であるのか、あるいは、乙第一号から乙第八号までの、いずれかの被験者であるのか――それは、もはや誰にも分からない。


本稿を読まれた方へ。

読了後、しばらく鏡をご覧にならないことを勧める。

理由は記さない。

記してしまえば、それが記憶になってしまうからである。


(本文、了)

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