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第9話:霧と烏と、毒の旋律

 辺境の森に、霧が降りた。


 それは静かに、しかし確実に足音を消して侵入する盗賊のように、診療院の屋根をなぞり、井戸の縁を舐め、軒下にまで忍び込む。あまりの濃霧に、薬棚の窓から見えるはずの林すらも霞んでいた。


「今朝は、ひどく湿っていますね」


 診療院の厨房で、調薬を終えたばかりの春蘭が呟いた。


 背後では、医療助手のヨナが薬草を乾燥棚に並べている。彼女はくるりと振り向くと、小さくうなずいた。


「ええ。今朝、井戸の水も妙に澱んでいて。底に何か、黒いものが……」


 私は手を止めた。


「黒い?」


「はい。泥でも流れ込んだのかと。でも、表面は澄んでいるのに、底だけ妙に黒いんです」


 このあたりの井戸水は深い地層を抜けた清水で、底が濁るようなことは滅多にない。私は眉をひそめ、手袋を嵌め直すと、外套を手にした。


「診てきます」


「わたしも行きます」


 ヨナが手早く身支度を整えると、ふたりは診療院の裏手にある井戸へと向かった。


 


 霧のなか、木製の井戸櫓はまるで朽ちた塔のように立っていた。


 バケツを引き上げると、確かに水面には黒い影が揺れている。


「泥では……ないですね」


 私は小瓶を取り出し、柄杓で水をすくい取り、その一部を移した。濃い茶褐色──いや、紫がかった黒。


 彼女は嗅覚を研ぎ澄まし、わずかに鼻を近づける。


 ――鉄臭さ。そして、微かに甘い匂い。


「……これは、クラーヴァの毒素」


 ヨナが息を呑む。


「クラーヴァ? あの、“黒い烏の実”と呼ばれる──」


「ええ。古くは暗殺に用いられた猛毒植物。その実は潰しても匂いが残らず、煮ても色が消えにくい」


「誰かが、井戸に……?」


「あるいは、何かが落ちたのかも。だが、これは意図的なもの。水脈に混入するには、そこそこの量が必要です」


 そのとき、霧のなかから、あわただしい足音が近づいてきた。


「春蘭先生! 大変です!」


 村の使者だった。肩で息をしながら、叫ぶ。


「領主の館で、侍女のひとりが倒れました! どうやら毒のようだと……!」



 領主の館は、朝から異様な緊張に包まれていた。


 倒れた侍女、名はマーリエ。彼女は朝食の給仕を終えたあと、自室に戻る途中で倒れたという。唇は紫に染まり、呼吸は浅く、脈拍は乱れている。


「口内のただれ、指先の紫斑、胃の収縮……クラーヴァに間違いありません」


 私は診立てを終えると、館主の前に静かに立った。


「マーリエは、今朝何を口に?」


「朝食の残りを自室に持ち帰ったと……。だが、それなら他の者にも同じ症状が出ているはずだ」


「ええ。ですから、マーリエだけが別の何かを摂取した可能性が高い」


 私は立ち上がり、部屋の一角、マーリエの机の上に置かれた小瓶を見つけた。


「これは?」


「あれは……彼女の好物の“蜂蜜漬けの実”です。夜な夜な摘んで漬けていたと聞いています」


 私は瓶の蓋を開け、香りを確かめた。


「甘い……ですが、微かにクラーヴァの匂いが残っている。これは──彼女自身が漬けたものではない」



 診療院に戻った私は、ヨナと共に蔵の調査に取りかかっていた。


「クラーヴァの実、診療院の保管庫にはなかったはず」


「ええ。ですが……これを」


 ヨナが差し出したのは、古びた薬箱だった。開けてみると、奥底に、乾燥された黒い実が数粒。


「いつのものか……記録は?」


「三年前。先代の医師が保管していたもののようです」


「それが盗まれた?」


「あるいは、渡した者がいる」


 私は薬箱の裏蓋をこすり、うっすらと残された文字を読み取った。


「“T・K”……?」


「この記録、村の薬師台帳と照合できます」



 二日後。


 霧がようやく晴れたころ、私は領主の前で告げた。


「マーリエは、自ら命を絶とうとしていたのです」


「……なに?」


「蜂蜜漬けの瓶に混入されていたクラーヴァの実。その処理は、かなり素人でした。もし彼女に知識があれば、もっと致死量に近い量を……」


「だが、なぜ……?」


「彼女は、“烏の手紙”を受け取っていたのです」


「烏……?」


「村では古くから、“霧のなかに烏が来たら、誰かが選ばれる”という言い伝えがある。そして“選ばれた者”は、自らその命を絶たなければならない……」


 私は、マーリエの机から見つけた小さな紙片を差し出した。


《霧が降りた。烏が見ている。あとは貴女しだい》


「彼女は、古い因習を恐れた。誰かがそれを利用し、彼女を“選ばせた”。この一件、単なる自死未遂ではありません。仕組まれた“儀式”です」




 数日後、診療院の裏庭で、私とヨナは茶をすすっていた。


「それにしても、誰がマーリエを……?」


「わからない。でも、あの“T・K”という頭文字。昔、診療院に出入りしていた助手の名が、確か……トーヤ・カジ」


「彼が?」


「今は行方知れず。でも、どこかで霧が降れば、また“烏”が現れるかもしれません」


 カップを置いた私の眼差しは、どこか遠くを見つめていた。


「霧はただの水蒸気。でも、人の心に入り込めば、それは毒になる」


 ヨナが静かにうなずいた。


 霧は、またいつか、辺境に戻ってくるのだろう。


 そのとき、再び誰かが「選ばれる」のなら──リンの手に握られるのは、毒ではなく、真実の鍵であるようにと願わずにはいられなかった。

2話更新が終わったので、一度完結済みにしておきます。

明日以降執筆が終わり次第、再開します。

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