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第3話:宦官の喉に残された白い糸

 乳児の連続死に、鉱毒という結論を出した翌日。

 春蘭は、薬草の入った籠を抱えながら、皇宮の裏手にある日陰の小道を歩いていた。

 陽のあたる場所は女官たちの噂話で賑やかだが、こういった裏道には、もう少し静かな空気が流れている。


 静かなところでなければ、ものごとは考えられない。

 春蘭にとって思考とは、囲碁のようなものだった。

 一つ置けば、盤が広がる。

 誤った場所に置けば、全体が崩れる。


 (……とはいえ)


 その囲碁盤に、また一つ、新しい石が投げ込まれることになるとは。


 「医師殿、至急、白花の間へ」


 宦官の少年が駆け込んできたのは、ちょうど春蘭が薬草を干そうとしていたところだった。


 「一人、倒れたと……。呼吸が……もう……」


 呼吸――その一語で、春蘭は顔を上げた。

 布をその場に置くと、彼女は駆けだす。


 白花の間。

 そこは、皇帝の衣類や香の調合を司る部署のひとつ。

 女の城たる後宮にあって、数少ない男性とされる職員が出入りする場所だ。


 すでに部屋の奥では、何人かの宦官が蒼白な顔で立ち尽くしていた。

 その中心、横たわる一人の男――いや、宦官。

 彼の口元はわずかに開き、手足に硬直が見られる。


 春蘭は膝をつき、まず口の中を確認した。

 舌は僅かに白く、咽頭の奥に粘液。

 肺の動きは……ない。


 「毒か? 誰か、毒を盛ったのか!」

 後ろから誰かが叫ぶ。


 春蘭はかぶりを振った。

 「……毒なら、こうはならない。これは、窒息です」


 「しかし喉に何も詰まっていません!」


 ――いいえ。

 春蘭は、宦官の喉を少し傾け、光を差し込ませる。

 そして、そっと取り出した。


 細く、繊維のようなものが、気管の奥からのどへ絡まっていた。


 「……絹糸?」


 否。春蘭は、その糸を爪先で裂く。

 繊維はばらけ、白い毛羽が舞う。

 絹ではない。だが、極めて細い。


 「これは……絹ではありません。紙糸です」


 一瞬、部屋にいた者たちは理解できずに黙った。


 「紙で……糸?」


 春蘭は、視線を室内の端に向ける。

 ――机の上には、調香に使われた細長い筒と、巻かれた紙糸の束。


 (この紙糸……調香用の“匂い巻き”か)


 匂い巻きとは、香木や精油を漉いた紙を細く裂き、編んだ糸状のもの。

 衣類に香を移す際に使われ、香りが失われたら燃やして捨てるのが普通だった。


 「まさか、それを誤って……?」


 いや、違う。

 紙糸は房状になっていた。誤飲するには長すぎる。


 (では――)


 春蘭の思考の盤に、新たな線が引かれる。

 (この紙糸が喉に入っていたのは“誤って”ではない)

 (つまり“誰かが意図して”これを……)


 「……殺したんですか……あの方を」

 小さく、誰かが囁いた。


 春蘭は首を横に振った。


 「いいえ。おそらく――これは、“事故”です」


 部屋にいる誰もが、目を丸くする。

 「事故、ですって?」


 春蘭は紙糸を手に取り、細かく引き裂いて見せた。


 「この紙糸は、香の調合の際に使うもの。ですが、それを細かく裂き、香粉を包み、管の中に詰めて使う作業……」


 そこでふと、春蘭の視線が止まる。


 (そう。管――それは竹の筒)


 香粉を詰めた紙糸を、管に押し込んでいくとき、もし何かの拍子に強く息を吸えば……。


 ――そのまま、細く裂けた紙糸が気管に入ってしまう可能性がある。

 肺は紙の繊維を咳で排出しようとするが、乾燥した粉がそれを邪魔する。


 「つまり、これは“香の調合作業中の吸引事故”です」


 春蘭は、彼の作業卓に残された道具を一つひとつ確認していく。

 そこには、管と、詰められた香粉、そして裂かれた紙糸。

 端が唾液で濡れ、咳き込んだ痕跡のある布きれも落ちていた。


 「……こんなことで、人は死ぬのか」


 誰かが呟いた。


 春蘭は、黙って頷いた。


 「人は、ほんの小さなことで死ぬのです。香の香りの粒、絹のほつれ、草の毒……」


 彼女の指が、一枚の薄布をそっと押さえる。

 「でも、“理由がわからない死”を放置すれば、それはすぐに“呪い”にされてしまう」


 そして、“呪い”という言葉が使われた瞬間に、誰かが得をする。

 そうした構造を、彼女は辺境で何度も見てきた。


 そして――


 春蘭の盤面には、また一つ、新たな線が浮かび上がっていた。


 この“事故”すらも、果たして本当に偶然だったのか。

 あるいは、事故を装った“手入れ”か。


 後宮の中で、目立たぬ者が、目立たぬように消されていく。

 そこにこそ、“毒より怖いもの”があるのかもしれない。


 春蘭は、紙糸を包むように布でくるみながら、心の中で静かに一石を置いた。

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