第4話:甘露の壺と笑う妃
王宮の朝は、香煙と鈴の音ではじまる。
翠玉の露がまだ甍を濡らす頃、下女たちは静かに走り、炭を熾し、衣を温める。わたくしはといえば、その騒がしさからいくらか離れた医司の一角に身を置いて、茶の湯気を眺めていた。
「壺が、笑っているそうですよ」
そう言ったのは、薄荷色の衣を着た若い侍女で、名は瓊花といった。彼女はこのあたりの医局に出入りする茶番頭の娘で、ときどき珍妙な噂を持ち込んでは、私の耳をくすぐるのだった。
「壺が笑う? それは壺の口が裂けているのかしら」
「ちがいますわ。中から笑い声がするんですって。——それも、妃さまの部屋からです」
名を問われずとも知れた。
その“妃さま”とは、現在もっとも帝に寵愛されている美妃・玲蘭のこと。
華美にして陽気、哄笑の絶えぬ美貌の持ち主。けれど、わたくしが知るかぎり、彼女の部屋で“笑い声”など禁忌のはずであった。
「笑い声が禁じられているのなら、なおさら妙ね」
瓊花は紅花で染めた唇を曲げ、声をひそめた。
「それが、四日前から、美妃さまはまるで別人のように静かで……誰とも言葉を交わさず、昼餉にも手をつけない日があるとか。だけど、あの壺の蓋を開けると、笑い声がするそうです」
その壺とは、帝から下賜された《甘露の壺》と呼ばれる宝物で、涼やかな夜気を封じると伝えられる青磁の壺。
飾り棚の最上段に置かれ、誰も触れない——はずだった。
だが。
その晩、美妃が昏倒した。
召使いによって発見されたとき、彼女は壺の前で身を折り、青白い顔に乾いた笑みを浮かべていたという。
妃殿下の部屋へ入るには、いくつかの手続きを必要とする。
けれど、今回の件に限り、私は例外的に“調査官”として通された。
白磁の屏風を抜けると、部屋はしんと静まりかえっていた。
香炉は消えていたが、ほのかに菊の香りが残っている。
女官たちは皆、縁に控えて言葉もなく、ただ奥に横たわる主を案じるように見つめていた。
「容体は?」
「意識は戻っておいでです。けれど、もの言わず……あの笑い声以来、誰とも目を合わせてくださいません」
一歩、部屋の中央へ足を進めると、壺があった。
確かに、美しい壺だった。
淡い青磁の肌に、瑞雲の絵が描かれ、壺の口はきっちりと蓋で閉じられていた。
「その笑い声は、誰が聞いたの?」
「最初は、夜中に控えていた侍女です。妃さまが声を上げたのかと思って近づいたら……壺から、くぐもった笑い声が」
——くぐもった、笑い声。
女のものとも、男のものともつかない、不気味な“笑い”。
わたくしは壺に手をかけた。
蓋をそっと外す。
中からは、空気の抜けるような乾いた音がしただけで、声など聞こえない。
けれど——底を覗いたそのとき、気づいた。
「これは……音を出す仕掛けね」
「仕掛け、でございますか?」
「ええ。壺の内側に、薄く竹の膜が貼られている。口の縁に小さな笛状の穴があるわ。音を集めて、時間差で吐き出す細工。——誰かが、事前に笑い声を吹き込んだのね」
「まさか、そんな……なぜ、そんなことを」
「わからない? これは、“妃が狂った”ように見せかけるための罠よ」
わたくしは、壺を丁寧に布で包み、そっと侍女たちに目配せした。
「この壺を最後に磨いたのは、誰?」
顔を見合わせ、ひとりの女官が名乗り出た。「夕鈴」と呼ばれる侍女だった。彼女は緊張しながらも、はっきりと答えた。
「磨いたのは五日前。……ですが、あの夜、壺の位置が少しずれていたような気がしました」
「ずれていた?」
「はい。棚の端に寄っていて、あれでは落ちてしまうかと——それで、直しました」
それは奇妙だった。
甘露の壺は非常に重く、片手では動かせない。
しかも、美妃はふだん決してその壺に触れないという。
——ならば、誰が?
調べを進めるうちに、一つの名前が浮かび上がった。
それは、妃のもとを追われた女官、蘭貴人に仕えていた元宦官の男だった。彼はかつて玲蘭妃に寵を奪われ、主ごと左遷された者。
その男が、壺に偽の“笑い”を吹き込み、妃を“狂人”に見せかけるよう仕向けたのだ。
その意図はただ一つ——
「妃を、退けさせるための策略ね」
数日後、壺は王命によって破棄された。
その破片からは、薄竹と牛皮を組み合わせた複雑な音響装置が見つかり、技に長けた者の手によるものとされた。
美妃・玲蘭は、壺が砕かれた夜、ようやく微笑みを取り戻したという。
彼女の声はやさしく、けれど冷たかった。
「おかしなものね。私は壺の中に笑いを閉じた覚えなどないのに。……でも、誰かがどうしても、私に“狂って”ほしかったのでしょうね」
その唇には、あの日とおなじ乾いた笑みが浮かんでいた。
——けれど、それはもう、自らの意志による笑いだった。




