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第10話:雫硝子と揺れる王の手

 皇宮の朝は、霧より柔らかな光に満ちていた。


 廊下の石畳が淡い銀灰に染まり、春蘭は足音を忍ばせて歩いていた。誰にも邪魔されず、自分の考えに沈める時間――それが、最良の思考の場なのだ。


 だが、その静寂は、ほんの一瞬で裂かれる。


 「御医官春蘭、急ぎ第四殿下の住処へ」

 若い宦官の声が、薄墨のように冷たく響いた。


 第四殿下――玲珠殿下が朝粥を口に含んだ直後、意識を失われた。

 宦官たちは騒然とし、医師たちは毒を疑う。

 春蘭はしずかに、白衣の裾を整えながら思考を巡らせた。


 (……毒か、病か。あるいは、もう一つの可能性もある)


 顔色は青白く、微熱と震え。口唇は淡く紫がかり、痙攣まで見られた。典型的な「重金属中毒」の症状。しかし、粥の材料は単純だ。嫌な予感が胸をよぎった。


 床には、瓢箪型の硝子杯が落ちていた。

 それは珍しい、薬用雫硝子しずくガラス製の杯で――飲む者の体温と反応して色が変わる仕掛け。

 皇宮で使用されるのは極めて稀だ。


 春蘭は、拾い上げた硝子を手に取ると、静かに嗅いだ。


 ――甘酸っぱい香気。しかし、微かに硫化水素の匂いも混じる。それは、硫黄系の不純物ではなく、鉛の腐蝕臭だった。


 (鉛。長く呑み続ければ、神経系や造血機能を蝕む。それが、自然に起こるものではないとすれば)


 春蘭は、周囲の状況を「囲碁の盤」に置き換えて考える。


石1:硝子杯は粥の前に一度使われたが、摂取してない人も多い。


石2:鉛汚染は徐々に蓄積される毒。急性ではありえない。


石3:粥を調理した者は、別の器具を使ったと報告されている。


石4:玲珠殿下だけが使った杯は、昨夜、誰かが密かに交換した可能性。


 ――これら4点を繋げたとき、真相の輪郭が見えた。


 春蘭は、屋敷の厨房に足を運び、調理器具や茶器、そして雫硝子を管理する女官たちに訊ねた。


 「昨夜、硝子杯を磨いたのは誰ですか?」

 女官の一人、名は白蘭はいらんが名乗り出た。


 「私は磨きました。しかし使用前には数を確認しましたが……昨夜のものは一つ多かった。誰かが密かに混入したような気がしました」


 その言葉で、春蘭の盤上は最後の石を置いた。


 鉛は自然に溶け出すことはない。化粧筆や鏡の縁など、装飾品に使われた鉛合金から、硝子に混入し、微量が口に触れたとは考えづらい。それが起きたのは、“意図的な混入”以外に説明できない。


 ――誰が?

 それは、権力の最も近く、硝子杯の管理責任を持つ者。つまり、女官長付きの**縁香えんこう**しかあり得ない。


 縁香は玲珠殿下の側近であり、他の侍女たちよりも杯の数を熟知していた。そして、彼女が硝子杯に微量の鉛化合物を塗布し、掌だけに触れるよう仕向けた。


 その結果、徐々に蓄積された鉛が、殿下の体調を蝕んだ。

 急性症状ではなかったため、第一波は見過ごされた。だが、この朝のエピソードは、最も致命的な蓄積が一気に影響したもの――。


 殿下が意識を取り戻されると、春蘭はそっと膝を尽くした。


 「殿下、これは呪いでも毒薬でもなく、――鉛が自然と、ではなく、意図的に持ち込まれた“汚れ”です」


 玲珠殿下は顔色をうっすらと変えたが、ゆっくり眼を開いた。

 「……誰が、そんなことを?」

 春蘭は微笑をわずかに浮かべ、答えた。


 「最も硝子を扱い、最もあなたに近い者。縁香殿下にございます」


 その後、縁香は正座のまま頭を下げ、静かに頷いた。


 「恨みではありません。ただ、わたくし以外の者が…殿下の器を選ぶことを許しませんでした。――私こそが、殿下に最も合う器を知る者と信じました」

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