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あじさい坂のサルベージ店〜記録メディアが語る、優しい嘘の解き明かし方〜  作者: ましろまち
第2章 開かない暗号化フォルダと、三日間のパスワード
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第2話:サルベージされた記憶と、消されたファイル名

雨上がりの午前、あじさい坂の石段には、まだ細かな水滴が残っていた。


半地下の工房にも、濡れた土と紫陽花の青い匂いがかすかに届いている。高窓の向こうからは、通りを走る車が水たまりを踏み分ける水音が、低くこもって響いていた。


槙島慧は、作業台の上に置いた小さな基板を、黒いワークエプロンの袖口を気にしながら見つめていた。水没して持ち込まれた古いノートパソコンから慎重に取り外したmSATA SSDは、表面のチップがいくつか熱で変色し、コントローラ自体も機能不全に陥っている。


けれど、フラッシュメモリチップそのものまで物理的に破壊されたわけではなかった。


「芹沢さん。治具を固定してください。端子に余計な負荷がかからないように」


「はい。ここでネジを締めれば大丈夫ですか?」


「ええ。十分です。ありがとうございます」


こはるは、槙島の指示に従ってアルミ製治具の固定金具に指をかけた。息を吹きかければ飛んでしまいそうな微細な端子を傷つけないよう、無意識のうちに呼吸まで浅くなる。


槙島はアーム付きの拡大鏡越しにピンの並びを確かめると、専用のアダプタ治具へ基板を滑り込ませた。


解析用PCを操作すると、黒い端末画面の中央で、セクタの読み出し進捗を示す細いバーがゆっくりと右へ進み始めた。


「読み取りエラーの箇所は後回しにして、まずは全体のクローンを作成します。原本のメモリに通電できる時間は限られていますから」


「……通電するだけで、壊れちゃうんですか?」


「ええ。痛んだメモリセルは、データを読み出そうとするわずかな電圧ですら、蓄えた電荷――つまりデータそのものを揮発させる引き金になります。触れる回数は、一度きりが原則です」


静まり返った店内に、冷却ファンが刻む乾いた回転音だけが規則正しく響く。


画面上の進行バーが途中でぴたりと止まるたび、こはるは自分の肩が無意識に強張るのを感じた。


読み取りエラーが検知されると、槙島はモニターに走るエラーコードを淡々と確認し、読み出し電圧とリトライのパラメータをキーボードから打ち直した。何度かの微調整を経て、断片化していたパーティションテーブルの破損セクタを論理的に照合し、仮想環境上に元のドライブ区画を再構築していく。


眼鏡の奥にある切れ長の瞳は、無数の十六進数コードの列を追うときも、普段と何ひとつ変わらない冷静さを保っていた。ただ、ひとつのビットの反転も見落とすまいとするその視線だけが、わずかにディスプレイへと引き寄せられている。


やがて、短く乾いたビープ音が鳴り、進行バーが百パーセントに達した。


「……物理イメージの抽出完了。ファイルシステムを展開します」


槙島がエンターキーを叩くと、解析ツールのウィンドウ内に、復元されたドライブのディレクトリツリーがずらりと展開された。


英数字とシステムフォルダが機械的に並ぶ味気ない画面のなかに、見覚えのある日本語がぽつんと灯っていた。


フォルダ名には『仕入れ一覧』『帳簿_2018』『ベーカリー機器保守』。パン屋の店主としての日々の営みが、その簡素な配置から静かに滲み出ていた。


こはるはデスクの横から、身を乗り出すようにして画面をのぞき込んだ。


「あ……『レシピ』って名前のフォルダ、ありますよ!」


「確認します」


槙島がツリーを展開すると、階層の下に整然と並ぶテキストファイルの一覧が現れた。『山型食パン_角食_配合比』『ルヴァン種_温度管理』『クロワッサン_季節別加水率』。依頼人である息子の橘蓮が血眼になって探していた「母の味」が、あっけないほどあっさりと姿を現した。


「よかった……! ちゃんと無事だったんですね」


こはるは胸をなで下ろし、ほっと息をついた。蓮が語っていた、女手一つで店を切り盛りし、毎朝早くから粉まみれになって焼いていた母のパン。その結晶のような配合データが、失われずに残っていたのだ。


だが、槙島は安堵の表情を見せることもなく、先頭のファイルを選んでプロパティを開いた。


「タイムスタンプを照合します」


画面にポップアップした詳細情報の日付を見て、こはるは小さく瞬きをした。


「……五年前?」


「ええ。最終更新日時は、五年前の十一月十二日になっています」


「でも……橘さんのお母さま、半年前にお店で倒れる直前まで、ずっと現役で厨房に立たれていたんですよね? 毎日パンを焼いていたのに、五年間もレシピを更新していないなんてこと、あるんでしょうか」


「別のUSBメモリやクラウド上に新しい版を保存していた可能性は否定できません。ですが、この内部ストレージに限って言えば、ここに保存されているレシピデータは五年前の日時を最後に、一切手が加えられていません」


槙島は感情を挟むことなく告げ、レシピのプロパティを閉じた。疑問の隙間を憶測で埋めるような真似はせず、ドライブ全体のタイムラインをさらに深くスキャンしていく。


マスターファイルテーブルの更新履歴。イベントログ。ファイルごとの最終アクセス日時。


ディスプレイを流れる無機質な日付とタイムスタンプの羅列は、このパソコンの前で誰かがキーを叩いていた時間の軌跡を、何ひとつの装飾もなく物語っていた。


カタ、と槙島の指が止まった。


「……芹沢さん。これを見てください」


彼が指し示したのは、通常のファイルエクスプローラーでは不可視化されている、隠し属性が付与されたディレクトリだった。ファイル名は空白文字と記号の組み合わせでマスクされており、鍵のアイコンが不自然に浮き彫りになっている。


「これ……鍵のマークがついてますけど、開かないんですか?」


「パスワードで保護されていますね。通常の検索やファイル一覧からは見えないよう細工された上で、専用の暗号化ツールによってコンテナごと固められています」


槙島はファイルシステムのセクタ履歴を呼び出し、そのコンテナファイルの更新タイムスタンプを時系列順に並べ替えた。


「この暗号化コンテナが作成されたのは、いまから四ヶ月前――亡くなる約二ヶ月前の深夜です。それ以降、倒れる直前までの数ヶ月間、ほぼ毎晩のように日付が変わる時間帯に数キロバイト単位の微小な更新ログが記録されています」


一度に大量のデータが書き込まれたわけではない。夜、店を閉めたあとの深夜、何十回にもわたって、ほんの少しずつ何かが書き足され、上書き保存されていた痕跡だった。


「お母さまは……夜中にひとり、何を書いていたんでしょう」


「ログから確認できる物理的事実は、その時間帯にデータが更新されていたという点のみです。中身が何であるかは、暗号を解除しない限りわかりません」


槙島はそう返しながら、ログの最下部にカーソルを合わせた。語調はどこまでも淡々としていたが、その瞳は画面に残された特異な数値の塊を的確に捉えていた。


「ですが、この端末には倒れる数ヶ月前から深夜に稼働していたシステムログが残っています。そして……これです」


彼が拡大した三日間のアクティビティログには、それまでの規則的な更新とは明らかに異なる挙動が記録されていた。


「亡くなる直前の三日間、深夜から未明にかけて、暗号化ユーティリティが短時間のあいだに何度も実行された形跡があります。パスワードを変更し、設定し直し、また別の文字列へ上書きしている。……何を設定するか、迷っていたようにも見えます」


「迷っていた……」


こはるは呟き、胸の奥がきゅっと窄まるような感覚を覚えた。


倒れる直前の三日間。母は暗い部屋で、画面の明かりに照らされながら、誰に向けたとも知れない暗号の鍵を何度も打ち直していたのだろうか。


「橘さんから伺っていた、パスワードの候補を試してみます」


槙島は手元のメモに視線を落とした。


依頼人の蓮から事前に聞き出していた文字列――母の生年月日、店の創業記念日、ベーカリーの固定電話番号、そして昔飼っていたという犬の名前。息子が「母ならきっとこれにするはずだ」と自信を持って書き残していった数字とアルファベットだった。


暗号化プロンプトを呼び出し、ひとつ入力して認証を実行する。

赤いエラー表示が返る。


ふたつ目を入力する。

無情なビープ音とともに、拒絶のダイアログが点滅した。


「……どれも、通りませんね」


「ええ。登録された候補はすべて不一致です」


こはるの脳裏に、昨日預かったノートパソコンのキーボードが浮かんでいた。


全体的に粉っぽく汚れ、使い込まれたキーのなかで、いくつかのキートップだけが奇妙なほど指先との摩擦でツルツルになり、白く文字が擦れ落ちていた。


「橘さんが教えてくれた数字や記念日では、開かないんですね……」


「少なくとも、息子さんが把握していた文字列ではありません」


「あの……関係ないかもしれないんですけど」


こはるは手元のメモを見つめたまま、ためらいがちに言った。


「お母さんのノートパソコン、特定のキーだけ、刻印が消えかけるくらい削れていましたよね。母音のキーと、数字の……『4』と『8』のあたり。普通に文章や帳簿を打つだけなら、あんな風にそこだけ極端に消えたりするものなのかなって、預かったとき少し気になっていて」


槙島がわずかに視線を動かし、こはるを見た。


「……入力頻度の偏り、ですか」


「あ、ごめんなさい、私なんかが変なこと言って」


「いえ。重要な観察です。特定のキーだけが著しく摩耗しているなら、日常的な文字入力とは異なる、同じ特定の文字列――たとえば、毎晩のように打ち込んでいたパスワードの文字群である可能性は十分に考えられます。ただ、摩耗パターンから逆算できるのは文字の候補群までであり、その並び順や正確な意味までは特定できません」


槙島はキーボードから手を離し、暗号化ソフトの入力プロンプトを最小化した。


画面の片隅には、五年前で時を止めたレシピフォルダ。

そしてディレクトリの最深部には、亡くなる直前まで更新され、厳重な鍵を幾重にも掛けられたままの謎のフォルダ。


「依頼人が求めているのはレシピです。しかし、この端末で最も新しく、そして最も強固に保護されているのは、この暗号化フォルダです」


槙島は事実だけを並べ、感情の混じらない声でそう告げた。


レシピの更新が五年前で止まっているのはなぜなのか。

母が亡くなる直前まで、夜ごと一人で書き綴っていたものは何なのか。

そして、なぜ直前の三日間、迷うようにしてパスワードを何度も書き換えたのか。


橘蓮が語った「急な別れだった」という言葉と、この機械が淡々と刻んでいた日々の記録。そのあいだに横たわる大きな空白に、こはるは言いようのない胸のざわめきを覚えていた。


カラン、と澄んだ真鍮のドアベルが鳴り響いた。


こはるがハッと顔を上げる。


昼過ぎに再来店すると約束していた橘蓮が、坂を上がって戻ってきたのだ。階段を一段ずつ降りてくる革靴の足音が、半地下の木製ドアの前で止まる。


槙島は画面から目を離さず、開かないフォルダの無機質なアイコンを静かに見つめていた。

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