第1話:あじさい坂の雨宿りと、固く閉ざされた鍵
昼下がりのあじさい坂には、細い雨が降っていた。
坂の石畳はしっとりと濡れて深い鈍色に沈み、古い軒先から落ちる雫が、半地下の店先にあるグレーチングを小さく叩いている。水無月電算修理堂の明かり取り窓は地面すれすれの高さにあり、通りを行き交う色とりどりの傘の裾だけが、すりガラスの向こうをゆっくりと滑るように流れていった。
湿気を含んだ店内には、イソプロピルアルコールの刺激臭と、わずかに焦げたような電子部品の匂いが低く滞留している。
作業台の前に立つ店主の槙島慧は、細い刷毛を手に取り、基板の微小な端子に付着した埃を淡々と払っていた。黒い作業用エプロンの胸元に、アームライトの冴えた白い光がまっすぐに落ちている。黒縁眼鏡の奥にある双眸は、基板上のごくわずかな異常も見落とさないように細められていた。
「この前の宮原さん、あれから少しは前を向けたでしょうか」
カウンターの内側で作業伝票を整えながら、芹沢こはるはふと視線を上げて呟いた。
「亡くなったお祖父さんの本当の想いを知って、少しだけ肩の荷が下りたような横顔が、今でも忘れられなくて……」
槙島の手は止まらなかった。精密な作業を妨げない一定のリズムで、刷毛先がコンデンサの隙間をなぞっていく。
「前を向けたかどうかは、僕たちの仕事の範囲外です」
抑揚のない、けれど芯の通った丁寧な声が返ってくる。
「あ、そうですよね。でも、どうしても気になっちゃって」
「芹沢さん、気にかけることと、都合よく解釈することは別です。記録媒体に残されたデータを勝手に脚色せず、物理的な事実のみを抽出するのが僕たちの領分です。持ち主の遺志を周囲の勝手な憶測で歪めることだけは、絶対に避けなければなりません」
「……はい。そうですよね」
こはるは軽く頭を下げ、手元にある伝票の端を揃え直した。
理屈では痛いほど分かっている。事実だけを見つめるのが修理堂の鉄則だ。それでも、無機質なデータの向こう側にいる生身の人間の温もりや痛みを、仕事の枠の外へ完全に締め出せるほど、こはるの心は器用にはできていなかった。
チリン、と澄んだ真鍮のドアベルが鳴り響いたのは、そのときだった。
階段を降りて扉を開けたのは、三十代前半と思しき男性だった。濡れたトレンチコートの前をあけ、下に着込んだ厚手の調理服には、白く細かな小麦粉の跡が斑点のように散っている。胸元に巻かれた藍色の前掛けからは、雨の匂いに混ざって、香ばしいバターと焼き上がったパンのあたたかな残り香がふわりと工房へ流れ込んできた。
男性は両手で抱えた紙袋の底を支えながら、不安そうに店内を見回した。
「いらっしゃいませ。どうぞ、足元にお気をつけてこちらの席へお掛けください」
こはるがカウンター横のパイプ椅子を引くと、男性は緊張した面持ちで小さく頭を下げた。
「橘蓮と申します。すぐそこの商店街の端で、小さなベーカリーを営んでおりまして……今日は、母が使っていたノートパソコンを見ていただきたくて伺いました」
抱えていた紙袋から慎重に取り出されたのは、銀色のアルミニウム製ノートパソコンだった。エッジの塗装は摩擦で白く擦れ、天板には幾筋もの微細な線傷が走っている。十数年前に発売された薄型モバイル機だ。古い型式ではあるものの、日々の汚れは丁寧に拭き取られており、大切に扱われてきた年月がその佇まいから伝わってきた。
橘は、壊れやすいガラス細工を扱うようなおずおずとした手つきで、それをカウンターのゴムマットの上に置いた。
「半年前、母が急に亡くなりまして。生前、店の帳簿もレシピも、母はこれ一台だけで管理していたんです」
「電源が入らない状態ですか」
こはるの問いかけに、橘は痛ましそうに眉を寄せた。
「はい。電源スイッチを入れるとランプが一瞬だけ点いて、ファンがピクリと動くだけで、画面は真っ暗なままで……奥の方から、微かにジジッ、と小さな電子音が途切れ途切れに鳴るだけで起動しないんです。焦って、何度か再起動を試してしまったのですが」
作業台から歩み寄ってきた槙島が、黒縁眼鏡のブリッジを中指で軽く押し上げた。
「何度、試されましたか」
「……四、五回は。最初の一回で駄目だと分かっていたのに、もしかしたら次は動くかもしれないと思って。すみません、余計なことをしてしまいましたよね」
橘はいたたまれなさそうに肩を落とし、深くうなだれた。
「謝罪は不要です。ただ、これ以上の通電は直ちに中止してください」
槙島の口調には、依頼人を責める色は微塵もなかった。あるのは、機材の現状を淡々と推し量る技術者としての沈着さだけだ。
「このたび、古い工房から移転して店を新装することになったんです」
橘は縋るようにカウンターに身を乗り出した。
「そのために、どうしても取り出したいデータがあります。母が遺した、看板商品の天然酵母の配合データです。あれがないと……店をリニューアルすることも、僕が継ぐ意味もなくなってしまう」
橘はそこで一度言葉を切り、喉を詰まらせるようにして言った。
「母の味を、僕の手で途絶えさせたくないんです」
その言葉を吐き出した瞬間、彼の口元がかすかに引きつるように強張ったのを、こはるは見逃さなかった。
亡き母を偲ぶ痛切な響き。けれど、それだけではない何かが混ざっているように見えた。本当に愛着のあるものを語る人の眼差しにしては、どこか切迫しすぎていて、言葉だけが先行して心が追いついていないような、名状しがたいぎこちなさが漂っていた。
人の感情を外見だけで決めつけてはいけない。さっき槙島に釘を刺されたばかりの戒めが、こはるの胸をよぎる。
「拝見します」
槙島は使い捨ての静電気防止手袋をはめ、慎重にノートパソコンを作業台へと移した。
精密ドライバーの先端が、裏蓋を留める小さな特殊ネジを滑らかに捉える。カチリ、と微小な金属音が雨音の合間に静かに反響し、手際よく外されたネジが磁気トレイへと整然に並べられていく。
裏蓋が外されると、槙島は手早く内蔵バッテリーのコネクタをピンセットで引き抜き、残留電荷を逃がした。長年の稼働を物語る極薄の冷却ファンと、密集したプリント基板が現れる。基板の片隅には、十数年前の規格である小型のmSATA SSDが一本のビスで固定されていた。
槙島は手元のルーペを引き寄せ、高輝度のLEDペンライトをその基板へあてた。
「SSD基板上の電源保護回路に、過熱による明らかな変色とショート痕が見られます。保護機能が働き、通電が遮断されている状態です」
橘が息を呑んだ。
「中のデータは……消えてしまったということでしょうか」
「このPCを経由した通電では、回路のショートによって正常に信号が通りません。無理な通電をこれ以上重ねれば、保護回路をすり抜けてデータを保持している記録素子そのものが破壊されます。そうなれば、復旧確率は限りなくゼロに近づきます」
橘の両手が、膝の上で白くなるほど固く握りしめられた。
「本体からSSDを外し、破損した電源ラインをバイパスした上で、当店の解析機に直結して記憶領域を丸ごと複製します。熱ストレスがメモリセル自体に達していなければ、救出の望みはあります。ただし、劣化が進んだ媒体への通電はこれが最後になる可能性が高い。やり直しは利きません」
「……お願いします」
橘は深く頭を下げた。
「母の味を……途絶えさせたくないんです」
先ほどとまったく同じ台詞だった。しかし今度は、まるで自分自身に言い聞かせて義務を全うしようとするような、かすれた重みが滲んでいた。
こはるはそれ以上踏み込まず、作業台に開かれたままのノートパソコンへ静かに視線を向けた。
長年の使用で細かな傷のついた、薄型のキーボード。文字の印刷はところどころ薄れ、黒いプラスチックの表面が白っぽく擦り切れている。
そのなかで、はっきりとした不自然な偏りがあった。
文章入力で一番叩くはずの長いスペースキーや決定のEnterキーには、それほど目立つ擦れはない。それなのに、少し離れた位置にある特定の数文字――わずか五文字ほどのキーだけが、まるで何千回、何万回とそこばかりを執拗に叩き続けたかのように、元のザラつきが完全に削ぎ落とされ、光を反射するほどツルツルに磨き抜かれていたのだ。
レシピや帳簿、普段のメールを打つだけで、こんな特定の文字だけが不自然にすり減るものだろうか。
まるで、その並びだけを誰にも見られないよう、呪文のように何度も繰り返し打ち込んでいたかのような痕跡――。
こはるは無意識のうちに、その磨かれたキートップが指し示す奇妙なアルファベットを目で追っていた。
「芹沢さん、受託確認書と見積書の作成をお願いします」
不意に作業台の方から声をかけられ、こはるはハッとして顔を上げた。
「はい、ただいま作成しますね」
カウンターに戻り、専用端末にシリアルナンバーと診断結果を打ち込んで伝票を出力する。データ復旧に伴うリスク事項と免責事項を一つずつ丁寧に読み上げると、橘はその都度、神妙に頷いてサインを走らせた。
控えを受け取った橘は、最後にもう一度だけ作業台の上の銀色の機械に視線を落とし、迷うような間を置いてから身を翻した。
「どうか、よろしくお願いします」
「お預かりいたします。進展があり次第、すぐにご連絡を差し上げます」
橘が店を出ていくと、真鍮のベルが名残惜しそうに鳴り響いた。重い扉が閉ざされると、雨水と混じり合っていた甘いバターの香りは、換気口の吸気音とともにゆっくりと薄れていく。
カチリ、とスイッチが入り、槙島の作業灯が再び強く灯った。
銀色の古い筐体が白い光に照らし出され、角の塗装剥げがぎらりと光を跳ね返す。槙島は慎重な手つきで取り外したmSATA SSDを静電気防止マットの真ん中へ安置し、ピンセットとルーペを整然と手元に並べ直した。
こはるの網膜の奥には、先ほど見たキーボードの偏った摩耗痕が、鮮烈な残像となって焼き付いていた。
いったいどんな言葉を綴るために、あの人は指先が擦り切れるほど同じキーを叩き続けていたのだろう。パンの配合を記録するための暗号めいた数字だったのか、それとも、誰かに向けた届かない呼びかけだったのか。
そして橘が真に取り戻したいと願っているものは、本当に母の残したレシピのデータだけなのだろうか。
外ではしとしとと雨があじさい坂を濡らし続け、半地下の工房には、微小な電子の海と向き合う槙島のピンセットの硬質な金属音だけが、静かに響いていた。




