第2話:剥がされたフラッシュメモリと、未送信の宛名
翌日の午後、水無月電算修理堂の空気には、まだ湿った雨の匂いが残っていた。
半地下の細長い高窓から見えるあじさい坂は、昨夜の雨に洗われて、石畳の窪みが鈍い銀色に光っている。薄暗い店の奥では換気扇が低く唸りを上げ、無機質な作業台の上には、すでに殻を割られて解体されたガラケーの緑色の基板が置かれていた。
店主の槙島慧は、実体顕微鏡に両目をあてがい、身じろぎもせず手元を見つめている。白く細い指先には精密ピンセット、もう片方の手には細口のホットエアノズルが握られていた。かすかな熱風の擦過音が店内に響くたび、こはるは自分の呼吸音さえ作業の邪魔になる気がして、きゅっと唇を結んだ。
ライトに照らし出された基板には、過酷な水没の痕跡がまだらに焼き付いている。整然と走る金色の細い筋はところどころ黒ずみ、縁には粉を吹いたような緑色の錆が浮き出ていた。
「……これを、外すんですか?」
こはるが恐る恐る尋ねると、声は湿気を含んだ換気扇の音に吸い込まれるように、思ったより小さく落ちた。
「ええ。フラッシュメモリのチップを、基板から剥離します。水没による腐食で読み出し回路自体が完全に断線していますから、チップ単体を直接読み出すしかありません」
槙島は顕微鏡から目を離さず、淡々と、けれど礼儀正しい敬語で返した。張り詰めた集中力の中にあっても、熱風を吹き出す細いノズルの先はわずか一ミリもぶれていない。
以前、槙島が教えてくれた注意を思い出す。熱を加えすぎればチップの中身が熱で焼き切れて死んでしまい、逆に熱が足りないまま無理に剥がせば、基板ごとはんだを引きちぎってしまう。失敗すれば、二度目のやり直しはきかない。
こはるは思わず、作業台の縁に両手でぎゅっと指をかけた。
溶け出したペーストの甘く焦げた匂いが、換気扇の吸気音に混じっていく。顕微鏡のスポットライトの下で、黒く平たい小さなチップが、じっと熱風を受け止めていた。
やがて、わずかな表面の変化を捉えたのか、槙島が静かにノズルを引いた。滑り込ませたピンセットの刃先が、チップの側面をそっと押し上げる。
ピン、と極小の気配を残し、銀色のはんだが熱から解き放たれた。
こはるは思わず息を呑む。チップは表面に艶やかな光をひとすじ返し、朽ちかけた基板から完全に浮き上がった。
「……剥離、完了しました。モールド樹脂にクラックはありません」
静まり返った店内に響いた槙島の落ち着いた報告に、こはるは胸にたまっていた息を一気に吐き出した。
「よかったぁ……!」
「まだ安心はできませんよ、芹沢さん。コントローラが生きていて、セルが正常にデータを保持しているかどうかが本当の勝負ですから」
そう窘めながらも、槙島のピンと張っていた細い肩から、ほんのわずかに力が抜けた。客観的な物理現象しか信じない彼が見せた一瞬の安堵を、こはるは見逃さなかった。
槙島はすぐに手元を動かし、外したチップの裏側に残った古い銀色のはんだを、網状の銅線とはんだごてで平らに吸い取っていった。手慣れた手つきで極小のメッシュ板を当て、砂粒よりも小さな銀の球を並べ直して再び熱風をあてる。あっという間に、チップの裏側には新品のような極小の端子が整然と蘇った。
丹念に端子を整えられた黒いチップは、薬液を満たした超音波洗浄器に沈められ、細かな泡のヴェールで汚れを洗い流された。槙島がエアダスターで素早く乾かし、無数の微小な針が並んだ専用のソケットへ慎重にチップを収めて蓋を閉じる。
太いケーブルで解析用のパソコンに繋がれると、漆黒の画面に、緑と白の英数字が滝のように流れ落ちていった。
チップから直接データを吸い出す間、薄暗い店内にはパソコンのファンが高速回転する音だけが規則正しく鳴り響いていた。
やがて読み込みのゲージが右端へ到達し、槙島がキーボードを叩いて修復ツールを走らせる。暗号のような文字列がめまぐるしく切り替わったあと、画面の中央に、見覚えのある古いガラケーのフォルダツリーが整然と立ち現れた。
「電話帳、画像、メール。破損の度合いを順に検証していきます」
槙島がマウスを操作し、まずは電話帳のデータを開いた。
青いウィンドウに表示されたリストを見て、こはるは首を傾げた。登録件数はわずか十数件。しかもその大半は、電力会社や役所の相談窓口、あるいは「自宅」といった簡素なものばかりだった。親族や親しい知人らしきフルネームの登録は、一件も見当たらない。
「宮原様……確か、おじい様の遺産整理で、親戚の方の連絡先を調べるためにデータを出したいっておっしゃっていましたよね?」
画面のスクロールバーを見つめながら、こはるが眉をひそめる。
「ええ、窓口ではそう伺っていましたね」
「でも、これ……親族の連絡先なんて、どこにも見当たりませんよ」
槙島は感情を交えず、「次は画像フォルダです」と短く告げてクリックした。
画面に現れたのは、わずか数枚の写真データだった。十数年前の画素数の粗い写メール機能で撮られた画像。ピントの甘いレンズの向こうには、古びた木造の駅舎、雨に濡れて鈍く光るローカル線の線路、そして遠くのホームの端にぽつんと立つ、小さな人影が写り込んでいた。
「最後は送受信メールです。データベースを展開します」
槙島がキーを叩く。受信トレイには、携帯キャリアからの定型お知らせや、短文の業務連絡が数件残っているだけだった。送信トレイに至っては、完全に空っぽのゼロ件。
その代わり、画面の下半分を埋め尽くしていたのは、膨大な件数が表示された「下書きトレイ」だった。
「送信済みじゃなくて……これ、全部下書きですか?」
こはるは画面に顔を近づけた。ずらりと並んだ未送信メールの宛先欄には、人の名前ではなく、見たこともないフリーメールの英数字がそのまま並んでいた。しかも、どれも同じアドレス宛てで、件名は例外なく「無題」となっている。
槙島がキーボードを操作し、日付順に並べ直した上で、古いものからダブルクリックして開いていく。
淡い青のウィンドウに、短いテキストが表示される。
『六月十二日 始発、六時四十分。下り二両。雨。改札に人影なし。』
「……え?」
こはるが小さく声を漏らす。槙島は黙って、日付順に並んだ次のメールを開いていく。
『六月十九日 午後、駅前の紫陽花が咲き始めた。今日も見かけず。』
『七月三日 上り、二分遅れ。……まだ戻らないか。』
『七月十日 最終列車、二十一時十二分。ホームには誰も降りず。』
電車の発着時刻、天候、そして駅の様子。それは単なる鉄道の運行メモなどではなかった。誰かが駅の改札やホームの片隅に立ち、遠くを見つめながら、帰ってこない誰かの姿をじっと探し続けていた――切実な「観測記録」そのものだった。
何十通、何年分もの日付が、一度も送信ボタンを押されることのないまま、冷たいメモリの奥底に積もり積もっていた。
「誰かを、ずっと待っていたんですね……。この宛先に向けて、届かない言葉を書き溜めていたんでしょうか」
「宛先が固定されている以上、特定の受信者を想定して綴られていたと推測するのが妥当でしょう」
槙島はいつもの落ち着いた声で答えながら、スクロールバーを一番下まで移動させた。
下書きトレイの最下層。日付が最も新しく、水没する直前に保存されたと思われる数通のメール。その本文の末尾には、それまでの淡々とした記録とは異なる、震えるような文面が書き加えられていた。
『葵、すまない。』
こはるの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
さらにその下、最後のメールを開くと、たった一行だけ、書きかけの言葉が残されていた。
『今年はもう、あじさいは見られないかもしれない。』
そこで文字はプツリと途切れていた。バッテリーが尽きたのか、病状が悪化したのか、あるいは、水たまりへとガラケーを取り落としてしまったのか。
こはるの脳裏に、昨日カウンター越しに向き合った依頼人、宮原葵の姿が鮮明によみがえった。
彼女は、古いガラケーの背面に貼られた色褪せた電車のイラストシールを、話の合間に何度も、何度も指先で撫でていたのだ。愛おしそうに、けれどどこか恐れるように、壊れ物を扱う手つきで。
「……槙島さん」
こはるは、こわばった声で呟いた。
「これ、遺産整理なんかじゃありません。宮原様は、親戚の連絡先を探していたわけじゃ……」
誰かを探して立ち尽くしていた祖父の記録。そして、最後に残された孫娘の名前。
親族の連絡先など一件も存在しないこの端末を、宮原葵は「祖父の遺産整理のため」と嘘をついてまで、どうしても復元させたかったのだ。依頼人の語った言葉と、目の前の客観的なデータの間にある決定的な食い違いに、こはるは息を呑んだ。
「芹沢さん」
槙島が低く、けれど静かに制するような声を出した。解析用のモニターを見つめたまま、視線をこちらへ向けようとはしない。
「僕たちの業務は『依頼されたデータの抽出と復元』です。そこにあるデータの意味を詮索したり、依頼人の嘘や私情に踏み込んだりすることは、修理堂の契約範囲外ですよ」
「でも……! このままだと宮原様、本当のことを言えないまま……!」
こはるが必死に食い下がろうとしたその瞬間、カラン、と高い澄んだ音が店内に響き渡った。
真鍮のドアベルが、夕暮れの訪れを告げるように鳴っている。
続いて、階段を一段ずつ下りてくる控えめな足音が、ひとつ、またひとつ。
あじさい坂の湿った外気を引き連れるようにして、半地下の重いガラス扉の向こうで、その足音がぴたりと立ち止まった。




