第1話:あじさい坂の半地下工房と、錆びた折りたたみ
梅雨の晴れ間、雲の切れ間から初夏の日差しが覗いていた。
けれど、先ほどまで坂道を激しく叩きつけていた通り雨のせいで、空気はむせ返るほど湿っている。線路沿いの緩やかな傾斜――通称「あじさい坂」には、大粒の雨粒を重たげに抱え込んだ青や紫の紫陽花が、濡れた頭を垂れていた。
坂の途中、古びた雑居ビルの階段を数段降りた半地下の奥に、「水無月電算修理堂」の木製看板がひっそりと掲げられている。
ガラス戸の向こうには、整理棚に収まりきらない配線コードやジャンク品の基板が無造作に並び、換気扇の低い唸りとともに、松脂を含んだ半田ごての匂いがかすかに漂っていた。
「槙島さん。さっきのお客様への断り方、もう少し柔らかくできませんか。『基板が死んでます』って一言で突き放しちゃうのは、ちょっと冷たすぎますよ」
アルバイト助手の芹沢こはるは、棚に並んだ精密機器の埃を払いながら、奥の作業台へ向けて声を尖らせた。
店主の槙島慧は、黒縁眼鏡の奥で実体顕微鏡を覗き込んだまま、ピンセットをミリ単位で動かしている。黒い作業用エプロンの胸元には、長年の作業で飛び散った微小な半田の跡が、まるで星座のように散らばっていた。
「事実を告げただけです。電源管理ICの内部短絡によりパターンが炭化していました。物理的な死を比喩として伝えたまでです」
「ですから、その事実の伝え方の問題です。せめて『お力になれず残念です』くらい添えてもバチは当たらないと思いますけど」
「無責任な共感は、相手に誤った期待を抱かせるノイズにしかなりません」
「ノイズって……」
こはるは握りしめた布巾を小さく掲げ、小さくため息を漏らした。
槙島に悪気がないことは痛いほど分かっている。甘い気休めを言わず、目の前の物理現象に対してどこまでも誠実であろうとするのが、この偏屈な職人の流儀なのだ。それでも、すがるような思いで階段を降りてきた依頼人を前にして、機械のように割り切ることはこはるにはできなかった。
「せめて、お茶の一杯くらい出してあげてもよかったのに」
「それは接客担当である君の仕事です、芹沢さん」
「はいはい。仰るとおり、私の領分ですね」
こはるが苦笑交じりに肩をすくめた、そのときだった。
チリン、と低く澄んだドアベルが鳴り、雨上がりの湿った外気が店内に滑り込んできた。
階段を降りて現れたのは、落ち着いたネイビーのカーディガンを羽織った、二十代後半ほどの女性だった。通り雨をしのいでいたのだろう、濡れた折りたたみ傘の雫を入口の傘立てで慎重に払い、ためらうように薄暗い店内を見回している。
その両手には、折り畳まれた純白のハンドタオルが、まるで壊れやすい小鳥でも包むかのように大切に抱えられていた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらの席へ」
こはるがカウンターの丸椅子を引くと、女性はどこか強張った面持ちで小さく会釈をした。
「あの……飛び込みで申し訳ありません。宮原と申します。こちらで、他のお店で断られたデータの復旧も見ていただけると聞いて……」
「ええ、可能な限り対応しています。宮原様、どうぞ落ち着いてお話しくださいね。そちらのものを?」
促された宮原は、意を決したようにタオルの端をほどいた。
現れたのは、一台の折りたたみ式携帯電話――十五年ほど前に広く普及していた、懐かしいガラケーだった。
シルバーの塗装は四隅から無残に剥げ落ち、ヒンジの隙間からは茶黒い錆が粉を吹いている。充電用の外部端子キャップは劣化してちぎれ、その奥には泥水が乾いたような白い結晶と、青緑色の緑青がびっしりとこびりついていた。
「先月、祖父が亡くなりまして。……遺品整理で実家を畳むことになったんです。物置の奥からこれを見つけたんですが、大手の修理店に持っていったら、水没の腐食が激しすぎて通電すらできないと、窓口で断られてしまって」
宮原の声は、語尾に向かうにつれて細く震えていた。
こはるは、彼女の手元を見つめた。端末を置く際、宮原の指先は小刻みに揺れており、塗装の剥げたプラスチックの冷たさを確かめるように、ぎゅっと握りしめられていた。実家を畳むという言葉の裏にある、整理しきれない喪失感の重みが伝わってくるようだった。
「昔の家族の連絡先や、祖父が生前に撮っていた写真がもし残っていれば、どうしても確認したくて……」
「拝見します」
それまで沈黙を保っていた槙島が、静かに作業台から歩み寄ってきた。
帯電防止用の薄い手袋をはめた細い指先で、端末の外観を注意深く観察する。
「……基板の腐食状況を正確に把握するため、筐体を開封して内部を目視確認します。ネジの錆び付きにより軽微な破損のリスクがありますが、よろしいでしょうか」
「あ、はい……お願いします」
承諾を得た槙島は、精密ドライバーを手に取ると、錆びついて固着したネジの溝をピンセットで慎重に掃除しながら、一本ずつトルクスネジを緩めていった。
パキリ、と乾いた音を立てて裏蓋が外される。
瞬時に、カビと金属の酸化物が混ざり合った、特有の重い臭気がカウンターの周りに広がった。
現れたメイン基板には、ノイズシールド用の金属プレートが被せられている。槙島はピンセットの先を隙間に差し込み、固着した爪をミリ単位の精度で押し広げて、その金属カバーを静かに取り外した。
卓上ルーペを覗き込み、極細のプローブで露わになったIC群の周囲を静かになぞる。その黒縁眼鏡の奥の瞳が、わずかに細められた。観察する時間が、いつもの倍以上長い。
「……基板のメイン層まで腐食が到達しています」
顔を上げた槙島の声は、冷徹なまでに平坦だった。
「水没後に長期間放置されたことで、銅の配線パターンが緑青に侵食され、断線と層間ショートが広範囲で起きています。この状態のままバッテリーや外部電源から通電すれば、一瞬でショートを起こし、記憶素子内部の絶縁膜が物理的に焼き切れます」
宮原が小さく息を呑んだ。
「じゃあ……もう、画面がつくことはないんでしょうか」
「ありません。この基板を修復して端末として再起動させる道は完全に閉ざされています。データを救出する唯一の手段は、基板を加熱して記憶素子――フラッシュメモリのチップ自体を物理的に剥離し、直接専用のリーダーで生データを吸い出す『チップオフ』と呼ばれる手法のみです」
槙島は手袋を外し、宮原の目を真っ直ぐに見据えた。
「ですが、長年の腐食と湿気でチップ自体が脆化している疑いがあります。剥離のために母基板へ熱を加える際、熱膨張によってチップ内部の微細なワイヤボンディングが破断する、あるいは層間剥離を起こす致命的なリスクがある。この作業は一度きりです。不可逆な物理変化を伴うため、失敗しても元の状態には戻せません」
やり直しはきかない。
チップを熱した瞬間に、すべてが永遠に失われるかもしれない。
職人としての過酷な現実が、淡々とカウンターの上に置かれた。確率という安易な言葉を使わないからこそ、その重みが宮原の肩にのしかかる。
宮原は青ざめ、膝の上で握りしめた両手に力を込めた。指の節が白くなるほどに。
「作業にかかる設備費と特殊工賃は、データが一切取り出せなかった場合でも発生します。それでも、チップの物理剥離を試みますか」
突きつけられた二者択一に、店内の空気がピンと張り詰める。
宮原は視線を落とし、作業台のトレイに置かれた携帯電話の背面に目を留めた。
そこには、四隅がめくれ上がり、ひどく色褪せた小さな長方形のシールが貼られていた。かつてローカル線で配られていた、記念切符の意匠を模した鉄道シールだった。
宮原の親指が、無意識のようにそのシールの表面へ伸びる。
擦り切れた紙のざらつきを確かめるように、浮き上がった角をそっと押さえ、愛おしそうに何度も、何度も同じ場所をなぞった。
「宮原様。お祖父さま、鉄道がお好きだったんですか?」
こはるがそっと、温かな調子で問いかけた。
宮原の指がぴたりと止まる。彼女は驚いたように顔を上げ、それからどこか懐かしむような、ひどく切ない笑みを浮かべた。
「……はい。私が幼い頃、休みのたびにローカル線に乗せてくれて。このシールも、私がねだって買ってもらったものを、祖父が嬉しそうに自分の携帯に貼ってくれたんです。『これでお揃いだな』って笑って」
宮原の瞳の奥に、確かな光が宿った。
「祖父は、口下手で不器用な人でした。実家の片づけをしていても、私の知っている祖父の思い出が、どんどんゴミ袋に詰められて消えていくようで……怖かったんです。たとえ壊れてしまっても、何も残っていなくても……諦めてそのまま捨てるより、やれるだけのことをしてあげたいんです」
宮原は顔を上げ、槙島を真っ直ぐに見つめ返した。
「お願いします。失敗しても、決して恨みません。どうか、祖父の記憶を……お願いできませんでしょうか」
槙島は表情を変えず、ただ一度だけ深く頷いた。
「承知しました。お預かりします」
見積書に流麗なペン先で仕様とリスクの承諾事項を書き込み、宮原に署名を求める。手続きを終えた宮原は、どこか憑き物が落ちたような穏やかな顔で一礼し、雨上がりの坂道へと戻っていった。
ドアベルが小さく余韻を残して揺れ、再び静寂が半地下の店舗を満たす。
槙島はすでに、自身の作業スペースへと戻っていた。
取り出した基板を下部加熱用のプリヒーター台にしっかりと固定し、顕微鏡の焦点を合わせながら、温度コントローラーのプロファイルを呼び出していく。
「芹沢さん」
作業台へ向かったまま、槙島が鋭く短い声をかけた。
「あ、はい!」
「作業エリアの補助ライトと、顕微鏡モニターの電源を入れてください」
「わかりました!」
こはるが壁側のスイッチを入れると、作業台が明るいLEDの白色光で照らし出され、壁掛けモニターに拡大された黒い半導体チップの表面が映し出された。
槙島はキーボードへ指を走らせ、画面に映るかすれた英数字の刻印を素早く打ち込んでいく。
「チップの型番を確認。……ピン配置、ランドパターンのデータシートを検索します」
専門用語の羅列に、こはるは小さく息を呑んで見守るしかなかった。けれど、画面を見つめる槙島の横顔に一切の迷いがないことだけは、はっきりと分かった。
作業台の脇、光の下に晒された剥げたシルバーの筐体。
その背面に貼られた色褪せた鉄道シールを、こはるはもう一度見つめた。
あんなにも大切そうに、何度もなぞられていた小さな紙片。
お祖父さんが遺した携帯電話のメモリの奥には、単なる連絡先やスナップ写真以上の、誰かに遺したかった大切な想いが眠っているはずだ。
「基板の予備加熱を開始します」
槙島の静かな宣言とともに、ヒーターの立ち上がりを示すブザーとファンの低い作動音が室内に響き始めた。
あじさい坂の半地下で、過去の記憶を手繰り寄せるための、やり直しのきかないサルベージが幕を開けた。




