赤い煙
目が覚めた瞬間、首筋に残っていたのは痛みの残像だった。
天蓋の薄絹が揺れている。淡い金色の光が、布を透かしてルナの頬に落ちていた。朝だった。この城での、最初の朝。
ルナは上半身を起こし、首に手を当てた。冷たい金属の輪は、一晩の眠りの間も忠実に喉元に巻きついている。指先で縁をなぞると、そこに自分の脈が打っているのが分かった。
ゆっくりと息を吐く。
昨夜のことを、体が覚えていた。
*
夜半を過ぎた頃だった。
マルタが去り、灯火が落とされ、鍵の閉まる音を聞いてから、ルナは寝台を降りた。
ここを出る方法はないか──
窓は開く。だが、窓枠に刻まれた魔法陣が首輪と連動していることは昨夜のうちに確認していた。ならば窓は使えない。残るのは扉だった。
寝台の脇に置かれた水差しの陶器の持ち手を布で巻き、慎重に力を込めて折った。細く鋭い欠片が手の中に残った。鍵穴に差し込み、耳を澄ませながら少しずつ角度を変える。常闇の森で、カイルが古い罠の錠前を解いて見せたことがあった。あの時の指の動きを、思い出しながら。
カチリ、と微かな音がした。
錠が回った。
心臓が跳ねた。扉をそっと押す。廊下の闇が、細い隙間から覗いた。松明は落とされていたが、壁の魔法灯が等間隔に青白い光を放っている。護衛の気配は——近くにはない。
ルナは裸足のまま、廊下へ踏み出した。
三歩。
四歩。
五歩目を踏み出した瞬間——首筋を、稲妻が貫いた。
喉の奥が焼き千切られるような衝撃が頸椎から背骨を駆け下り、一瞬で全身の筋肉を硬直させた。膝が崩れ、廊下の石の床に叩きつけられた。視界が真白に弾けて、何も見えなくなった。
息ができなかった。
呼吸の仕方を、体が忘れていた。首筋から放射状に広がった電流が、すべての神経を一本残らず焼き切ったかのように、指先も足先も動かなかった。石の冷たさだけが腹と頬に貼りついていたが、それすらも遠い。
電流が引いた後も、体は動かなかった。呼吸が戻ってきたのは、石の床の冷たさが腹の奥にまで染み込んでからだった。
這うようにして部屋に戻り扉を閉めると、鍵は自動的に再び施錠された。寝台に手をかけ、体を引きずり上げる。汗が冷えていた。首筋の皮膚の下が焦げるように熱い。
天蓋の薄絹を見上げながら、ルナは自分の両手を握りしめた。
まだ、震えていた。
*
記憶はそこで途切れていた。いつの間にか眠っていたらしい。
朝の光が、昨夜の痛みを薄い膜で覆っていた。首筋の焼けるような感覚はまだ残っていたが、筋肉の強張りはいくらか緩んでいる。
どういう仕組みかは分からないが、脱出を自動的に検知する仕組みになっている。首輪がある限り、脱出することはできない。昨日の痛みが、脱出をこれ以上繰り返す事を否定している。
ルナは寝台を降り、窓辺へ向かった。
昨夜は闇に沈んでいた城下の景色が、朝の光の中で広がっていた。だが、その光景は昨夜窓から見た夜景とはまるで違う印象だった。
「赤い、煙...?」
遠くの街の上に、煙が立ち上っていた。
炊煙ではなかった。食事を作る煙なら白く薄く、風に散っていくはずだ。あの煙は違う。赤黒く濁り、まるで空気そのものが血を含んでいるかのように、低い雲のように街全体を覆っている。街並みが陽炎のように歪んで見えたのは、異常な気温のせいだけではない。あの煙が、景色そのものを穢しているのだ。
寝室の扉が、控えめに叩かれた。
「……お嬢様。お目覚めでしょうか」
マルタの声だった。鍵が外から回される音がして、小柄な老女が水差しと朝食の盆を手に入ってきた。
マルタの視線が、窓辺に立つルナの姿を捉え、次いで——窓の外へ向けられた。
深い皺の刻まれた顔に、影が差した。
「……また、赤い煙が上がっていますね」
その呟きの中に、毎日のように繰り返されてきた嘆きの堆積が聞こえた。
「...火事なの?」
「いいえ」
マルタは盆を卓上に置きながら、窓から目を逸らさずに答えた。声の温度が、ひとつ下がっていた。
「あれは……熱病にかかった方々のご遺体を、教会が浄化のために焼いている煙だそうです」
ルナの指が、窓枠の上で止まった。
「遺体を……」
「はい。『太陽熱病』と呼ばれております。高い熱が出て、体の内側から燃えるように苦しみ……水の一族の冷却の魔法でも、天の治癒でも、治すことができない奇病だと」
マルタは静かに続けた。
「最初は城下の貧しい地区だけだったのが、徐々に上の区画にも広がってきていると聞いております。……お嬢様も、決して無理をなさってはいけませんよ」
ルナは窓の外を見つめたまま、何も言えなかった。
赤い煙が、ゆっくりと空に溶けていく。あの煙の一筋一筋が、昨日まで息をしていた人間だった。名前があり、家族がいて、今朝目覚めることができなかった人たち。
首筋の首輪の重みが、急に別の意味を帯びた。
昨夜、この首輪の痛みに打ちのめされて、自分は泣かないと決めた。自分の痛みに負けないと。けれど——窓の向こうで焼かれている人たちの痛みは、首輪の電流とは比べものにならないのではないか。
ルナは窓に額を預けた。ガラス越しの朝の陽射しが、じりじりと肌を焼いている。昼の太陽は、月の一族の体から力を奪う。それでも今は、この灼けるような光の中で、あの赤い煙を見つめていなければならないような気がした。
(この城から出ることもできない私に、何ができるの——)
赤い煙だけが、窓の外で、音もなく空へと昇り続けていた。
*
城での暮らしが始まって、十日が過ぎた。
ルナはまだ、この場所に慣れることができなかった。
朝になれば陽の光が窓から射し込み、体の芯から力が引き抜かれていく。月の一族にとっての昼は、石を括りつけられたまま水中を歩くようなものだった。指先まで鈍く重くなり、思考の輪郭がぼやけて、ただ窓辺の椅子に腰かけて景色を眺めていることしかできない時間が続いた。
夜になれば少しだけ体が軽くなる。だが、鍵のかかった扉と、首筋の金属の輪が、その僅かな自由を嘲笑うように存在していた。
レオンとの接触は、なかった。
正確には——顔だけは、毎朝見ていた。
朝食の盆がマルタの手で運ばれてくるより前に、廊下の向こうから重い足音が近づいてくる。扉が開き、深紅の髪と黄金の瞳がルナの視界の端を掠める。だが、彼はルナを見なかった。視線はマルタにだけ向けられていた。
「……異常はないか」
低い声だった。あの夜、ルナの顎を掴んだ時と同じ温度の声。
「食事はとっていたか」
「はい、殿下。昨夜の夕食は完食されました。お加減も——」
「そうか」
それだけだった。
マルタの報告を聞き終えると、レオンは踵きびすを返して去っていく。足音が遠ざかり、廊下の角を曲がり、聞こえなくなる。
毎朝、繰り返された。一日も欠けることなく。
顔を見に来るのに、指一本触れない。言葉を交わすことも、目を合わせることもない。まるで、壊れやすい品物の保管状態を確認しに来ているだけのように——いや、品物であるならば、もう少し手に取るはずだ。
何が目的なのか、分からなかった。
金貨五千枚で買った「所有物」に、指一本触れない。話しかけもしない。ただ毎朝、生きているかどうかを確認して去っていく。
使い道があるならば、命じればいい。慰み者として買ったのならば、そうすればいい。道具として使うならば、使い方を教えればいい。何をされるかが分からない恐怖よりも、何もされないまま日々が過ぎていく不気味さのほうが、じわじわと精神を圧迫した。
——もしかしたら、もっと別の目的があるのかもしれない。
ある夜、天蓋の布を見つめながら、そんな考えが頭をよぎった。
この国では、月の一族は「愛玩物」として扱われている。オークションでの値段は美しさで決まる。それは知っている。だが、王子がわざわざ闇の競りに足を運び、国庫を傾けかねない額を投じてまで手に入れた理由が、ただの見た目への執着だけとは思えなかった。
何かの儀式の生贄。特殊な魔法の触媒。あるいは、月の一族にしか持ちえない何かを——。
考えれば考えるほど、輪郭のない恐怖が膨らんだ。飼い殺しの穏やかさの裏に、何が待ち構えているのか。いつ、その正体が牙を剥くのか。毎朝の短い訪問が、処刑までの日数を数える看守の巡回のように思えてならなかった。




