24 Spell
姉が家に帰ってきたのは、夜七時きっかりだった。
父と母がおかえりと声をかけると、姉は珍しくただいまと返事をして、二階にのぼっていった。父と母が顔を見合わせ、あの子にしては珍しいな、と会話をする。
一階の居間にいた私は、姉のあとを追って二階に上がった。姉の部屋の扉をそっと開け、中に入る。
姉が振り向く。
「どうやったん、今日?」
私はいう。
「うん、まあ、なんとかなった」
姉は至極冷静に答えた。
「えっ、なんなん、どうなったんよ?」
私は踏み込んできく。なんとかなったなどという曖昧な言葉を、私は求めてなどいない。
「えっ、せやから、無事に一日過ごせたよ」
恥ずかしがっているのか、困惑しているのか、どちらともいえない表情で姉は答える。
「デートらしいデートになったん?」
「そうなんちゃうかな。いや、経験ないからわからへんけど…」
口ごもるように姉はいう。
「なに、映画観て、それからお茶でもしてたん?」
「うっ、なんであんた映画観たって知ってんのよ。まあ、あんたのいう通りの流れやったけど」
知っているもなにも、デート現場を私は見張っていたのだ。だが、姉はその事実を露ほども知らない。なんと能天気なことか。
「なんや、図星なんや。ほんで、それからどないしたん? まさかお茶してそのまま綺麗に別れたとか?」
「そ、そうや。なんか問題でも?」
「なんなん、それ。私、今日お姉ちゃんが家に帰ってこんでもいいと思ってたのに」
そういって私は姉を茶化す。いきなり枕が私目がけて飛んできた。姉が顔を真っ赤にしている。
「う、うるさいねん。家帰ってこないとか、そんなことせえへんわ」
「別に帰らへんのは悪いこととは思わへんけど、私。それくらいの気持ちでないと、男なんてできへんで」
私はいった。
「それはそうかもしれんけど…」
私の言葉に姉は考え込んでしまう。勇気や度胸のなさについて、姉も思うところがあるのだろう。
「それで、次の約束はしたん?」
私は姉にきく。
「えっ、次? いや、してへんけど」
「なにやってるんよ。次の約束をその場で取りつけるんは鉄則やろ。次にデートするのが難しくなるで」
「そないなこといわれても…。なんかすごい楽しくて、それでそのまま別れてしまった」
「なんでやねん、もう」
「い、いや、うん、なんかごめんて」
姉は私の勢いに気圧されて謝る。
なんもわかってないな、と私は思う。
「ちょっとお姉ちゃん、その相手の人のことをどう思ってんのよ。ただの男友達? それとも、付きあいたいと思ってんの? どっちなん?」
「それは…」
「それはなんなんよ…」
「まだわからへん。相手が私のことどう思ってるんかもわからんし、私がどうしたいのかわかってない」
「はあ? なによ、それ」
「紗香、こういうときってどうしたらええの?」
「そんなん、知らへんわ。どうするもこうするも、お姉ちゃん次第やろ。相手に興味があるんなら、とりあえずもう一回会ってみたらええやん。付きあう以前の話やな」
私は姉を突き放すかのように、呆れた、あるいはどこか姉を小馬鹿にするような口調でいった。
すると姉が強い口調でいう。
「興味はあるよ。いろいろ、話をしてみたいと思う。もっと彼と喋りたいことがある。話さなきゃならないことがある。それは本当」
珍しく姉の目に力がこもっていた。私は歯がゆい気持ちになる。先輩のことを彼呼ばわりする姉に、妬みを覚える。
同時になにかが引っかかる。先輩に話さなければならないこととは、なんなのか。
疑いや嫉妬を抑え込み、私はいう。
「なら、次の約束取りつけてきなよ。友達を誘うのと同じ感覚で、今度は自分から話かければええやん」
「例えばどんな風に?」
「簡単やん。前すごい楽しかったから、今度はどこどこいきましょうっていえばええだけや。楽しかったから、また今度もいきましょうっていわれたら、誰だってええ気分になるし、断るはずがあらへんやろ」
「…そうなんや」
姉は目を大きく見開き、深く頷きを繰り返す。まるで算数の問題にずっと頭を悩ませていた子供が答えを教えられて目の前がぱっと明るくなったようだった。
たいしたことでもないのに深刻に考え過ぎる姉に、私は呆れてしまう。同時に、そんな姉を妬みながら助言をしてしまう自分自身にも、私は呆れてしまう。結局は姉に手を貸している。自分のことがわかっていないのは、私も同じだ。
「ありがとう、紗香。バイトでまた会ったとき、声かけてみる」
姉は目を輝かせながらそういった。
普段暗い顔をしているくせに、たまに見せる笑顔はひどく明るく眩い。
「うん、やってみ。きっと大丈夫やから」
姉の笑顔を見ると、憎まれ口を叩く気が消えてしまった。少しだけ優しい口調で私はいう。
「…ところでさ、今日の映画面白かったん?」
「ううん、まあ、面白かったけど、難しかったかな」
姉はなんともいえないという感じで答えた。
「どういう映画よ?」
「失恋の記憶を消そうとして、けど消すのを後悔して抵抗する話。知ってる、『エターナルサンシャイン』って映画?」
「名前だけは」
「記憶を消す手術を受けるけど、手術の途中で記憶を消すのを後悔して、手術に逆らう、要するに記憶をなんとしても守ろうとするって話やけど。なんか、この時点で話がこんがらがってるやろ?」
「それ、デートで観る映画なん?」
「私もそれは思う。実際、すごい物語も映像も複雑で頭を整理するのが大変やったけど、見応えはあると思うよ」
「まあ、お姉ちゃんたちが楽しめたなら、それでええんやけど…。でも、なんでその映画を?」
私は素朴に質問してみた。村岡先輩が観ようといったのだろうが、なぜなのだろう。
「誘ってくれた後輩の子がね、おすすめっていうから」
「なんかその相手の人、どっかずれてる気もせんでもないなあ」
私がそういうと、姉は微笑む。
「ふふ、まあそういわんといてよ。なんとなく、彼がその映画を選んだ理由が、私にはわかる気がするの」
「なんか思い当たることでもあるん?」
「確かなことなんてわからへんよ。ただ、なんとなくっていうだけ」
姉の優しげな微笑みは、なにを意味するのだろう。姉は先輩が映画を選んだ理由に勘づいているようだが、それを私に明かそうとはしなかった。
「なんかはっきりせえへんなあ。なんか思い当たるんやろ?」
私はむずむずしてきて、姉に答えを迫った。
しばらく姉は答えず、私がさらに声を発しようとしたときになってようやく口を開く。
「ねえ、紗香。紗香はさ、昔の辛いことをどう捉えてる?」
「えっ、なにそれ? それがなんか関係あるの?」
唐突にそんなことをいわれても、答えに困る。
「どう捉えてるっていわれてもなあ…。辛い過去は、辛い過去や」
「答えになってるようでなってないなあ」
「せやから、辛い過去は辛いまんまってこと。いつ思い出しても、胸が痛む。都合よく忘れることはできへんし、都合よくなかったことにはできへん」
本当に辛い過去を、忘れることなどできやしない。たとえば帰り道に石を投げつけられたこと、冬の校庭でいじめられたこと、村岡先輩との恋が叶わなかったこと、どれも忘れられず、感情はあのころのまま残っている。痛みも、悲しみも、恨みも、憎しみも。私にとって過去は消せぬもの、変えられぬものに他ならない。
「紗香らしい答えやね」
姉は、さも私がそう答えるであろうと予期していたようにいう。
「それが私らしいかどうかはわからへんけど、それが映画を選んだことに関係が?」
「…誰にとってもそうやけど、彼にとっても、私にとっても、過去はやっぱり消せないみたい。けど、だからといって新しくなにかを始めることができないわけじゃない。そういうことみたい」
姉はいった。
私は頭を振る。姉のいう意味がわからなかった。
姉は私を見て微笑む。
「そんなこといっても、よくわからへんよね。まあ、いえることは、彼には彼なりの考えがあって映画を選んだってことよ」
姉はそういうが、私にはなおさらよくわからない。どういう考えが村岡先輩にあったというのだろう。姉の言葉は曖昧だ。
ただ一つだけはっきり感じることは、姉と村岡先輩の間に、なにかしらの心の繋がりが芽生え始めているということだ。まるでその二人にしかわからない会話があり、その二人でしか結びえない繋がりがあるような、そんな印象を姉の言葉から感じ取ってしまう。決して踏み入ることのできない二人の領域を見たような気がして、私は無性に姉を妬ましく思う。
「…なんかよくわからへん。まあ、ええわ。とりあえず、楽しかったんやろ、映画?」
私がそうきくと、姉は無言で、しかしはっきりと頷く。柔らかな笑みを湛えながら。
「それじゃ、次のデートの約束をちゃんと取りつけてくるんやで」
「うん、わかった。今度は私から声かけてみる」
「…そっか、じゃ、頑張って」
私はそういって、踵を返し、姉の部屋を出た。
部屋から出て、私は、自分が無意識のうちに拳をぎゅっと握り締めていたことに気がついた。爪が痛いくらいに皮膚に食い込んでいた。妬みと悔しさが沸々と湧き上がる。
過去を消すことはできない、と姉はいった。そのとおりだと私は思う。村岡先輩に恋した過去を、私は消すことはできない。過去は消えることなく、いまも私の中で命を長らえ、脈打っている。
私もまだ好きやのに、なんで、なんでお姉ちゃんなの。
誰にもきこえぬ呟きが、明かりのない廊下に零れ落ちた。込み上がる気持ちに呼応して、涙が溢れそうになる。静まり返った廊下に立ち尽くし、私は涙を堪え、唇を噛み締めた。




