19 ランデヴー (1)
なんで、なんでなん。
ぐるぐるぐるぐる思いは巡る。終わりのない螺旋階段をずっと昇らされているかのようだ。
よりにもよって、姉が、かつて私が好きだった男とデートする。しかも、かつて私が好きだった男からの誘いで。
ふざけるな。そんな言葉を吐き捨てたくなる。一体全体どうなっているのだ。
忌々しさ、憎しみ、戸惑い、嫉妬。それらすべてが一緒くたになった感情に私は激しく揺さぶられ、支配されていく。どんな善意も優しさも吹き飛んでしまい、あとに残るのは目を背けたくなるようなどす黒い感情。
私の目の前で、初めての男からの誘いに困り果て、実に無邪気な顔で私の助けを待つ姉を、蹴り飛ばしたくて仕方がなかった。髪を引っ掴んで押し倒し、馬乗りになって、その顔に張り手を浴びせたくもなった。
ぐるぐるぐるぐる思いは巡る。終わりのない思考。どうすればよいのか、私では答えを見つけ出せない。
ただ、自分の心の醜さに、辟易としつつも、どうしても清めることができない。
私の方がむしろ助けてほしい。こんな醜い心を持つ自分も嫌だったし、姉が村岡先輩とデートするのも嫌なのだ。村岡先輩の心が、私にはまったく読めない。どうすればよいのかわからないのは、私も同じだった。
「で、お姉さんを助けてあげたの?」
歩はいう。
「ううん、なにもいえんかった。そんなん自分で考ええや。そういって、自分の部屋に戻った」
そう私は答えた。
昼下がりの学生ラウンジで、私は歩と佳奈と三人で話をしていた。ラウンジの外には、これから講義に向かう何人もの学生が見える。ラウンジ内には他に学生も大勢いて、決して静かな環境ではない。
姉が私に助言を乞うた日から、二日がたっていた。結局、私はあの日、姉に助言することができなかった。自分で考えろ、という冷たい言葉を残し、自分の部屋に戻ってしまったのだ。
そんな対応でいいのか。私は迷った。迷った末に、こうして歩と佳奈に相談を持ちかけている。
「ちょっとちょっと、それくらいアドバイスあげてもいいじゃない」
歩はいった。
「そうや、別にええやん、減るもんとちゃうんやし」
佳奈も歩に同調していう。
姉が男からデートに誘われたという話をきくと、嬉々とした顔を浮かべ、歓声を上げんばかりだった二人だが、私の姉へのつれない対応をきくと、表情が少し変わった。
私は二人に責められているような気がして、少し困り顔になりながら、こういう。
「自分でもそう思うんやけど、なんか手助けする気になれんかってん」
「どういうことよ?」
歩が怪訝な顔できいてくる。
「そのまんまや。なんか、あのお姉ちゃんがデートに誘われて、なんかやたらと浮ついてるの見てたら、手助けする気がなくなったっていうか…」
「なんなん、お姉さん、そないに男から誘われたことを紗香に見せつけてきたん?」
佳奈がいった。
「見せつけてきたってことやないけど。なんていうか、あのそわそわしてる感じを見て、なんかなあって気分になってしもて…」
「もう、なにやってんのよ。アドバイスくらいしてあげたっていいじゃない。実の姉でしょ?」
歩は怒ったときのお母さんのように、どこか私を叱るような口調でいう。
私は反論のしようがなかった。
「どしたん? なんか他に事情でもあるん?」
佳奈は優しいときのお母さんのように、そうきいてくる。
「いや、別にそんなことないけど…」
私はそう答える。真っ赤な嘘だった。事情ならある。姉がデートするのは、かつて私が好きだった男なのだ。本能がこう咆哮する。姉を手助けするのが嫌だと。願わくは、デートそのものがなくなってほしいと。
だが、そんなことを、佳奈たちにはいえない。村岡先輩のことを、彼女たちにはいえない。誰にも、真実をいうことができない。
私は叱られた子供のように身を縮こまらせていた。歩と佳奈は、なにをやっているのだ、という半ば呆れた視線を私に向けている。
ばん、と机を叩く音がした。
歩が、そうしたのだった。怒りで叩いたわけではない。机を叩く音は、人の気持ちを前に向かわせるような、そんな音だった。
「もう、しゃきっとしなよ。とりあえず、お姉さんに助言をしなさい。わかった? 恋愛の先輩として、それぐらい助けてやりな」
気風のよい声で、歩はいった。
隣で佳奈もうんうんと頷いている。
私は歩の目を見た。歩の目は、男性的といえるほどにきりっと強い光を放っている。人に有無をいわせないような力強さだ。私は歩の視線に、どんな反論も抑え込まれた。
「…うん。せやんな、やっぱり手助けせなあかんよな」
私は、自分にいいきかせるようにいった。
ぽん、と私の肩に手が置かれる。
佳奈がそうしたのだった。
「助けてやりな、妹やろ?」
そういって、限りない優しさを込めて、佳奈は私に微笑みかける。
「うん」
私は微笑みを返し、そういった。
学校から家に帰ると、姉の部屋からどたばたと音がする。普段はこんな音はしない。姉いつもの姉は小難しい小説か男同士が絡み合う薄気味悪い漫画を読み耽っているからだ。私はそういう類の本が姉の部屋にあるのを知っている。心の中で軽蔑はするが、口に出さない。姉の心を壊してしまうのは目に見えたからだ。
いつもと違う騒がしさに私はまた嫉妬が蠢き出すのを感じたが、昼間の歩と佳奈にいった言葉を思い出し、それを圧殺した。
階段を昇り、姉の部屋に押し入る。そわそわと動いていた姉が、私に振り向く。二日前と同じ情けない顔が、私を見ている。
「お姉ちゃん」
私は声をかける。
「紗香…」
姉はそういい、それからの言葉を失う。
「なによ?」
「…いや、あんたが私の部屋にくるの、珍しいから…」
姉はいう。姉のいう通りで、私はあまり姉の部屋には入らない。世間の姉妹に比べれば、ずっと少ないだろう。その理由があるとすれば、姉の部屋に入る用事がないから、そして、ただ単純に姉の部屋に入りたくないからだ。
床の上に散らかる本の上に、さらにいくつもの洋服が散らかっている。
「ねえ、お姉ちゃん、前にいってたデートっていつなん?」
「えっ、いや、次の土曜日やけど」
「なんでいまからそないにそわそわしてるん?」
「そわそわ? 私が?」
「いや、どう考えてもそわそわしてるやん」
私は散らかっている服に視線を落とす。
「…その、別にそわそわってほどのことやないんやけど…」
姉はもごもごしながらいう。
「いちおう、明日もバイトで、誘ってくれた子にも会うし…」
そういって、顔を少し俯かせる。明日もバイトで村岡先輩に会うから、それでそわそわしているらしい。二十歳を過ぎてなんなのだ、この様は。
穏やかな波のように押し寄せる苛立ちと軽蔑を堪えながら、私は姉を向きあう。歩たちに約束したことを、果たさねばならない。
「…そこに散らばってる服着て、その人と会うん?」
私はいった。
「えっ? そうやけど」
ニットやジャケット、カーディガンが床の上にはある。姉はあまりスカートを履かない人だから、おそらく下はジーンズかズボンを履くのだろう。組みあわせ次第ではいくらでもお洒落に見せられるが、そもそも服を安いブランドで揃えているためか、服の色遣いや飾りに光るものがない。
「これじゃなあ…」
私は呟く。
こんな服やったら、きっと村岡先輩もがっかりするんやないか。
そんな思いが過った。
姉は私の呟きの意味がわからないためか、きょとんとした顔で私を見た。
「ちょっとお姉ちゃん、私の服貸すわ。明日も、それから土曜のデートも、私の服使い」
そういって私は姉を自分の部屋に引っ張り込んだ。姉を鏡の前に立たせておき、私はクローゼットから服を何着か持ち出す。
「ちょっ、いきなりどないしたん?」
鏡の前に棒立ちになった姉は、私の行動に戸惑ってそういう。
私は姉の戸惑いなどお構いなしに、服をベッドの上に置いていく。
「どないしたもこないしたも、デートの準備を手伝ってるだけや」
吐き捨てるようにそういった。私は姉に似あいそうな服を選び、まるで服屋の店員のように鏡の前にその服を突き出し、それが姉とあっているのか確かめる。淡いピンクに、白のボーダーが入ったニット。ピンクの色は地味な姉とはあわず、別の服を取る。深い青のだぼっとしたセーター。黒のスキニージーンズを好む姉には、ちょうどうってつけだった。他の服も確かめる。濃い緑色のチェック柄が入ったジャケットも姉に似あうのがわかった。
服の選定が終わると、私は選んだ服三着を姉にぼんと突きつけた。
おどおどしながら、姉はそれらを受け取る。
「とりあえず、明日と土曜日はその三着の中から着ていくんやで」
私はいった。
姉はこくりこくりと頷く。
「次は髪やな」
私は睨みつけるように、姉の髪を見る。
私の視線に姉がびくっと体を震わせる。
姉の髪型は、黒髪のストレートロングだ。髪の色やストレートロングそれ自体が問題ではないが、前髪がぱっつん気味になっていて、それが私たち姉妹に共通する顔の丸さをさたに強調することになっている。ただでさえ膨れたように見える顔が、破裂寸前の風船のような顔にまで見えてしまう。
「髪の色とか、髪の長さは変えなくてもええけど、前髪は変えたほうがええで」
「そ、そうなん?」
「お姉ちゃんは前髪がぱっつん気味やろ? そしたら顔が余計に丸く見えるから、前髪を斜めに流して、おでこを見せるか、それかそもそも前髪をなくすようにしいひんと、よく見えへんで」
私はそういいつつ、姉の前髪に触れ、手櫛で髪を斜めに流した。額がよく見えることで、印象が変わる。やはり髪を流すか、もしくは前髪をなくしたほうが綺麗だ。
「ほら、おでこを見せた方がなんとなく見映えがええやろ? 明日はワックスでもなんでも使ってええから、髪を斜めに流して、おでこを見せるようにしてみ」
私は鏡に映る姉に微笑みかける。
姉は鏡を見て、確かに額を見せた方が印象が良いと気づき、私の言葉に頷く。
「髪をまとめるのもありやけど、それは今度やな。とりあえず、明日は渡した服を着て、髪は今やったようにするんやで」
私は姉の背中をぽんと叩き、そして姉を部屋の外に送り出した。
「ねえ、紗香」
姉はいう。
「…なに?」
「どないしたん? いきなり、どういう風の吹き回し?」
姉の目が、じっと私を見つめていた。
「どないしたもこないしたも、ただ手助けしたくなったから、手助けしただけや」
私は内面の葛藤を表に出さず、素っ気ない調子でいった。
姉は、私の心を探ろうと、まっすぐ私を見る。
探らんといて。推し量らんといて。私の揺れる心に、踏み入らんといて。
私はそう願う。誰にも、自分の葛藤を知られたくなかった。この葛藤が人に知れれば、きっと私は滑稽な女になるし、人は私を嘲笑うだろう。
ふと、姉の表情が変わった。すうっと緊張を取り払った柔らかな表情で、姉はいう。
「紗香、ありがとうね」
目を細め、一瞬だけ微笑む。笑った時の姉の目は、限りなく優しい。姉が纏う雰囲気を、どのように表現すればよいのだろう。匂い立つ花のような柔らかさと優しさを持つ姉の表情に、私は半ば見とれていた。
姉は私が渡した服をしっかり胸に抱きながら、部屋に戻っていく。長い黒髪が揺れる。
私はただ黙って、姉の背を見つめ、姉が部屋の中に消えてからも、その場でしばらく立ち尽くしていた。
次の日の朝、眠気が抜け切らないまま目が覚めた。ひどい寝癖を手で押さえつけながら、部屋を出た。階段下の玄関で、母と姉の声がきこえた。バイトが早番で、もうすぐ家を出るらしい。私は姉の姿を確かめたくて、階段を下り、玄関に向かった。
濃い緑のジャケットを着た姉が、玄関に立っていた。黒のジーンズに、白のチュニック、そして私のジャケットの組みあわせだった。私の目論見通り、姉にばっちりと似あっていた。私の教え通りに、髪も分け目を作り、額が前よりもよく見えるようにしてあった。それまでの地味さが消え、どこか垢抜けたような雰囲気に、今日姉に会う人たちははっとなるだろう。明らかにお洒落を気取ったというより、垢抜けたと思わせるほうが、嫌味がなくてずっといい。それが私の狙いだ。
村岡先輩も、今日のお姉ちゃんを見てはっとなるんやろうか。
私はそれを密かに期待する。
玄関のドアに手をかけた姉が、私に向かっていう。
「それじゃ紗香、いってくるわ」
「うん、いってきな」
私はそれだけいった。言葉は本当にそれだけでよかった。余計な言葉はいらないのだ。
「今日の彩香、なんか爽やかな感じやったな」
近くにいた母がそういった。
「そう? 服が変わったからちゃうか」
「そういえばいつもとは違うかったね。新しく買ったんかな」
「私の貸してあげたんや」
「あら、そうなんや」
驚いたように母はいう。
「あんたらにしては珍しいわね。ふうん、いつもは地味やからかもしれんけど、ああいう爽やかな彩香はいつもと違ってなんかええね」
私はなにも言葉を返さなかった。ただ内心で、私が手伝ったゆえの当然の結果だ、という思いを強くしていた。
私は再び二階に昇り、今日の準備をする。寝癖を直し、髪を整え、メイクをする。今日の服を選ぶ段階で、私は気づく。
しもた。お姉ちゃんにええ服ばっか渡したから、今日着ていく服があらへん。
今度は私が、ばたばたと騒がしい音を立てるはめになった。




