14 夜が来る (2)
私が、ういっすー、という前に、諒が喋った。
「ういっすーはもうええからな」
「…なんでなんよ?」
「それは俺の専売特許なの。紗香は使うの禁止。とりあえず、家の前に着いたよ」
諒はいった。
私は窓辺により、カーテンをさっと引く。門扉の前に立つ諒と、その背後に停まるマツダのスイフトが見えた。
「おっけー。今降りるね」
私はそういって電話を切り、一階に降りて玄関を開ける。私の姿を見た諒が手をあげ、声をかける。
「とりあえず乗れよ」
「うん」
私は助手席に乗り込む。諒も続いて運転席に乗り込んだ。
「ほな、いきますか」
そういって、諒はスイフトを発車させた。
諒は、ドライブが好きだった。車であちこちを巡り、景色を楽しむのが好きだという。そして私も、見晴らしのよい景色を眺めたり、車中で音楽を聴いたりするのが嫌いではなかった。ドライブデートは、今まで何回もした。けれど、平日の夕方にドライブというのは、珍しかった。
「今日はなんで車で学校いったん?」
「…うん、まあ、なんていうか、あれや」
「どうせ遅刻やろ」
「遅刻やない、ちょっと寝坊してん」
「それを遅刻ていうねん。ほんで、車が使えるから、デートにもいったれと」
「まあ、端的にいうと、そういうことやな」
諒はあっさりと白状する。
「あたし、突然デート入れられるの、あんま好きちゃうねんけど」
「…それはごめんやわ。まあ、でも機嫌直せよ。絶対、楽しいから」
諒はいう。そして、運転をしながら、器用に携帯を操作し、音楽を車中に流した。
リズミカルなシンセのリフが鳴る。YUKIの『JOY』だ。私の好きな曲である。車のスピーカーは重低音がよく鳴り、ベースが家のCDプレーヤー以上によく聴こえて曲の迫力が増していた。私の脳裏に、曲にあわせて可憐なダンスを踊るYUKIの姿が浮かんだ。メロディを無意識のうちに口ずさむ。
諒は、私の機嫌の取り方をよく知っている。私の好きな曲をかけて、私を懐柔するのだ。小賢しいと思うが、嫌な気にはならない。諒は、営業職に向いているのではないか、そんなことを私は考える。
スイフトは私の街を颯爽と走り抜ける。国道に出て、ひたすら南へ。市の南側に高槻へと渡る橋が架かっている。スイフトを走らせている間、私たちは会話を楽しんだ。学校のこと、友人のこと、その他のことをああだこうだといいあった。会話が途切れれば、黙ってひたすら流れ続けるYUKIの曲を聴く。景色はぐんぐん流れ去り、車はあっという間に高槻へ入る。市の中心部を過ぎ去り、北部の住宅街へ向かう。市の北部は起伏が激しく、坂を上ったり下ったりを繰り返す。市を北東から南西に横切って走る名神高速を越え、さらに北へ。道幅狭い住宅街の中を走ると、とりわけ傾斜のきつい坂に遭遇する。
諒はアクセルをぐっと踏み込んだ。スイフトは懸命に坂に立ち向かう。数秒速度が落ちたが、やがて速度を取り戻して、坂を駆け上ってゆく。丘というよりも崖を巻く坂道だった。道の向こうは宙しかなく、眼下に高槻の街が見える。坂道を駆け上がるにつれ、眼下の景色は広がってゆく。上昇するエレベーターから街を見下ろす感覚と同じだった。私の心は躍った。今まで走り抜けてきた場所が、なんと小さく見えることか。そして、街を一望のもとに収めることができるなんて、なんとロマンチックなことか。坂道を上り切ったところで、スイフトは脇により、停車した。車から降り、開けた景色を眺めた。黄昏の光に照らされた高槻の街が、美しかった。聳え立つ市役所のビルや、島本町周辺で湾曲する高速道路が見えた。ビルの群れも、家々も、工場も、遠くの丘陵も、すべてが黄金色の光に照らされ、輝いていた。彼方に浮かぶ雲の隙間から、陽光が帯のようにさっと射し込んでいる。
高槻、それから北河内の景色を一望できるこの場所の存在を、ここの近辺の住民以外は誰も知らないであろう。諒はなぜかそれを知っていた。諒はドライブとなると、たびたび私をここに連れてきた。私は何度見ても飽きることがなかった。私の生まれた町さえも、見渡すことができたからだ。
人間、生まれ育った街に愛着を持たないわけがない。愛している町を見渡すのは、やはり気分がいい。
崖から人が落ちぬよう設置された緑色のフェンスを掴みながら、私たちはずっと景色を眺めていた。私も諒も、美しい景色を眺めるのが好きだった。二人ともとんだロマンチストだ。諒はまだいい。私はひどい。普段は冷血なくせに、こんな時だけ感傷的な気分になったり、胸をときめかせたりする。勝手な女だ。
夕陽の色が濃くなって、やがては暗い色に変わり始める。街がネオンで煌めく直前の時間。美しくもあり、どこか切ない。近くの家から、夕餉の匂いが漂ってきた。不意に私は、胸が締めつけられるような気分になった。
私は諒の服の袖を引っ張った。景色に見とれていた諒が、私の方に向く。
「どうしたんや?」
「なんか夕飯の匂いかいだら、家に帰りたくなってきた」
私はいう。
諒はそれをきいて、微笑んだ。なにがおかしかったのだろう。
「そっか。それじゃ、帰ろか」
「うん」
私たちは、車に乗り込んだ。私の家に向かって、再びスイフトは走り出した。
車上、私は歌を口ずさみながら、空を見ていた。夕暮れから、夜に変わりゆく空。茜色がすっと消えていき、夜の紺青が空を塗る。空というキャンバスに散りばめられた砂粒ほどの星々が、紺青に塗り固められた下地の上で、きらきらと輝く。白く細い月が、冷たく私を見下している。酷薄さを感じるほどの、冷たい光を月は私たちに落とす。
YUKIがずっとかかっていたせいか、私は甘たるい気分になっていた。男にぎゅっと抱き締められて、幸福感を味わってみたくなった。
国道沿いには、ラブホテルがいくつも並んでいた。
たとえばいま諒を誘えば、きっと諒は喜んでホテルに入るだろう。そして私も、妙に男が欲しいという気分だった。
諒を誘おう。そう思った瞬間、なぜか逆に気分が醒めた。なぜなのか、自分でもよくわからなかった。立ち並ぶホテルの胡散臭い看板やけばけばしい外壁を見て興醒めしたからか、それとも、欲情して男を誘おうとする私自身に興醒めしたのか。
結局、ホテルに入ることなく、私の家のすぐ近くまで着いた。
「ここでいい」
家から少し離れたところで、私は諒に停車するよういった。家族に男とのデート帰りをあまり見られたくなかった。
諒はブレーキをかける。
私はドアを開けて、車を出ようとした瞬間、前方の人影に気づいてはっとなる。
姉がちょうど家に向かって、家の前の道路を横切ろうとしていた。車がこないか、後ろを振り返ってから、道を渡っていた。小走りになり、姉の長い髪が揺れる。振り返った姉の表情は、なぜか嬉しそうだった。顔は上気し、微笑みが浮かんでいた。なにがあったのだろう。
朝の、姉の服装を思い返す。普段の姉らしからぬ、お洒落な服装。
「…あのさあ」
私は諒に顔を向けた。
「いつも服に無頓着な女がお洒落するときってさ、だいたい理由って決まってるよな?」
「ん? いきなりどないしてん?」
「いや、素朴な質問なんやけど」
「…よくわからんけど、そりゃあ、デートとか、そこらへんちゃうん?」
「やっぱりそうやんなあ」
私はそういって、家に入っていこうとする姉を凝視する。
「なんや、なんかあったんか?」
諒は私が突拍子もない質問をしたせいか、少し怪訝そうにしている。
「…なんかさ、私のお姉ちゃんが今日やけにお洒落しててん。いつもなら絶対あり得へんのに」
「そんじゃ、デートかなんかちゃうんか?」
「私の姉に限って、デートする男なんかおらんわ」
私は断言する。いまのいままで、姉が男と出歩いたところなぞ、見たこともなかった。
諒は私の断言口調に苦笑いする。
「えらいひどいいい草やな」
「事実やからしゃあないもん」
「じゃあ、お前の姉ちゃんが今日お洒落してたのはなんやったんや?」
そういわれると、頭を抱えざるをえない。
「そこやねんな。やっぱデートなんかな?」
「いや、そんなん俺は知らんがな。お前の姉ちゃんの話はよくきくけど、会ったことないし」
「うーん、どうなんやろ?」
お洒落した姉。嬉しそうな顔を浮かべた姉。私の本能は、なにかあると告げている。
「…とりあえずいまはまだなんもわからんやろ」
「せやんなあ」
「あれとちゃう? 服装とか、髪型とか、なんかそういうのでお前に相談を持ちかけてきたら、それは疑い濃厚ってことやろ」
私は、むむむ、と唸る。
「とりあえずそういう風になるまではなんもわからんやろ」
諒は呆れた顔でそういった。
夕暮れ過ぎて、夜が訪れた。周囲は暗くなり、街灯が寂しく光を放っていた。
姉になんかあったんやろか。
こんなことで考え込むなど馬鹿げている。そうは知っていても、私には、姉の挙動が気にかかって仕方なかった。




