13 夜が来る (1)
大学生もフリーターも、気楽な身分でええなあ。
そう語るのは、父である。父どころか、社会に出てまともな仕事に就いている人間ならば、その大半がそういうであろう。大学生とは、職業が人に課す義務や責任、時間的拘束とはほとんど無関係の、ほぼほぼ自由を約束された存在なのだから、職業的重圧に桎梏する社会人は誰もがその立場を羨むに決まっている。特に父は金融機関というお堅いところに努めている以上、羽目を外すことは期待できるはずもない。なおさら学生身分が羨ましいはずだ。
私自身、将来仕事に就いて働き始めれば、誰に強制されるでもなく、学生に戻りたい、学生は気楽でいいなというであろう。
あり余る時間。米粒ほどの責任と義務。目の前に広がる、なにをやってもいいという途方もない自由。それらに呼応するかのように、ひもじく寂しい懐事情。すべて、学生とフリーターのみが持つ特権である。
そして、私たち姉妹は、その特権を使いに使っているというわけだ。誰になにをいわれることもなく、日々好きなことを好きなだけする。お金がなくなれば、アルバイトをして当座の金を稼ぐ。なんと気楽な身分だろう。
水曜日の午前十時、綿のような雲が漂い、その背後には澄み渡るような空の青さ。秋の風が吹いているが、部屋の中だから気にならない。
私は部屋のベッドでごろごろしながら、姉から借りた『横道世之介』を読んでいる。
水曜はいわゆる空き日で、大学にいく必要がなかった。授業もない、サークルの行事もない、バイトもない、完全な休息日である。だから私は、部屋で好きなことをしているというわけだ。
世間はせかせかと動き回るのに、私だけはゆったりとした時間を過ごしている。このだらけた感覚が、どうしようもなく大好きだ。
いつの時代だって、学生はこんなものだろう、と私は思う。みんな能天気で、自堕落で、自由を謳歌している。現にいま読んでいる『横道世之介』も、バブル期の大学生を描いた小説だが、大学生たちが授業をないがしろにして、サークル、遊び、バイト、恋愛に没頭するところはその当時も今も、これっぽっちも変わりやしない。遊び方や遊ぶ場所が多少異なるだけで、根元の部分は一緒なのだ。
物語を読み進めるにつれ、バブルという時代の雰囲気が段々とわかってくる。根本的には一緒とはいえ、バブル期の学生の華やかさには、少しばかりの羨望を禁じ得ない。極端な違いが今と昔にあるわけではない。ただ、金銭感覚や人間関係の濃度、時代の空気感は明らかに違う。昔に比べると、今の学生は金銭に保守的で、人間関係は派手ではないが、背伸びがなく、ゆったりとしている。今が嫌いというわけではないが、今に慣れ切っている反動で、昔の雰囲気がほんのわずかに羨ましい。少しだけでも直接体験してみたいという気分になる。
活字を追うのに疲れてくると、私は本を閉じて枕元に置く。そのままベッドに体を沈め、目まで閉じる。惰眠を貪るのも、それもまた自由なのである。
眠りがくるまで、周囲の音に耳を澄ませる。外では朝の秋風が鳴り、内では姉の足音が響く。隣の部屋にいる姉が、ばたばたと動き回っているのが感じ取れる。
今の時間帯、家にいるのは私たち姉妹である。父と母はすでに仕事に出てしまった。私はいわずもがな今日一日部屋でごろごろするから家を出るはずもない。姉は、ばたばたと足音を立てていることから察すると、もうすぐバイトかなにかで家を出るようだ。姉の予定を詳しくは知らない。けれど、おそらくバイトだろう。バイト以外の用事で家を出る姉など、滅多に見たことがないからだ。
不規則に足音が響く。ときどき、壁にぶつかる音がする。姉は、なにをしているのだろう。耳を澄ませている自分も悪いのだが、妙な音を立てられると、無性に苛立ってくるのだ。ばたばた、どたどた、たまにどかん。そんな音が、隣室からきこえてくる。しまいには、クローゼットを開け閉めする時の、磁石に戸が引きつけられて発するカチカチとした音も加わり、不快感がさらに増す。
ああもう、はよ着替えて準備終われや。
苛立ちが眠気を遠ざけ、そして私に体を起こさせる。一言文句をいってやろうと私をそんな気分にさせる。部屋から出て、姉の部屋の前に立つ。その時、ちょうど姉が部屋から出てきた。
部屋から出てきた姉の姿を見て、私はたじろいだ。普段よりもちゃんとした、よそいきの格好をしていたからだ。黒のパンツを履き、リボンつきの白シャツと深みのある青色のカーディガンを羽織っている。服装や色のコーディネートは上手い。難点をつけるとすれば、服装に対して長い黒髪が調和していない。髪を下すのではなく、ショートにするか髪をまとめ上げれば、もっと見栄えよくなるだろう。私から見て、今日の姉は惜しいといわざるを得ない。だが、それでも、普段の姉からは想像もつかぬくらい、しっかりした格好であった。普段なら、ユニクロで全身武装していてもなにも気にならぬくらい、服には無頓着な人である。いったいなにがあったというのか。
「ちょっと、お姉ちゃん」
私は姉の前に仁王立ちしながら、声をかける。
姉はきょとんとした顔で、私を見る。
「どないしたん?」
「どないしたんって、お姉ちゃん音立て過ぎ。もうちょっと静かに着替えして」
私はいう。
姉はしばし沈黙し、二秒後になり、はっと気づいたように口を開いていう。
「…ああ、ごめんな。ちょっと慌てててん」
どうやら姉は自分が大きな音を立てていたことに気づいていなかったらしい。
なにをそんなに慌てているのだろう。私は率直にそう思った。
「もう。あんまり音立てんといてや。眠ろう思ても眠れんわ」
ついいつもの流れで、姉に小言をいってしまう。姉はしょんぼりしたように唇を少し噛むような表情をする。
「今日、どっかいくん?」
話の流れを変えようと、私はいう。
「ああ、うん。ちょっとね」
「バイト?」
「そうよ」
「えらいちゃんとした格好やん」
「なによ、それ」
姉はくすりと笑う。
「私がいつもちゃんとしてないみたいやん」
「あ、いや、そういうわけちゃうけど。…でも、今日の格好は特にちゃんとしてるから」
「そ、そう? なんか、いつもと同じ気もするけど…」
そういいながら、姉は照れる仕草を見せる。姉は照れると口調がおどおどし出して、声が籠りがちになる。今がまさにそうだ。
「全然ちゃんとした格好やわ。なんや、バイトのあとにデートでもあるんかと思ったわ」
「えっ、なんでよ?」
「…なんでって、そりゃ人がお洒落する時は、たいていデートかなんかって相場が決まってるやん」
「そ、そんなん、私にあるわけあらへんやん、デートなんて」
私の野暮な勘繰りを、姉は慌てて否定する。たかがデートを必死で否定されてもなあ、と私は思うが、言葉にはしない。二十三年の人生で、姉はどれだけデートをしてきたのだろう。指折り数えるほどしかないと思う。ましてや付き合った男など、一人としていないはずだ。いい加減、男くらい見つければいいのに。なぜだか私が哀しい気持ちになる。
姉の前にずっと立って道を塞ぐのは悪い気がして、私は横にどいた。
姉は私の横を通り、一階に降りていこうとする。
「ねえ、晩御飯は?」
階段を下りる姉の背中に向かって声をかける。
「晩御飯までには戻ってくるよ」
姉はこちらを振り向いてそういう。
「うん、わかった。ほな、いってらっしゃい」
「うん、いってくる」
やがて姉の姿は見えなくなった。しばらくして、玄関の扉が開き、そして閉まる音がする。
そして私は、家に一人残った。
自分の部屋に戻って、ベッドに横たわる。読書に戻ろうか、それとも眠りに落ちようか。逡巡していた時に、タイミングよく携帯が鳴る。携帯の画面には、小林諒、着信、との文字が浮かんでいる。
私はすぐに通話のボタンを押した。
「ういっすー」
「おい、なんでおっさんみたいな話し方やねん」
携帯からきこえる諒の第一声がそれだった。
「諒の真似してみてん」
「アホ。そんなんせんでええねん」
諒の声に笑いが混じる。きっと彼は苦笑いを浮かべているに違いない。
「どうしたん?」
「紗香さ、今なにしてんの?」
「…なにしてんのって、家でごろごろしてる」
「今日バイトは?」
「なんも入ってないよ。今日は完全フリー。家でだらだらすんねん」
「おっ、いいねえ」
諒は嬉しそうに声を上げる。私を羨むというよりかは、彼にとって都合がよいという響きがあった。
「なんなん、どないしたん?」
「いや、あのさ、もし紗香がええんなら、ドライブでもいかへんかなって」
「ドライブ? ずいぶん突然とちゃう?」
「まあな。今日、車で学校きてんねん。あんましそんな機会ないし、どうせやったら、ドライブにも使ったろと思ってさ」
「え、でも、私、いちいち待ち合わせで京都まで出たくないで」
「ええよ、そんなん。俺が紗香の家まで迎えにいくし。帰りもちゃんと送るから」
「何時くらいに迎えにくるん?」
「五時くらい。いって帰って一時間半くらい。どう、いってみいひん?」
諒はいった。私は頭の中で、夕食の時間に間に合うかどうか考えた。母が六時過ぎに帰ってきて、それから準備をしてとなると、夕食の時間は七時前後だろう。時間的には問題がない。
「んー、了解。準備しとく」
「オッケー、ほな、五時に着くようにするし」
「わかった。待っとくわ」
「よろしくー」
「ういっすー」
「…いや、だから、その真似せんでええねん」
諒が突っ込みをいい終えてすぐ、私は通話を切った。
携帯を布団の上に放り投げる。そして自分の身もベッドに沈め、ため息を零す。
面倒臭い。ああもう面倒臭い。せっかくの完全オフ日やのに、なんでドライブデートやねん。化粧が、着替えが、準備が、面倒で仕方ない。
心の中で、私は面倒臭いと何度も叫ぶ。実際に声が出そうになって、枕に顔をぎゅっと押しつけ、口を塞いだ。
諒の悪癖だ。人の予定が空いているのをいいことに、突然にデートの予定を入れてくる。しかもぐいぐいと押してくるので、断りづらい。面倒だとか、気が向かないなどという言葉は、付き合っている手前、どうしてもいえなかった。
億劫さが、私の全身を毛布のように包んでいるのを感じた。家どころか、部屋から一歩も出たくないという気持ちが、一秒ごとに強くなっていく。
ドライブに誘ってくれて嬉しいという気持ちと、突然に予定を入れてくることへの苛立ちと、休日が休日でなくなったことへの気落ちが一緒くたになって、私にどしりとのしかかってくる。
ドライブにいくならいくで、楽しめるには違いない。だが、どうしても気乗りしなかった。
私は気分転換もかねて、再び本を手に取った。どうせだったら、『横道世之介』を読み切ってやろう、そんな気になった。約束の五時までは、まだまだ時間があるのだ。
田舎から東京に出てきたばかりの大学生の、可笑しくも切ない物語を追う。なぜ諒が作者を好きなのかはわからない。けれど、好きになるのも頷けるほど、この小説のストーリーテリングは巧みで、かつ情感に溢れ、人の心を打つものがあった。
いつしか私は、物語に熱中していた。ときどき、主人公と諒が重なって見えた。諒も、主人公世之介のように、どこか抜けていて、そのくせ愛嬌があった。深く考えもせずに物事に取りかかっては、持ち前の適当さでなんとか切り抜けていく、そんなところも似ていた。ただ違うところもあって、諒には田舎臭さなど微塵もなかった。都会への憧れもなかった。なぜなら、彼は西宮で生まれ育ったからだ。幼いころから、梅田や神戸はすぐ近くにあった。私がなんの感動もなく京都の路地を歩いていくように、諒も、梅田や神戸の街路をなんの感慨もなく歩いてゆく。
休憩を挟んで本を読み終わるころには、昼の二時を過ぎていた。一階のダイニングに下りて昼食を取り、リビングのソファでだらしなく昼寝した。はっと目が覚め、時計を見ると、四時二十分を少し過ぎている。
眠気がまったくなく、気分はすっきりとしていた。だが私は、焦っていた。慌てて部屋に戻り、化粧をした。昼寝で寝癖がついた髪を、ヘアウォーターを使い必死に整える。化粧が終わったのが、四時四十分。服装を考える。今日は原付を使わないので、短い丈のものを履いても大丈夫だろう。私は少し丈の短い青のデニムジーンズを履いた。トップスは、少しだぼっとした白のセーターを着た。デニムがきゅっと締まった印象を与える一方で、トップスのセーターがそれとは正反対の緩くふわふわとした印象を与える。全体として見ると、その正反対の二つがちょうどいい具合に調和していた。眼鏡や小物をつけようか迷ったが、結局つけずじまいだった。
五時きっかりに、私の携帯が鳴った。いうまでもなく、諒からだった。




