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姉の旅立ち  作者: ENO
第2部 バイタルサイン
12/57

12 ふがいないや (2)

 原付を飛ばしながら、家まで帰る。

 川沿いの道を速度超過で疾走する。昔の思い出を思い出さぬように、それを置き去りにするかのように、私は速度を上げていく。

 清らかな月が、私を追いかけてくる。私は、月を見向きもしない。むしろ月を遠くに突き放したいくらいの気持ちで走っていく。

 しばらく道路を走ると、大きな国道にぶつかる。その国道を越えてさらに走ると、左手に川にかかる橋が見えてくる。橋を渡った先には小高い丘があり、その丘全体が、私の住んでいる町だった。橋を渡り、丘の坂道を上っていく。坂道を上ると、バスの停留所が見えてきて、停留所付近の交差点を左に曲がる。そのまま道なりに走って三十秒で、私の家が見えてくる。

 家の近所を走る時、普通は家々が並んでいる景色しか見えない。ところが、一か所だけ景色が開けるところがある。その場所からは、私の街が見渡せた。駅前の高層ビルや私がさっきまで駆け抜けていた家々や工場も見渡せる。淀川を挟んで対岸にある街も見える。景色の奥の方で、なにかが駆け抜けている。あれは対岸の街を走る阪急線だろうか、それともJR線だろうか。

 街の夜景が見渡せるその場所が私は好きで、家がもう間近だというのに、ついつい原付を止めて、その景色に見入ってしまう。

 もう寂れかけた町。けれど、この町から見える夜景の美しさは、寂れるはずがない。

ひとしきり景色を眺めたあと、妙に感傷的な気分で私は家に向かう。家がすぐそこなので、原付を押していく。家のガレージに原付を停め、家に入る。

 父と母は家に帰っていて、私より先に夕飯も済ませていた。食卓の上には、サランラップを被せられた野菜炒めが二皿、ご飯が盛られた茶碗が二つあった。私と姉の分だ。母がそそくさと冷蔵庫から茶碗蒸しを取り出し、電子レンジに入れる。茶碗蒸しを温めながら、今度はコンロに火をつけ、コンロの上の鍋に入っている味噌汁を温めた。茶碗蒸しと味噌汁はほぼ同じタイミングで温まり、卓の上に出された。食事出しが終わると、母はテレビの前に敷かれたカーペットに寝転がり、テレビ鑑賞に没頭する。時折ぽりぽりと背中やお尻をかく。みっともないからやめえや、と私は思う。父の姿がない。たぶん、自分の部屋でごろごろしているからだろう。

 私は夕飯を食べながら、ぼんやりテレビを眺める。くだらないバラエティ番組だった。こんな番組を見るくらいなら、ニュースを見た方がましだと思ったが、優先権は母にある。だから、私はひどく白け切った顔でテレビを見る。

 ちょうど夕飯を食べ終わるころ、玄関の扉が開く音がした。ただいまの声もなく、のさのさとした足音が響く。

 お姉ちゃんや。

 寝転がっていた母が、扉の開く音と足音をきくなり、おかえり、と声をかける。姉からの返答はない。母はもとより姉の返事など期待していない。だが、毎日おかえりと声をかけ続けている。私は母のそういうところを素直に尊敬している。

 一方の私は、姉におかえりなんて言葉をかけたことは久しくない。言葉をかけても無駄、とどこかで悟っているから。

 どさどさと階段を上る音。姉はいったん自分の部屋に向かったのだろう。普段の姉なら荷物を置いて、部屋着に着替え、すぐ下に降りてくるはずだった。ところが、今日の姉はいつまでたっても部屋から出てこなかった。

 普段と様子が違うので、寝転がっていた母がむすっと起き上がり、夕飯どうすんねやろ、と呟く。母が大きな声で姉を呼びつけようとしたので、私は母にいう。

「今日はお姉ちゃん、部屋から出てこおへんで」

「なんでなん? ご飯あんのに…」

 私は母に、今日書店で起きた出来事を伝えた。

「なんや、あの子いま落ち込んでるん?」

「たぶんそうやと思う。けっこうきつくいわれてたし」

「ふうん、変な客もおるんやな。図書館のお年寄りとどっこいどっこいちゃうか」

 母はいった。図書館勤めの母が苦手なのが、耄碌した爺さん婆さんの相手をすることだという。あの蟷螂みたいなサラリーマン同様、まともに対応していると疲れ果てそうだ。

「せやから、今日はお姉ちゃん部屋から出ても、風呂が限界ちゃうか。ご飯食べる気力ないで、よおわからんけど」

「それならしゃあないけど…」

 母は姉を案ずる表情を浮かべながら、またカーペットに寝転がる。

「なら紗香、ごめんやけど、彩香の分の野菜炒めとお茶碗、冷蔵庫に入れといて。明日のあの子の朝ご飯にしとくさかい」

「うん、わかった」

 私は自分の食べ終えた食器を流しに置き、姉のためにとってあった料理を冷蔵庫にしまった。ついでで、みんなの食器も洗った。父の食器は食べ残しが少ないが、母はけっこう残している。二人の茶碗を見比べると、父は米粒一つ残していないが、母は茶碗の縁やなぜか茶碗の裏にまで米粒を残している。こういうところで、なんとなく両親の性格が見えてくるものだ。

 おそらく私は父の妙に几帳面な性格を受け継ぎ、姉は母のわりかし適当な性格を受け継いだのだろう。神様は私たちの遺伝子を上手い具合に差配してくれなかったようだ。だから、性格の両極端な姉妹が産み落とされたのだ。

 食器を洗い終えるとすることがなにもなくなったので、私は風呂に入った。私の風呂は長い。長過ぎて、よく母に叱られる。別になにかしているわけではないが、湯船に浸かっていろいろ考え込んでいたりすると、時間が矢のように過ぎてしまう。美容にはいいのだから、長風呂くらい許してほしいものだ。

 風呂から上がり、自分の部屋にいった。途中姉の部屋の前を通り過ぎるが、人気を感じることができなかった。部屋からなにか音が漏れてくることもない。

 へこみ過ぎやろ、お姉ちゃん。

 優しい言葉をかけてやろうか迷う。人を慰めたり、励ましたりする性分ではないと私は自覚しているからだ。

 部屋の扉の前で、一歩前に出たり、下がったり、横に動いたりする。まどろっこしくなって、ついに私は扉をノックする。

「お姉ちゃん」

 声をかける。こういう状況が珍しいからか、やけに声が震える。姉が相手なのに、なにをしているのだ。

 しばしの沈黙ののち、がさごそと物音がした。そして、声が返ってくる。

「どうしたん?」

 姉の声は、やはり少しばかり暗くて硬かった。

 大丈夫なん、といいかけて、思わずいいとどまる。姉は私があの場に居合わせたことを知らないのだ。

「あっ、いや、ご飯どうすんのかなって思って」

 私はこっそりと扉を開ける。漫画や書籍が散乱した部屋で、姉は外出着のまま床に座り込み、携帯をいじっていた。物騒な恨み言でも書き込んでやしないかと不安に思う。

 私と姉は、やはり姉妹らしく、どこか似ていてどこか似ていない。二人とも輪郭が丸く、二重瞼だが目が小さいのは同じだった。違うところといえば、そばかすである。姉の目の周りには、そばかすが星座のように散りばめられていた。ほとんど目立ちはしないが、そのそばかすの有無が、私たち姉妹の顔の明確な違いだった。

 姉は携帯から目を離し、落ち込んだ表情で私を見た。もともと控えめで大人しい印象を与える人だが、落ち込んでいる時の顔は、なんと暗く憂鬱そうなのだろう。

「今日はご飯いらへんって、お母さんにゆっといて」

 物憂げな調子で姉はいう。

「ああ、うん、わかった。…それじゃ、明日の朝に回しとくし」

 私はぎこちない返事をする。落ち込んでいる人間を前にすると、その人の調子につられて持ち前のはきはきとした口調にならない。

「…うん、ありがとう」

 姉はぼそりと感謝の言葉を口にする。もっと気持ちよくありがとうといえないのか、と私は思うが、口には出さない。

 再び姉は携帯の画面に目を向けた。妹にはもう興味がないといわんばかりに、画面を見る。

 私は私で姉にかけてやる言葉がなく、ただ黙って姉を見つめて突っ立っていた。

 数秒ほどの、わけのわからぬ気まずい沈黙。その沈黙に耐えられず、私はほぼ無意識で足を踏み出した。床に放置されたままの本を踏まぬように進み、姉の本棚の前に立って、本を物色し始めた。

 奥行三十、幅百二十、高さ百七十センチのマホガニーのような色をした本棚には、本屋のそれのようにびっしりと、しかも整然と本が並べられている。漫画と小説がほぼ半々の割合で本棚を埋める。そこからあぶれた本たちは、みな床に転がるというわけだ。本棚の整然さと床の乱雑さが妙な対比をなしている。

 姉妹をやっていれば、姉の好みはすぐにわかる。姉は教科書に出てくるような古典的文学よりも、現代文学を好む。村上春樹、吉本ばなな、川上弘美、山田詠美。これらの本を読みたければ、本屋で買うより姉から借りた方が手っ取り早い。

 諒が、吉田修一が好きだといっていたっけ。

 彼の本がないか、私は本棚を探る。本棚の下の方に、や行の作家たちの本が置かれている。吉田修一の本も、四冊くらい置かれていた。とりあえず本を抜き出して、裏表紙のあらすじを見る。一番気に入ったのが、『横道世之介』だった。それ以外の本は、元の位置に戻した。

「お姉ちゃん、この本借りてくな」

 私は姉にいった。

「…ああ、うん、ええよ」

 気の抜けたような、姉の返事。

 私は本を片手に、部屋の入口まで戻る。そのまま自分の部屋にいこうとするが、床に座り込んだままの姉が気にかかる。

「お姉ちゃん」

 私は振り返り、声をかける。

「…あのさ、大丈夫?」

 普段の私ではありえないような、優しく小さな声でいった。

 姉は、しばらく黙っていた。逡巡しているらしいことはわかった。携帯に触れる指先の動きが、止まっている。

「…うん、大丈夫よ」

 姉は私を見上げ、そういった。ほんのちょっと、微笑んだような顔になる。辛そうなくせに、無理に柔らかな表情を作っている。

 昔から姉は、痩せ我慢の人だった。辛いことがあっても、絶対に辛いとは口にせず、じっと自分だけで受け止め、抱え込んで生きてきた人だ。

「…そう。じゃ、安心したわ」

 私は嘘をつく。安心など、まったくしていない。けれど、姉を慰めたり、励ましたりする勇気がなかった。姉は私の慰めなど望んでいない、一人で塞ぎ込みたいのだ、そんな思いに突然囚われ、臆病になった。

 私は、まるで逃げるように姉の部屋を出た。

自分の部屋に入って、ベッドに身を投げ出す。ふかふかの枕に顔を埋め、姉を思う。

 やっぱり、慰めた方がよかったんちゃうか。

 そんな考えが浮かぶ。けれど、実際には動き出さない。人を慰めるのは、やはり性分でなかった。普段嫌いな相手に、どうして優しい言葉をかけてやれるだろう。

 もうええ、一人で苦しんでもらったらええねん。私はいらんねん。

 そう自分に思い込ませ、私は眠りに逃げようとする。姿勢を仰向けにすると、思っていたよりも早く眠りがやってきた。意識が遠のく。

 気がつけば、窓から朝陽が差し込んでいた。そして、部屋の外から誰かの足音がきこえてくる。

 私は半身を起こし、机の上にある目覚ましを見る。六時前。目覚ましの設定時刻より早く起きた。ベッドから抜け出て、目覚ましをオフにする。

 まだ寒くない季節だからか、寝覚めは気持ちがいい。陽射しで部屋が明るいせいか、眠気がぶり返すこともない。

 部屋の外の足音がわずかに遠ざかり、階段を下りていく音に変化する。おそらく姉だろう。

 朝が弱いくせに、起きるのは早い。それが姉だった。また朦朧とした状態でリビングにいったのだろう。朝早く起きる理由はひとえに、母が父の出勤時間にあわせて作ったできたての朝ご飯が食べたいからだ。まったく、食い意地だけは張っている。

 私は部屋の扉を開け、洗面室に入る。相変わらず姉の髪が、洗面台のカウンターに落ちている。鏡にはいくつもの水滴がついていた。三面鏡を開くと、私の歯ブラシは昨日のように濡れていた。

 昨日いったばっかしやのに、なんで人のいうこときけへんねやろ。

 私は大音声を上げたくなった。声を出そうとして、土壇場で思いとどまる。

 昨日のこともあるから、今日は負けといてあげよう。

 私は声を上げることなく、水道の蛇口を捻り、温水が出るのを待ってから顔を洗い始めた。


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