3.4
それから彼女は夜になるまで、昨日までと同じように絵を描いた。
今日は熱心に小屋のまわりばかりを描いていたようで、昼すぎには小屋に戻ってきて一緒に昼食をとった。
そこでも彼女がダイエットに触れることはなかった。
ふたりで小屋を出発したのは割と早い時間帯で、帰ってくるのもそれほど遅くはならないと予想していた。それなのに、日付が変わった今もこうやって外をふたりで歩いているのは、彼女が夜突きを思いのほか気に入ったからだ。
「すごくおもしろかったですっ」
彼女はそればかり言って、ヤスを振りおろす素振りをしては大喜びした。
「夜突きは継美さんのお気に入りになったかな?」
僕が持つカンテラの明かりが彼女の笑顔を揺らした。
「だって、簡単にこんなたくさんの魚が!」
川魚が一杯に詰め込まれた袋を、彼女は両手で胸先まで持ちあげた。
僕は最初に何回か手本を見せただけで、僕と彼女が手分けして持つたくさんの魚は、そのほとんどが彼女の振りおろすヤスに仕留められたものだ。
歩きはじめてかれこれ一時間は経とうとしているのに、未だ小屋に到着しない。これは僕が思いたって寄り道を決めたせいだ。
ふたつある僕の特別な場所のうち、片方にでも人を連れていくのはこれが初めて。
会話の区切りごとに彼女が訊く「どこに連れていってくれるのですか?」はこれでもう何度目だろう。
「着いてからね」その度に僕は言った。
彼女との話し声と、時々僕の持つヤスが片脇の木にぶつかってかつかつと立てる音以外は、なんのことはないただの肌寒い月の夜。
「持ちにくくないですか?」
右隣の彼女は歩きながら体を前のめりにして、僕の左手を覗き込んだ。
「大丈夫、大丈夫。継美さんこそ、その魚重くない?」
右手に持つカンテラで、彼女が右手、左手と何度も持ち替えている大きな袋を照らした。
「わたしも平気です」
彼女はもう一度それを持ち直して、我慢強く言った。
僕は、うん、と頷いて袋とヤスを足下に置いた。
「茂みに入るよ」
彼女もそこに袋を置いて、身軽になった両腕を小刻みに振りながら道を外れた僕についてきた。
「ほら、これ。見てごらん」
僕はしゃがんでカンテラを低い位置につきだした。
「これ?」
真っ暗な闇のなかに、僕と彼女だけがぼんやりとした明かりに照らされる。
「ごめんなさい。暗くてよく見えないわ」
「うん。昼でもね、ここは暗いんだ。まわりに高い木がそびえてるから、葉越しの月明かりもここまでは少ししか届かないんだ」
真剣にそこにあるものに焦点を合わせようとする彼女を、僕はこっそり見つめた。
「枯れ木が横たわってるわ」
瞳にカンテラと月の明かりの束を集めた彼女はそう呟く。
「まわりの木と比べて細いのね。種類が違うのかしら」
彼女は言い添えた。
「この木はね、生まれてすぐに死んでしまったんだよ」
僕は、もう腐ってぼろぼろになったその木に視線を落とした。
「運が悪かったんだ。ちょうど背の高い木々のあいだに生まれてしまったから、他の木たちに太陽の光を遮られてしまって」
僕は深呼吸して、久しぶりに会ったその木に手で触れた。
「もっと高いところを目指してずっとがんばっていたのに、ついに力尽きてしまったんだ」
「朽木さんは、この木にお詳しいんですね」
僕は、顔を上げた彼女と視線を合わせた。
「この木は僕だった。と、いつからかそう思っているんだ」
カンテラの明かりが、映す影をゆらりとさせた。
「人に生まれかわったんだ」
おかしなことを言いだしたと不快に思われてはいないだろうか。
彼女は顔色ひとつ変えずに木を見つめている。
「僕はね、昔来た場所って、風景とかランドマークとか、そういうのじゃなくてね、なんていうかな。漠然とした雰囲気っていうか、その場所特有のにおいみたいなもので覚えているんだ。それで、子供の頃ここにそういうにおいを感じたんだ。そのとき、子供ながらにもっと昔ここにいたことがあったんだって思ったんだ」
そう、そうだった。人に話すことなんてなかったから、ずっとうちに秘めていたけど、言葉にするといろいろ思いだす。
確か父親が亡くなって、それをきっかけに山を下りることになって、あれは、きっと親戚かな――わからないけど、他人の家でずっと暮らしていたんだ。それも中学までだったな。あとは自力で高校を出て……。
「朽木さんって、その、わたしと似た考え方をお持ちなんですね」
曖昧な記憶の風景は消えて、夜の景色と、淡い色の彼女が目の前に現れた。
「わたしも子供の頃はよく、前世はああだったんじゃないかとか、こうだったんじゃないかとか考えました。それで、わたしは生まれてくる前はかわいい小鳥だったんだってずっと思っていたんです」
彼女は、女の子の勝手な憧れですよね、と笑った。
幼い頃の夢が再現したこの場所では、土の唸りも、ほのかな風の歌声もはっきりと耳に聞こえた。
「この木は、まわりの木に邪魔されない、高い高いところに焦がれていたんだ」
ここからは遙か遠い、あの木の頂点より先に。
「報われない恋をしていたのね」
「片思いだから切ないね」
「ううん、そんなのわからないわ。お互い思い合っていたかもしれないのに。ええ、それなのに、遠すぎてお互いの想いが通じ合えないなんて……」
やっぱり、切ないかも、と彼女は言った。
その木は、ずっと高いところの、日の光を目一杯に浴びる小さな鳥に憧れていた。
そんな僕の枯れた表皮を彼女は優しく撫でて、ちょっと悲しい顔をした。




