1.3
日も落ちると、昼は夢だったように胸から喪失される。
彼女が帰ってきたのは、僕がふたつ目か三つ目の星を窓ガラスに見つけたときだ。
「朽木さん、戻りました」
振りかえって彼女と目が合うまで、僕はどこでなにをしていたのかも忘れていた。
「なにをされているんですか?」
「部屋の掃除。今は仕上げに窓の外枠の汚れを拭っていたところだよ」
彼女は荷物を草の上に置いて、僕の足下のバケツから雑巾を一枚手に取った。
もう終わるから大丈夫だよ。言ったか、言い留まったか思いだせないが、もし言ったとしたのならやめておけばよかったと思う。
彼女はそれからずっと、薄汚れた布でガラスに映る星の空を歪ませ続けた。
その薄い空を熱心に磨く彼女の傍らで、手の止まった僕はふたつの空のうちどちらだったか一方にただ見入っていた。
「わたし、どう考えても準備が足りなかったみたいです」
彼女が手を止めたのはその一瞬きりだ。
「半日、山のなかにいていろいろ気づきました。朽木さんに助けてもらわなかったら、たぶん山ごもりなんて一日でギブアップしていたと思います」
「空身では気が楽な分大変なことも多いだろうね」
僕は彼女の拭いた窓の、残りの半分を擦りはじめた。
「ここには寝床もお手洗いもありますし、水も電気も通っていますし、それに」
それに、と言ったあと彼女は一拍おいて、「それに、朽木さんもいますから」と続けた。
「変な意味で言ったんじゃありません。その、やっぱり山に一人ぽつんでは怖かったと思うんです」
彼女はしゃがんで、バケツの水で雑巾を洗いはじめた。
「うん。継美さんの言うこと、わかるよ」
一人きりでは、山の夜は怖いんだ。
僕の声は小さな水の音に溶け込んでなくなった。
「あの、朽木さんはここに暮らしていて、人恋しくならないのですか?」
立ちあがった彼女は黒い瞳を僕に向けた。
「ずっとだから、慣れたよ」
でも、そう。寂しくなるときは今でもあるんだ。
彼女は汚いぼろ切れを握りしめて静かな呼吸をした。
僕と彼女は、上空の風と真下の土とのあいだのなんでもない虚ろな夜に突っ立っている。
「山の風景は楽しく描けた?」
彼女から受けとった雑巾と自分のとをバケツに入れて、僕はそれを持ちあげた。
「ええ、でも。余計なことを考えてばっかりで、量はそれほど描けませんでした」
彼女はがっかり顔で、「景色はすごくきれいだったのに」と言い加えた。
「それじゃあ、今日一日はつまらなかった?」
彼女は驚いた顔をして、か弱い首を激しく横に振った。
「それならよかったね」
はい、と笑った彼女はさっき地面に置いた荷物を拾いあげる。
ふたつの空のあいだには、僕と彼女以外、本当になにもない。




