1.2
朝になって頭がもうろうとしていたのは、そんなこんなで睡眠時間が削られたせいであって、寝室を出たところで彼女の細腕を踏んづけそうになったのには正当ないいわけがついたことになる。
彼女はどんな物音にもまったく反応することなく、ついに昼近くまで眠りこけていた。それで起き抜けに、「朝は特に冷えこみますね」なんて言うものだから、僕は思わず吹きだしてしまった。
やっと腰を据えて話せるかと昼飯を用意したときにも、「食べ物は持ってきたのでどうぞお構いなくッ」とか下手に気を遣ってくるものだから、今度こそ堪りかねて、そんなに筋張らないで、となるべく穏やかに懇願したのだった。
彼女がリュックから取りだしたカップ麺とお湯入りのポットを少し強引に取りあげて、一応それらしい形になっている山菜料理をテーブルの上に広げた。
「名前がまだだったね。僕は朽木」
彼女はテーブルを挟んだ向こう側に座る。
「あ、申し遅れました。わたし継美って言いますっ。あの、昨晩は本当にごめんなさい。玄関の戸を壊すところでした」
「うん。誰もこんな小屋に人が住んでいるとは思わないだろうからね。しょうがないよ」
彼女は申し訳なさそうに、首を横に振ったり、平手を前に出して激しく揺らしたりした。
「それにしたって、夜にその恰好じゃ寒かったんじゃないかな?」
「ええ、それはもう。わたし、寝袋があれば草の上でも茂みの陰でもどこでだって寝られると思っていました。でも、いざとなると寝るのにいい場所が見つからなくて、ずっとうろうろしていたんです」
寝袋で寒さは防げても、山中にごろ寝では落ち着かないだろう。
「それで、もう疲れ切っていたし、こちらのコテージを見つけたときは嬉しくて、それでもう必死だったんです」
コテージ。こんな掘っ立て小屋も呼ばれようによっては恰好がつくようになるものだ。
「うん。まず、よかったね。山の中一人で寝ることになっていたら、きっと夜の闇が怖かったはずだよ」
一人きりでは、山の夜は怖いんだ。
緊張してしゃべっていた彼女も、盛られた菜飯を平らげると、やっとにこにこして話すようになった。
「なんでまた山ごもりなんて?」
彼女は、そうそう重要なことをまだ話していませんでしたね、という風に横手を打ち、それから少し思案顔をしたあと、またにっこり笑った。
「断食ダイエットです」
「ダイエット?」
彼女は頬の肉をつまんで、「こいつをどうにかしようと思って」とはにかんだ。
「これを食べてダイエット?」
テーブルの片隅に置いていたカップ麺を持ちあげて、それを意地悪く彼女の目の前で振ってみせた。
「それは、ですね。あの」
彼女は俯きざまに、「ただの非常食です」と言って僕の手からカップ麺を取りかえした。
「断食って言っても、完全に飲まず食わずでは死んでしまうよ。どうしようと思ったの」
彼女は両手の上でカップの容器を転がしながら、あっちを見たりこっちを見たりしたあと、「考えてませんでした」と歯切れ悪く言った。
俯く彼女の表情に、せっかくなごみかけた空気が止めた、余計な言葉を後悔した。
それからしばらく彼女はつまらないカップ麺転がしに没頭し、僕は特に関心のなかったぜんまいのきれはしを箸でつつき続けた。することのない僕と違って、目的を持って来た彼女にとってはこの時間も無駄なんだろうと思うと心苦しくなる。
「あの、朽木さんは、ここに住んでいらっしゃるのですか?」
彼女はカップ麺で遊ぶのに区切りをつけて、それをテーブルに戻した。
「え。ええと、うん。まぁ、そうだね。ここに住んでいるんだよ」
もし継美さんがよかったら、ここで山ごもりしたらどうかな。という提案は話の流れ上とても軽くしたものだったが、彼女には願ってもないことだったようで、謙虚に振る舞いながらもそれを快く受けいれた。
「これ見てください」
彼女はリュックから筆記用具一式と、小さいサイズのスケッチブック一冊を取りだした。
「これ一冊、山の景色で埋めるんです」
彼女は窓の外に視線を移し、まもなく外に色めく緑色に心を奪われた。
「せっかくだし、ダイエットって気張らずに羽を伸ばしたらいいよ。僕のことは気にせずに、この小屋は好きに出入りしていいから」
彼女は笑顔で頷く。
短い会話ののちに、「気をつけて」と彼女を送りだし、さて一息つこうかというところで、はたと思いたって窓に駆けよった。
「夜はなにが出るかわからないから必ず帰ってくるんだよ!」
茂みに入っていこうとする彼女に、すんでのところで付けくわえた。
出し抜けに呼びとめられた彼女は驚いて振り向いたが、すぐに頷き、こちらに手を振った。
じっとその方向を見つめていた僕は、いつの間にか彼女を見失った。
視線を斜め上に向けると、原生林の緑と空の青との境がぼんやりと交わって揺らめく。視力が落ちたかと一度目を閉じて深呼吸し、もう一度見るとその境界はくっきりと見てとれた。
夜はなにが出るかわからない、というのはそのとおりで、山の奥から獣が出てくるかもしれないし、夜ごと姿を現わす不思議な火影が彼女を脅かすかもしれない。
部屋に向きなおり、その足でこの小屋で唯一の空き部屋に向かう。
リビングルームは広い上玄関に直結しているから、夜になると当然冷えこんでしまう。いくらなんでも、そんなところに二晩も続けて彼女を泊めるわけにはいかない。
黒ずんだ木目の古びた扉に正対し、埃をかぶった取っ手に手をかける。
ゆっくり深呼吸をする。一回、二回、三回。
そして、そっと取っ手を引っぱる。
部屋は床の上一面になにに使うかわからない四角や丸の木片が散乱していて足の踏み場がないありさま。でもそれ以外は隅に木の机があるだけのただがらんとした部屋。最後に見た日よりも背丈が縮んだ机の上には寄木細工が整列してある。
どれだけかぶりに開かれたその部屋は、雑然としていてほこりっぽかった。
うん。これは掃除のやりがいがある。
ずっと閉ざされていたのに、小屋の南側にあったせいか陰気な感じはまるでしない。換気さえすれば普通程度には。いや、僕の寝室よりもずっと住み心地はよくなるだろう。
よし、と腕まくりをして踏みこんだ部屋には太陽の光が一杯に充満していて、その白に目眩を起こした。
細目を開けて見た部屋のなかでは、そこにあるすべてが色を失い、面影を残すのは一文字に渡す黒い窓の枠だけであった。
白い帯でがんじがらめにされた身体は自由が利かず、かろうじて動く目玉を狭いまぶたの隙間からぎょろぎょろとさせる。
たぶん、僕を含む部屋のなかのすべてが同じになっていたが、長い時間を掛けてついにみんな初めの姿に戻った。
まだくらくらする目をしばたたかせ、奥行き五メートルの四角い木箱を端から端まで見わたした。
それからまもなくして、部屋を満たす白い空気の正体が明らかになった。舞いたつほこりや塵の一粒一粒が、外の光を反射してちかちかと瞬き立っているのだ。
そこら中に降り落ちる淡雪を掻き分け、やっとでたどり着いた一番奥の窓の縁には、ふわふわが何重にも積み重なってこびりつき、それが一つの膜になっていた。
錆び付いて固くなった鍵を無理やり外されて、何年かぶりに外の空気を取りいれた小さな部屋は、それからどれだけ掛けても気息が整わずに荒々しく呼気を吸いこんだり吐きだしたりした。
僕はしばらく行き来する空気のされるがままになっていたが、とうとう決心して部屋の掃除を開始することにした。




