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春の訪問者  作者: (せ)
13/13

4.3

 それは、なんでもない時間の不思議で、たった四日前はがちがちにこわばって話をしていた人と、今ではすっかり自然に言葉を交わしている。

 バス停の小さな待合所には、わたしと朽木さん以外誰もいない。壁に貼られた時刻表を確認してくれている朽木さんの隣で、わたしは春の雲が消えて薄暗くなった雨降りの空を眺めた。

「小屋にあった時刻表は、やっぱり合っていなかったね」

 朽木さんは二本の濡れた傘を壁に立てかけ、腰掛けにわたしと隣りあって座った。

「小屋にあったのは古かったから。念のため早く出てきてよかったね」

 わたしは頷いて、小さな窓にあたる雨の向こうに耳を澄ませた。

 ――わたしが、「バス停まで一緒に来てください」と言うと、朽木さんは笑顔を零した。わたしがそんなこと言わなくても、朽木さんは絶対送ってくれたんだ。

 朽木さんはたぶんなんとも思っていないのだろうけど、でも、それはわたしの特別な想いを込めたお願いだったのだ。

 雨脚はいよいよ激しさを増し、外でバスを待つノッポの標識が、砕けた雨粒にほのめいて見えた。消えかけた地名は雨にかすんでここからは読みとることができない。

 車のエンジン音が聞こえると速くなる鼓動を、わたしはその度に手の平で抑えつける。

 そっと目を閉じて雨がアスファルトを打つにおいを感じとる。

 左の肩先に朽木さんを微かに感じながら、言葉のない最後の思い出は時間と同じ速さで胸に刻まれてゆく。

 それは朽木さんと一緒のときに見る最後の暗闇で、ここのすべてが飲み込まれてなにもかもがなくなる直前まで朽木さんは隣にいた。

 そして、そこから風景がぽつりぽつりと生まれてくる。緑、太陽、川、約束、土、寒さ、夕闇、空気、白、雨。生まれては消えていった。それらは、ここに降り立ってからまたここに帰ってくるまでのあいだに、朽木さんと見たにおいと色のひとつひとつだった。

 なにもかも消えてもとの黒に戻ると、また生まれはじめる。ただただそれを繰りかえす。葉、青、木片、水、まなざし、緑風、明かり、望み、透明、嘘、坂道、星、花、雲。

「バスが来たね」

 突然わたしに傾れこむのは、懐かしい朽木さんの声と、まだ降っていた外の雨だ。

 朽木さんは傘を一本取って、わたしを入り口まで導いた。

「朽木さん。あの、ありがとうございました」

 向こうから迫るバスがわたしは憎らしくなった。どうしてわたしにこんな酷いことをするのだろう。

「継美さん」

 顔を上げて、と朽木さんは言った。

 わたしは、今日まで朽木さんにかけてきた心配や迷惑への自省の念が重くのしかかる首を、ゆっくりともたげた。

「よかった。お別れの前にまたお互いの顔を見ることができたね」

 久しぶりに見た朽木さんの顔は、在りし日に見た笑顔と同じままだった。

「朽木さん」

 わたしが伝えたかった言葉は、目の前で止まったバスの轟音に掻き消されて、そのまま胸の深くに封じこまれた。

「何日もご迷惑をおかけしました」

 朽木さんは、そんなことないよ、と首を振って、開いた傘でバスと待合所とのあいだに小さな雨よけの橋を架けた。

「だけど、継美さんの絵を見られなかったのは心残りかな」

「ごめんなさい。やっぱり全部は描き上げられなくて」

 わたしには自分で決めたルールを本気で守るおかしな癖があった。

「うん。しょうがないよ」

 朽木さんは本当に残念そうだった。

 わたしは朽木さんの橋をくぐり、バスに両足を乗せて振り向いた。

「さようなら、朽木さん」

 笑顔で返した朽木さんのお別れの言葉に、わたしも笑顔を返した。


「今日の雨がこの春最後の雨かもしれないね」


 最後に聞こえた朽木さんの声は、閉まったバスの扉に遮断されてしまい、なにを言っていたのかはっきりわからなかったし、今はもう覚えていない。

 わたしを最後部座席に乗せた貸しきりバスは、朽木さんがいた町から遙か遠く離れたところを走っている。

 リュックからスケッチブックを取りだし、ぱらぱらと紙をめくる。そこに収めてある紙のすべてが山の風景に埋め尽くされていた。

 完成できなかったのは最後の一枚だけ。『ずっと遠くから見ていました。あなたのことが好きです。』なんて適当な文にミズバショウの絵を添えた、宛名のない未完成のままの手紙。

 わたしは、生まれてくる前に渡せなかったラブレターを、多くの木々のあいだで横たわるかつての思い人にそっと添えてきた。

 その傍にいた下草の声まねをしてみる。

「さにゅ」

 出来が気に入らなくてもう一度試す。

「さにゅ」

 閉じたスケッチブックをリュックに戻して窓の外に視線を向ける。飽きもせずわたしを追い続ける空は今日に限ってぼうっとしている。

 やがて、いくつ目かのバス停に差しかかったとき、はたと気づいてケータイの電源を入れると、それはささやかなメールを受信した。

 つまらない差出人に、つまらない内容。一応、姿を眩ませたわたしの身を案じていることはわかる。ごめんのひとこともない適当な文章だけど、それでも、まぁ、心配して送ってきたんだ。

 ――そうね。もしかしたら、こんな一行二行程度の手紙で繋がるものもあるのかもしれない。

 ケータイの画面を開いたまま、無数の雫がシャボン玉のように弾ける窓に再び視線を送る。

 ぼんやりとした町のなか、しぶきを上げて進むバスのなかに乗客はわたし以外誰もいない。


 さようなら。


 わたしは、胸に訪れた春の訪問者を、静かにその奥底に納めて広い車内を眺めた。

 たぶんすぐに止む夕べの雨も、今はまだ窓の外を濡らしている。


(了)

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