4.2
「今日の夕方帰ります」
そう告げたときの朽木さんの顔に、わたしははっとした。
数日間でも一緒に生活したのだから、礼儀的にでもいくらかは惜別の素振りを見せてくれるのではないかと期待していたが、朽木さんの表情から感じられた思いがけないほどの寂寥感はわたしの心にも伝染した。
「あの、お世話になったのに急なことを言ってしまって」
「いや、いいんだ。ごめんごめん。ほら、ここで悠々自適の生活を送っていると細々した時間の感覚がなくなってしまって。だから、もっと長い時間この状況が続くんだって勝手な勘違いをしてしまって。そうそう、ゴールデンウィークだったね」
朽木さんは照れ笑いをして、ぽんと手を叩いた。
「約束があったね。スケッチブックをいっぱいにできたら、そのなかの一番を僕にくれるって」
どう、描き上げた? と言う朽木さんに、わたしは椅子に座り直して返答をあれこれと思いめぐらせた。
もう、あと少しなんです。でも、最後の最後でなにを描いたらいいのかわからなくなってしまって――。
そう言うと、笑顔の朽木さんはすぐにわたしを連れ出した。
この山にある素敵なところを朽木さんは知り尽くしているんだ。
わたしはそんな場所に招待される度、弾む心を胸の奥にしまい込んで朽木さんにぴったりついて歩いたのだった。
「きっとこれで最後だから、一番の場所に連れていくよ」
はっとと胸を突かれたのは、朽木さんの言葉に最後なんてことを意識したせいだ。
今日もふたりで草を踏み歩く。
さにゅ。さにゅ。
朽木さんはわたしのために時間を割いてくれているのだから。
わたしは歩いているあいだ中、とぼとぼ、という足音を朽木さんに聞かれてしまわないように、足先に視線を落として注意した。
湿地が続く木洩れ日の山道には、黙ったままの朽木さんと、俯きっぱなしのわたしとがつけた足跡だけが残った。
わたしは口を開く時期を逸してしまい、ついにひとつの言葉を交わすこともないまま朽木さんの足が止まった。
「僕の特別な場所だよ」
湿っぽくて寂れた山の中腹。
一面の沼地は、そこいっぱいが白と緑に埋め尽くされていた。
「ここはミズバショウの群生地なんだ」
朽木さんは手の動きで促し、わたしを一歩前に出させた。
萌葱の葉に包まれた白は、少し冷たい空の下、彼方まで咲きそろっている。
「子供の頃、初めて父親に教えてもらったときから、ここは僕の秘密の場所なんだ」
朽木さんの秘密の場所。そこに朽木さんといるのはすごく嬉しかったのに、彩りに惑わされたわたしは言葉をなくしたままでいた。
山中で猛威をふるう雑木もここでは散り散りに生える程度で、宙に渦巻く光が直下したミズバショウの白さは、目の前で一層に増した。
「それじゃあ、僕は行くけど大丈夫かな。一人で小屋に戻れるね」
わたしは反射された光に眩んだ眼を朽木さんに向けた。
「昨日連れていってもらった朽木さんの木の近くですよね。大丈夫です。場所、わかります」
絹のような光たちが紡ぐ小さな道は、この場所から生まれて延びていったみたいで、朽木さんは、じゃあね、と言ってそこに消えていった。
もしかしたら一緒にいてくれるかもしれないと期待していただけ、朽木さんの素っ気なさが痛かった。
そうよね。朽木さんだって自分のしなければならないことがあるのに、こんなに構ってくれたことに感謝しなくちゃ。
非望を諦め、土の乾いた部分を探してそこに腰を下ろした。
去年の秋頃からわたしと彼は停滞気味で、初めて大喧嘩した日の、オレンジ色が宵闇に溶けていく夕空を思いだすと今でも頭がくらくらする。
このあいだの旅行は、憂さを払拭し、暗澹とした関係をどうにかしたいと思って持ちかけたのに、まさか決定的な大喧嘩をしてしまう羽目になるなんて。
もう、彼とはダメね。
わたしは足を放って吹き抜きの空に瞬いた。
昨日、麓まで下りたときにケータイをチェックしたけれど、彼からはやっぱりなにもなかった。
今日から授業があったのに、休んでしまった。本当は昨日の夕方には帰ろうと思っていたのに、今日まで山ごもりを延長してしまったのは、そういうやけを起こす原因があったのに加えて、朽木さんが夜突きに誘ってくれたのも理由のひとつだった。
そんなことを考えたわたしは、すぐ頭に握り拳をぶつけた。
朽木さんをいいわけにするなんて。あのお天道様はなんでもお見通しよ。きっとまた天罰が下るわ。
わたしは、それでもこの思い出を忘れさせるのだけはやめてください、とお願いした。




