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全知の精霊は王冠の行方を知らない  作者: Tatsumaru


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第56話 選んだ未来

 リヴィアが当主となってから、季節が一つ巡った。


 東部では、焼けた砦の再建が始まっている。帰還した兵の名簿と、帰らなかった者の名簿は、どちらも同じ厚さの紙に記された。


 戦争は勝敗の一語では収まらなかった。


 パルティアの侵攻は退けられ、双子の契約者は死んだ。それでも失われた村も、家族も、壊れた土地も残っている。


 リヴィアは当主として、そのすべてを引き受けた。


 家臣の報告を聞き、王院と争い、必要なら譲り、決めたことの責任から逃げない。父と同じやり方ではなかった。父の言葉を守りながら、自分の声で人を率いた。


 ユリウスは家に留まらなかった。


 ダンジョンの監視網を組み直し、東部の報告書式を統一し、孤児院出身者を自分個人の兵ではなく、本人の希望に応じて騎士団、官僚、採取事業へ移す道を作った。


 すべてが思いどおりになったわけではない。


 彼を当主にと望んだ者の一部は不満を残した。リヴィアの決定を、姉弟だけで結論を作ったと批判する者もいた。


 ユリウスはもう、それを「誤解だ」の一言では片づけなかった。


 自分の行動が生んだ期待なら、説明し、責任を持って次の場所へ導く。全知に答えがなくても、人と話しながら選び直すことを覚え始めていた。


 夕暮れ、彼は久しぶりに早く自室へ戻った。


 窓辺でエレナが医学書を読んでいた。献身の精霊の気配が肩の近くで穏やかに揺れている。


「おかえりなさい」


「ただいま」


 この二つの言葉を交わせることが、以前より重く、温かかった。


 机には二人分の茶が用意されている。


「今日は早いのですね」


「姉上に追い出されたんだ。新しい当主の仕事を横から増やすな、と」


「正しいご判断です」


「エレナまで」


 彼女が笑う。


 その笑顔を見ながら、ユリウスは決めた。


 戦争へ行く前から、いつか話さなければならないと思っていた。姉には告げた。エレナにも話そうとして、何度も言葉を飲み込んだ。


 拒まれると思っていたわけではない。


 ただ、口にすれば、自分がこの世界の者ではないと確定してしまう気がした。


 エレナは急かさなかった。


 彼の言葉に、ときおりこの世界にはない距離が混じること。懐かしむ対象を自分でも覚えていないような目をすること。重大な秘密があると気づきながら、本人が話せるまで待っていた。


「エレナ」


「はい」


「聞いてほしいことがある」


 彼女は本を閉じた。


 ユリウスは、姉へ話したときと同じところから始めた。


 自分には前世があること。


 地球という別の世界で生きていたこと。


 日本という国の知識と価値観の輪郭だけを覚えていること。以前の名前も、性別も、家族も、何一つ思い出せないこと。


 始祖も同じ転生者だったと考えていること。


「僕の考え方が、この世界の人と少し違うのは、そのせいだと思う」


 エレナは黙って聞いていた。


「黙っていて、ごめん」


「なぜ、謝るのですか」


「君は、僕が何者か知らずに結婚した」


「ユリウス・カルディスと結婚しました」


 迷いのない答えだった。


「地球にいたころのあなたの名前を、今のあなたも知らないのでしょう?」


「うん」


「では、私が知っているあなたを、あなたより詳しく説明できます」


 エレナは指を折った。


「疑問を持つと食事を忘れる人。自分の功績より、助けられなかった人を数える人。医学書を借りるという口実で婚約者へ会いに来て、会いすぎたと思えば急に来なくなる人」


「その話は、もう許してくれたと思っていた」


「許しています。忘れてはいません」


 最後に彼女は、ユリウスの手へ自分の手を重ねた。


「そして、借りた力を必ず返しに来る人です」


 あの日と同じように、重ねた手の温かさが二人の間へ静かに広がる。


「驚かないの?」


 エレナは少し考え、静かに微笑んだ。


「そうではないかと思っていました」


 今度こそ、ユリウスは言葉を失った。


「姉上にも同じことを言われた」


「リヴィア様は、始祖と同じ秘密だと見抜いていらしたのでしょう」


「君は違うの?」


「私は、秘密の正体までは知りませんでした。ただ、あなたが遠い場所を心の中に持っていることは分かっていました」


 エレナは手を離さなかった。


「過去を話してくださるまで待つことと、これからどこで生きるかを一緒に選ぶことは、別ですから」


 金色の瞳が、二人のそばへ静かに浮かんでいた。


 以前のユリウスなら、エレナが本当に受け入れたのか、その胸中を知れない精霊へ何度も問いを言い換えたかもしれない。だが今は問わなかった。


 重ねられた手の温度も、急かさず待っていた年月も、これから一緒に選ぶという言葉も、すでに彼女が差し出した答えだった。人の心をすべて知れなくても、受け取ったものを信じて次を選ぶことはできる。


 金色の瞳は答えを求められないまま、一度だけ静かに瞬いた。それが何を意味するのかも、ユリウスはあえて問わなかった。


 窓の外で、帝都の灯が一つずつ点り始めた。


 地球の夜景とは違う。思い出せない故郷とも、きっと違う。


 それでも、隣にはエレナがいる。


 姉が率いる家があり、自分が守ると選んだ人々がいる。


 前世を忘れたから、ここにいるのではない。


 この生を与えられたから、仕方なく生きるのでもない。


 ユリウスはエレナの手を握り返した。


「これからも、ここへ帰ってきていいかな」


「何度でも」


 彼女は答えた。


「おかえりなさいと、申し上げます」


 ユリウスは窓の外ではなく、彼女を見て笑った。


 ここが、彼の選んだ未来だった。



          第一部 完

第一部完結です

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