第五話
「では彼女の身を買い取るということで。値はこれくらいになりますが」
昼過ぎにやってきた行商人の彼――黒髪に同色の瞳の男は、表情ひとつ変えずに、リシェルを買った。
見たところ、二十代半ば程度の年齢だろうか。
無表情のまま淡々と話すため、感情に乏しい印象を受ける。
「ところで、彼女はこちらのご令嬢ではないのですか? 何度かお見かけしたことがありますが」
「冗談じゃないわ。うちの下働きの娘よ。私の宝飾品を盗もうとしたから、追い出してやろうと思って」
義母は息を吐くように嘘を吐いた。
続けて義妹が口を開く。
「ねえ、ひとつ条件があるの。この娘を、ここからうんと遠い場所で働かせてくれないかしら。売る先は、そうね……酒家か娼館あたりがいいのだけれど」
何を言い出すの、と、リシェルが目を丸くしていると、行商人の彼がうなずいた。
「でしたらアレッダの娼館はどうでしょう? ちょうど若い女性をほしがっていますので」
アレッダとは、この国の東の外れにある街のことだ。
「ふふっ、いい気味。あなたにお似合いの仕事ね。せいぜい励んだらいいわ」
くすくす笑いながら、義妹は「さようなら」と、勝ち誇った顔で手を振ってくる。
「支払いはどうします?」
「今日、頼んだアメジストのネックレスの代金にあててちょうだい」
「承知しました。ではまた半月後に」
リシェルはあっさりと行商の馬車に乗せられてしまった。
――こんな……こんなにも簡単に追い出されてしまうものなの? あの家から。
走り出した馬車の窓から顔を出せば、リシェルの瞳に、長年暮らした屋敷が映った。
そこで生を受け、毎日を過ごした。
あの屋敷のそこかしこに、父と母と弟と過ごした幸せな記憶が残されている。
あの中庭では花を摘んで遊んだ。
あの部屋では、母と人形遊びをした。
あの部屋でアンナに裁縫を教えてもらって、あの部屋では家族みんなで楽しく眠りについた。
とても、とても幸せだった。
義母と義妹が、この家にやってくるまでは。
「泣いているのですか」
行商人の彼に問われて、「いいえ」と首を横に振った。
「泣いてなんかいません」
頬は濡れていた。
けれど、認めたくはなかった。
家を去ってまでも彼女たちに虐げられたくなくて、心だけは強くありたかった。
――負けないわ。絶対に。
リシェルは涙を拭った。
必ず、もう一度あの家に戻ってみせる。
そしてその時には、彼女たちの前に堂々と立てる自分でいなければならない。
――そのためには、この状況をどうにかしなければいけないのだけれど……。
アレッダなんて辺境の街に連れて行かれてしまえば、簡単にこの地に戻ってくることはできない。
そして娼館で働くことも、絶対に嫌だ。
「あの、ご相談があるのですけど……」
リシェルは行商人の彼におそるおそる話しかけてみた。
「なんでしょう」
向かいの席に座る彼は、あいかわらず顔色ひとつ変えない。
「わたしの身を売る先を、どうか考え直してほしいのです」
「ですが、アレッダの娼館に売るとお約束をしてしまいました」
「それなのですが、わたしにもっと適した場所があると思うのです」
「ならば私に提案してください。クローデッド夫人とのお約束を反故してまでも得られるものがあるなら、応じないこともない。私も商人ですから」
手応えを感じたリシェルは、姿勢を正した。
「わたしは、出来ることがたくさんあります。ある程度の学問を修めたので文字の読み書きもできるし、いくつかの楽器も弾けるし……それに、社交儀礼にも精通しています。これは自信があるの。きっと人にも教えられるくらいに」
「そうですか」
あわよくばどこぞの貴族令嬢の侍女や、教師の職があればいいのにと考えたのだが、その部分を掘り下げて聞かれることはなかった。
「ほかには何か?」
「ええと……剣が使えます! 体術も、少しなら」
リシェルは弟が産まれるまで、伯爵家の跡取りとして育てられていた。
そのため身を守る術も覚えておいた方がよいだろうと、あらゆる習い事を経験したのだ。
「剣ですか……女性では珍しいですね」
「それに、語学……! エヴァルド語が話せるわ! もちろん読み書きも!」
「エヴァルド語……?」
行商の彼の眉が、ぴくりと動いた。
「なぜエヴァルドの言葉を? 語学を習うのなら、もっと別の国……例えばイメルダ王国やジネラ王国の言葉を習う者がほとんどでしょう」
「魔に精通している国の言葉だから、覚えた方がいいと母に言われて……」
なぜならリシェルは花の精霊の力を受け継いだ星の花嫁。
この先、何らかの形でエヴァルドの知識が必要になる可能性もあったからだ。
――それに、レオーネ様が留学されていた国だから……。
その言葉を学ぶことで、彼とつながっていられるような気がして、リシェルは夢中になった。
「なるほど、エヴァルド語ですか……」
行商人の彼は、なにやら考え込んでいるようだった。
「ちなみに、あなたのお名前は?」
「明かせません。それだけは決して」
家族を行商人に売ったと世間に知られたら、伯爵家にとってこれ以上ない醜聞だ。
「では、あなたがクローデッド伯爵夫人の宝飾品を盗もうとしたとの話は?」
「事実ではありません」
「そうですか。その上で名を明かせない……身分も……ああ、だがそれは例の男爵家ゆかりの者とでもすればよいのか。そうすればコルテーゼ家にも恩が売れるか……」
ぶつぶつ呟いていた男は、やがて「いいでしょう」とうなずいた。
「アレッダの娼館には、別の者をやりましょう。さもあなたが売られたように」
「では、わたしは」
「エヴァルド語を扱える人材を求めている場所があります。おそらく通訳の仕事でしょう」
「ええ、ええ……! ぜひそこにお願いいたします!」
「ただし、あなたの身を売るわけではありません」
「どういうことですか?」
リシェルは首をかしげた。
「そこは身を売り買いするような場所ではないのです。ですからあなたにはとある男爵家ゆかりの者として働いてもらい、そこで得る毎月の給与の三割を月末に私に収めてください」
それがリシェルにとって良い条件なのか悪い条件なのか、正直、よくわからない。
けれど辺境の地の娼館に売られるよりは、マシに思えた。