第六話
「給与の三割を月末にお渡しすることについては、承知いたしました。必ず、お約束いたします」
リシェルがうなずけば、行商人の彼は、馬車の御者に行き先の変更を命じた。
「あの、お約束した上で教えていただきたいのですが、それだけをあなたに支払って、わたしは生活できるものなのでしょうか?」
そもそも与えられる金額もわからなければ、一般的な生活にどれほどの費用がかかるのかも想像がつかない。不安は残る。
「問題ないでしょう。仕事は、もしや住み込みになるかもしれませんが、そうでなければ住む場所をこちらで用意いたします」
それは願ったり叶ったりだった。
「あなたには、名を変えてもらう――といっても、そもそもあなたの名を教えてもらえていないので、名を与えるといったほうが正しいでしょうか」
それも願ったり叶ったりだ。
もちろん本名であるリシェル・クローデッドを名乗ることなどできないし、ソフィアを名乗り、アレッダに売られていないことを義母と義妹に知られてもまずい。
「あなたの名は……アリア……とでもしましょうか。アリア・コルデーゼ。コルデーゼ男爵家ゆかりの者として、王宮に入って仕事をしてください」
「え?」
リシェルは目を瞬いた。
「王宮……? わたしは王宮の中で働くのですか?」
「そうなります」
聞き違いではなかったらしい。
「それは王宮の中の、いったいどのような場所でしょう?」
王宮には、王立騎士団が常駐している。
ということは、レオーネも、ロッソも、リシェルの幼馴染みであるオセアノもそこにいるはずなのだ。
「どことは明確に教えられていませんが、エヴァルド語を扱える人材を探して欲しいと、王宮の人事官から頼まれているのです。おそらく、外交関係の役目を与えられるのでは?」
「わたし、お会いしたくない方が騎士団にいるのですが……」
「王宮は広い。そうそう顔を合わせる機会はないでしょう」
「ですが、万が一のことがあったら……」
「でしたら取りやめて、予定通りアレッダに行きますか?」
「それは嫌です!」
気付けば即答していた。
どう考えても、それだけは避けたかった。
「ならば取引成立ということで。まずは街へ寄って必要なものを揃えましょう。それから王宮へ向かいます」
行商人の男は、鞄から書類を取り出し、何やら記入し始めた。
「あの、わたし、お金をまったく持っていないのですが……」
恥ずかしさのあまりに身が縮こまる。
「私が立て替えておきますよ。返済は月々払いで、この誓約書にのちほどサインをお願いします」
「よろしくお願いいたします」
リシェルは行商人の彼に向けて、深々と頭を下げた。
ここまできたらもう、後戻りはできない。
不安を打ち消し、前に進むしかなかった。
* * *
行商人の男とコルテーゼ男爵家がどのような関係であるのかは、わからなかった。
彼はコルテーゼ家の印が押された紹介状と身元証明書を偽造すると、街で揃えた生活必需品、数枚の服などをリシェルに持たせて、王宮へ向かった。
「おお、これは助かる。エヴァルド語ができる者を探していたんだ!」
王宮の人事を担当しているマウロという中年男性は、リシェルに会うなり、声を弾ませて喜んだ。
「では彼女をよろしくお願いいたします。何かあればご連絡を」
行商人の彼は、「また来月末に」との言葉をリシェルに残して、王宮から去っていく。
「ありがとうございました」
彼が考えをあらためてくれなければ、今頃とんでもないことになっていたかもしれない。
こうして職も得られたのだから、結果、彼との出会いは幸運だったのだろう。
「さて、アリア・コルテーゼ……コルテーゼ男爵の遠縁にあたるのだね。働いた経験は?」
「ございません」
「寮に入ることもできるし、通いも選べる。どちらがいいだろう?」
「ぜひ、寮を」
「了解。ではさっそく部屋と職場に案内しよう」
簡単すぎる面接を終えると、マウロは立ち上がった。
彼のあとをついて部屋から出たリシェルは、あたりを見回し、ほうっと息を吐く。
――なんてきらびやかな場所なのかしら。
王宮の中に足を踏み入れるのは、初めてだった。
なぜなら決まった未来を与えられていたリシェルは、不必要な外出を控え、社交の場にも出てこなかったからだ。
――まさかこのような形で王宮を訪れることになるなんて。
人生、何が起こるかわからない。
「ここは王宮の中心となる建物。おもに政治の中枢となる部署が集められている。で、あちらの東側の建物で、王族の方々が生活していらっしゃる。君の職場と住まいは西側のこちら」
外廊下を歩き、別の建物へ移る。
その三階にある一室の扉を開け、マウロは言った。
「ここが君の部屋になるけれど、とりあえず荷物だけ置いて、職場に挨拶に行こう」
そうして連れて行かれたのは、また別の建物の一階にある一室だった。
「たしか君は、剣術もできるんだよね?」
「はい」
「じゃあ大丈夫かな」
マウロはにこやかに言う。
「なにせ騎士団は男ばかりだからね。通訳の仕事といえど剣術の稽古もあるかもしれないし、少しでも経験があるにこしたことはない」
「え……ちょっと待ってください、わたしは騎士団で働くのですか!?」
驚くあまりに声が裏返った。
「あれ、まだ言ってなかったかな」
途端に足元がぐらつくような感覚に襲われる。
――そんな……それはさすがにまずいわ。
「ほら、この部屋が君の上司になる方の執務室だよ。今の時間、たぶんいらっしゃると思うんだけど」
「ま、待って……! お待ちなってください!」
リシェルは必死にマウロのジャケットの袖をつかんだ。
けれど彼は、逆の手でドアをノックしてしまっていた。
「――はい」
中から反応がある。
「ああ、よかった、いらっしゃった。人事の者です。新たな人員を連れてまいりました」
「入室を許す」
その声を聞いた瞬間、リシェルの全身が心臓になったかのように激しく鼓動した。
――ああ、そんな……今すぐ……今すぐにここから去らなくちゃ。
回れ右をして、全力で走って、この部屋から少しでも遠くへ行かなければいけない。
けれど身体が凍り付いたように動かない。
あまりの衝撃に呼吸すらも忘れてしまって、リシェルはただ、マウロの手で開かれる扉を呆然と眺めることしかできなかった。




