39、必然の死
おそらく当時を生きた多くの人間にとって桶狭間の戦いの結果は、目を疑うものだったに違いない。実際、オレもどれだけ予測不能な結果だったのかは身をもって実感できた。
もちろん、その実感はオレや家康だけのものではなく、義元のものであり、当事者である信長にも共通のものだったに違いない。
だが、戦とは勝つべくして勝つもの、そこに例外はない。桶狭間の勝利はさまざまな要素が重なった奇跡のような必然だ。
豪雨という天候条件は行軍の音を掻き消してくれる。
今川方の油断は言うまでもなく織田の攻撃への対応を遅らせる。
それに加えて義元の布陣した桶狭間という地形も織田のプラスに働く。狭隘な地形は守りやすいように思えるが二万五千の大軍では逃げ出すのが難しい。
織田は義元を油断させるために策略を用いている。国人衆が寝返ったと思い込んでいる今川方は敵襲を警戒していない。寺部城でオレがやった偽りの隙とは違う、本物の蟻の一穴を織田は着こうとしているのだ。
危ない賭けではある。普通の武将ならばこんな危ない賭けに乗ることはないだろうが、今の織田家を率いているのはあの織田信長だ。ならば、彼は必ず勝つ。勝ってもらわなければこっちが困る。
いずれは水野からの使者がその報せを持ってくるはずだ。奇襲か、それか使者の伝達に問題がなければくるはずだ。
あとは、時間だけだ。すでにこの松平家の本陣には家臣団のほとんどの武将たちが集結して、オレと家康の指示を待ちかねている。戦の最中にこうして召集され、ただ待たされていることに疑問を持ってこそいるが問題はない。
義元戦死の報せを受ければどちらにせよ彼らは動揺する。その時にいかに素早く次の行動を起こせるかが、オレの腕の見せ所だ。
「――殿ぉ! 軍師殿! 妙な輩を捕えましたぞ!!」
「――は?」
問題が起きなければいいと思った途端、問題が起きるんだから心底勘弁して欲しい。この声は作佐の声だ。そういえば彼に事前に話を通すのを忘れていた。
妙な輩……十中八九水野からの使者を問答無用で捕えたのだろう。彼は当然の仕事をしただけだから、責めるわけにはいかないし、使者を切り捨てていないだけありがたいと思うべきだろう。
「ご、ご苦労でした、作佐殿……ですが、すぐに縄目を解かれて……」
「こやつ、水野の使者などと名乗りましてな!! まったく水野といえば織田方、間諜がわざわざ自ら名乗るなど戯けたやつじゃて!!」
「ち、違う! 間諜ではない! 主君より松平の親戚殿に御注進あるがゆえこうしてまいったのだ!! 少しは話を聞かれよ!!」
案の定引っ立てられた使者はまったく話を聞いてもらえなかったらしく、全力で自分は間諜ではないと主張している。
見た感じ怪我をしていないが、鎧の汚れ具合からして馬から引き摺り下ろしたのであろうことは確かだ。
「ええい! やかましい! どうせ砦の戦況と我らの陣立てを探りに参ったのだろうが! この場で切り捨てても良いのだぞ!!」
「ま、まて! 懐に書状が入っている! それをご覧になればなぜ私が参ったのかわかるはずだ!」
「なにを――」
「――作佐、こちらに持ってきなさい」
相変わらず人の話を聞かない作佐を家康の一声が遮る。この冷たい響きには確かに覚えがある。鈴木重辰の前で見せたあの冷徹さだ。
切腹するなどと言い出したときはどうしたもんかと思ったが、あれは彼女なりの覚悟の決め方だったらしい。
そんな家康の様子に只ならぬものを感じたのか、家臣団の表情も一気に引き締まる。これが主君の威厳というものだ、オレが声を掛けるのと彼女が声を掛けるのでは彼らの心構えが違う。
想定外だが、ありがたい。書状の内容は分かりきっているし、それに彼らがどう反応するかも分かっている。あとは、この場を収めるだけでいい。
「……軍師殿、読み上げてください」
「…………わかりました」
書状に目を通した家康はオレに再びそれを渡してくる。最初のときとは違い、手は震えていない。それもそうか、知らされた内容はオレも彼女も知っていることなのだから。
確認するように、開いた半紙の上の文面を追う。紙の端に書かれた署名は間違いなく家康の叔父である水野信元のものだ。少なくとも偽の使者を使った調略という可能性は潰れたというわけだ。
「ぐ、軍師殿、早く読み上げなされい」
「……ええ、わかってます」
オレが無言で書面とにらめっこしていると焦れた家臣の一人がそう声を掛けてくる。焦る気持ちは分かるが、間違いがあってはことだ。
義元が死んだという報せならばそれでいいが、逆の報せだった場合はオレは死の覚悟を決めなければならない。
切腹か、斬首か、いや、謀反を企てたわけだから鋸引きということもあるか。そんな目にあうくらいならさっさと自決したいところだが、それはそれで家康に責任が行くからそういうわけにはいかない。
一度彼女に仕えると決めた以上は中途半端なことはしたくない。ここで逃げ出すようでは、元の世界でただ生きて腐っていくのとたいした違いはない。
どんな目にあうとしても、それを選んだのはオレなのだ。死の瞬間まで走り続けてやる。もっとも、今回に関してはその覚悟も必要なさそうだが。
「……今川義元公が桶狭間の本陣にて討ち取られたと書いてあります」
「…………なんと?」
オレの発したその事実に家臣団はざわめくのを通り越して凍りついた。この反応も予想通りのものだ。彼らに義元の死を予見できるはずがない、松平の家臣団を見下しているわけではない。この状況から織田が逆転するなど考えようがないのだ。
だからこそ、オレは全てがわかっていた風に振る舞うのが一番いい。そう難しくはない、実際にはいくつかの予想外こそあったが、現状は全てオレの知識の通りに進んでいる。演技はしなくていい。
「ど、どういうことですか!? 御所が討ち取られたなど……」
「桶狭間にて織田の奇襲を受け、討ち死になされたとここには書いてあります」
全員が読めるように書状を家臣の一人に渡す。内容の把握は全員でした方がいい。もはや義元の死を隠しておく理由はないのだ、むしろ、この情報をできるだけ周囲に広めておくべきでさえある。
「し、信じられませぬ! 我らを惑わすための織田の策略ではございませぬか!」
「そ、そうじゃ! 織田のうつけごときに御所を討ち取ることなどできようはずもない!」
疑いだした家臣の声がどんどんと大きくなってくる。確かにそう思う気持ちはわかる。だが、これが策略ならあまりにもお粗末だ。
大高城を放棄させる策として考えばありかもしれないが、早馬を走らせて確認すれば済む話。策としては成り立たない。
しかも、書状を送ってきたのは家康の叔父である水野信元だ。姪のために使者を送ったとしても納得できる。
「ぐ、軍師殿はどう考えられる!? この書状、織田の儀報の類では!?」
「……いえ、嘘はないかと。そうであろう、水野のご使者殿?」
「は! 某と殿は、織田の軍勢が敵陣に襲いかかるのを見物しておりましたがゆえ! 織田上総介様の直臣の方が義元公を討ち取ったという口上を耳にいたしてもおります! それでも、お疑いになるなら早馬を桶狭間に送ればよかろう!」
オレの問いかけに彼は自慢げにそう答えてみせる。どうやら水野信元は織田家の中でそれなりに信用されているらしい。
好都合だ。今後必ず必要になる織田との同盟では彼に役に立ってもらうとしよう。
「し、信じられぬ……そのようなことが………」
「……この際、御所がどうなったか、は重要ではありません。我々にとっては、これからどうするか、それだけが問題なのです」
動揺する家臣団を前にしてそう言い放つ。我ながら白々しいものいいだが、それで説得できるなら問題はない。この際、プライドなど犬に食わせてやろうというものだ。
次回更新は9月23日、土曜です




