40、本懐
天下人徳川家康にとって岡崎の地は特別な場所のひとつだ。故郷であり、先祖代々守ってきた土地であり、戦国大名としての躍進が始まった場所でもある。ここを取り返すことが出来なければ、江戸幕府による三百年の平和もなかったかもしれない。
そういう歴史的意義を無視したとしても、三河の岡崎の戦略的価値は大きい。あの場所は東海道の要衝の一つだ。尾張の織田にとっても、また駿河の今川にとっても押さえておくことは重要な意味を持つ。上手く立ち回ることが求められるが、それだけにチャンスも大きい。
それに家康だけでなく譜代の家臣たちにとっても、岡崎城は悲願の地だ。これを取り戻すことができれば彼らからの信頼を完全に勝ち取ることが出来る。
ここで失敗することはできない。義元を見殺しにすると決断した時点で覚悟はしていたが、その事を認識すると舌が痺れるようではある。まったく情けない話だ、家康にあれだけの決断を求めて肝心のオレはこのざまなのだから。
しかし、このためにやってきたんだ、やりきってみせる。
「い、いかがしますか? もし御所が討ち取られたという事が本当ならばすぐにここまで織田の軍勢が攻め寄せて参りますぞ」
「すくなくとも織田が本陣を奇襲したというのは事実でしょう。織田の軍勢がここに迫っているというのも」
忠次からの問いかけにオレはそう答える。実際には義元が死んでいることまで含めて確定した事実だが、証明している時間はない。
寺部城での軍議と同じように家臣団の視線はオレに集中している。緊張を完全に克服したわけではないが、同時に言い知れない高揚も感じる。
これがオレのやりたかったことだ。現代ではできなかったことがここでならできる、オレのもちうる全てをもって全身全霊で策を練るのだ。
「で、では、御所の救援に……」
「それは無意味です。仮に御所がご存命だとしても我ら松平家のためにはなりますまい」
今川への救援は真っ当な選択肢ではあるが、一番ありえない選択肢でもある。
どうせ義元と含めて首脳陣が討ち取られた今川勢は潰走状態なのだ。そんな状況では助けようがないし、勢にのった織田勢が相手では三河武士が強いといっても苦戦は必至だ。
今川への救援で得られるのは、義理を果たしたという満足感だけ。個人ならば信条や感情に殉じることを尊ばれても、組織の長としては失格といわざるをえない。
「 駿河まで退いて、お味方と合流して……」
「それもできません。今川はこれから必ず衰退します。御所の死が広まれば裏切りも広がるでしょう。特に三河の地侍どもはここぞとばかりに盛り返すはずです」
駿遠三の三国の支配は義元というカリスマあってこそのものだ。彼が死んだ以上は必ず離反と寝返りが起きる。織田になびくか独立を目論むかはそれぞれ違うが、どちらにしろ、三河一帯が修羅場になるのは目に見えている。
そこを突っ切って、駿河まで撤退するというのは無茶がありすぎる。後の天下人が落ち武者狩りにあって死ぬなどあまりにも情けない最期だ、それだけは避けたい。
加えて未来知識に基づいて言えば、今川の同盟相手の北条と武田、特に後者は全くもって信用ならない。武田信玄という武将はこの時代で最高峰の実力をもつ一人だが、同じくらいに横紙破りの常習犯、信用しろというほうが無理がある。
「な、ならば、どうするのです? まさか織田に寝返り……」
「織田のうつけなどにつけるか!! あのような成り上がりもの――」
「ええ、織田には寝返りません。現状では使い潰されるのが関の山ですので」
逆上寸前の家臣の一人を言葉で抑える。家臣団内の織田家への遺恨は把握しているが、今は構っていられない。
実際織田に寝返ったとしても今は良くても将来的には大きな問題が発生する。松平、いや、徳川が戦力を伸ばすことができたのは従属に近い形であったとはいえ織田という同盟相手がいたからというのも大きい。
織田と協力するなら最低でも同盟という形にする必要がある。そうでなければ、遠江駿河、甲斐への抑えとして活用されるのではなく、尖兵として使い潰されかねない。
ゆえに、現状で取りうる最善手はたった一つ。史実での家康がそうしたように、オレは一番厳しい道こそが正解だと考えている。
「織田にも着かぬ……今川にも着かぬ……このままでは我らは頼るあてもなくここで討ち死にですぞ!」
「頼るあてがない、とはまた作佐殿らしくないものいいかと。先日、寺部城での戦勝の折、私が約束した事をお忘れですか?」
作佐の言葉を呼び水にしてようやく本題を切り出す。史実の知識を元にした策ではあるが、これが上手くいくという自信はある。いや、必ず上手くいかせなければらない。
ようは、自棄のようなものだ。策は万全だが、多少の準備不足は否めない。運の要素も絡むのは軍師としては痛恨の極みだが、天運はこちらについているはずだ。
「……まさか、軍師殿」
「ええ、これより我らは岡崎城を取り返し、松平家の旧領を回復します」
自信と確信を持って全員にそう宣言する。これは儀式だ、発した言葉は彼らに聞かせたものであり、オレの心へと言い聞かせたものでもある。
これで退路は完全に断たれたが、上等だ。
「………………」
しかし、期待した歓声はなく、代わりに訪れたのは気まずい沈黙だ。オレの言葉が理解できないのか、それとも状況に頭がついてこないのか……彼らとて岡崎の奪還は悲願のはずなんだが、オレの知らない間になにか変化があったのだろうか。
だが、もう岡崎城のことどうでもよくなるってどういう変化だ。なにか変なものでも食ったか、洗脳でもされたのか。大丈夫か、三河武士。
「……さ、策がおありなのか? 本当に岡崎の城を取り戻す策が……」
「……ええ、もちろんです。あの時お約束したとおりにその策は練ってきました」
ようやく再起動した忠次の問いに、オレはそう答える。自分たちがそうしてくれといったわりには随分とひどい話だなと思わなくもないが、まあ、いいだろう。
軍師たるもの、必要なものは主君の賞賛だけ。ほかの誰に嫌われたとしても、それはきっちり仕事をしているという証拠だ。別に拗ねてはいない。
「も、もしや、我らにお命じになったものは全てこの事を見越した上での……」
「もちろんです、竹千代様と事前に示し合わせた上でこの策を準備して参りました」
ほくそ笑みたくなるのも山々だが、今は我慢だ。喜ぶのは策がすべて成立し、最良の結果を掴み取ってからにしなければ。
想定外のことは必ず起こるもの。すべてが頭の中で計算したとおりに動くのなら、世の中はもっと上手くいってるはずだ。その必ず起こる想定外に対して、さも事前に把握してましたという顔をしながら対応するのが真の軍師というものだ。
「ま、真に岡崎に帰ることが出来るのか……本当に……」
「え、ええ、そうですが――」
「――おおおおおおおおおおおおおお!!」
まさしくこれが想定外だ。家臣団総出の大歓声が上がったのはオレの想定から数分後、彼らが真にオレの言葉を理解した、そのときだった。
この士気の高さなら必ずやれる。岡崎奪還に向け一致団結した彼らとオレの策があれば、絶対に勝てる。いや、勝ってみせる。
次の更新は9月30日土曜日です




