35、非情ならざれば
一刻も早くこの本陣から離れる必要がある。ここに来たこと自体には意味があったが、ここに留まることは死を意味する。織田の奇襲部隊はすぐ傍まで来ていると考えられる、あの水野信元の書状からして信長の行動が史実より早まっている可能性も十分にある。
今川の首脳陣が集まっているこの場所が襲撃されれば二万五千の大軍は瓦解する。それは松平家としては望むところではあるが、ついでに家康が討ち取られたらそれこそ本末転倒だ。
とにもかくにも、ここにはいられない。どんな理由をつけても大高城の松平勢と合流するのが、最善の策だ。
「――いやぁ、さすが御所様! そのような調略まで行われておったなど、この親永、感服いたしました!」
だというのに、今川勢は昼間から呑気に酒を酌み交わしている。あと一時間もしないうちにここにいるほとんどが首と胴体がなき別れすることになるとおもうといっそ哀れですらある。
彼らは織田勢が奇襲を仕掛けてくるなど微塵も考えてはいない。敵は篭城の構えを見せ、寝返るものもでてきている。ましてや、今川の人間にとっての織田信長の認識は尾張のうつけで止っている。この慢心と油断は当然のものであり、本来ならば問題にもならない程度の気のゆるみだ。
それが彼らの命取り。どんな強固な城も蟻の一穴から崩れ落ちるという好例だ。オレと家康はここから学ばなければならない。一つの家、しかもこれだけ大きな大名の凋落を目の当たりに出来るとなればある意味、最高の教材だ。
もっとも、傍から見るならばともかく、巻き込まれていては不幸なバカその1になってしまうのだが。
「……竹千代様、今すぐ失礼致しましょう」
「は、はい、大高城のことも気になりますしね」
オレが退席を提案すると家康はすぐに頷いてくれる。彼女が聡明なのはオレにとってはありがたいことだ。忠次や作佐のような察しの悪いやつらならいちいち帰る理由をでっち上げなければならなかったところだ。
家康の口にした大高城が気になるというのはここを退く言い訳としては至極真っ当なものだ。義元も無理には引き止めないだろうし、怪しまれることもない。彼らにはこの油断を続けてもらうのがいい。
「……軍師殿、私は退席を願い出るついでに御所様にご諫言申し上げようと思っているのですが……どうでしょうか?」
「……諫言ですか」
彼女は聡い。この状況を問題視することは異論の余地をはさみようがないほどに正しい。外様であり、信長を知る彼女には油断や慢心の類はない。ともすれば、この場で最も冷静なのはオレではなく彼女なのかもしれない。
しかし、彼女の考えは正しいが間違っている。ここで諫言すれば今川家にとっての最悪の事態を回避できるかもしれない。それがそのまま松平家の最悪に繋がるというのを彼女は分かっていない。
仕方がないことではある。いや、むしろ、これでいいのだ。彼女にその選択をさせないためにオレはここにいるのだから。
「それはやめておいたほうがよろしいかと」
「な、なぜですか? 御所様はきちんと誠意を持ってお伝えすれば決して道理の分からぬお方では……」
「……ともかく今は私の言葉を信じていただきたい。私は決して貴方の利にならぬことは口には致しません」
言葉を弄して説得している時間はない。それに彼女の性格上、こうしたほうがオレの言葉を受け入れてくれるのは織り込み済みだ。
嘘は一切ない真摯な言葉だ。今彼女に織田の事を伝えればかならず義元にもそれを教えようとするはず、情が彼女にそうさせる。
だから、今はこれでいい。ただなにも言わずにここを立ち退くことが一番いいのだと彼女が信じてくれさえすればそれでいいのだ。短い付き合いだが、信頼は得ている。賭けではあるが、勝ち目は充分だ。
「…………わかりました、軍師殿の言うとおりに」
「感謝いたします。では、すぐにでも」
賭けには勝った。あとは義元に退席に願い出るだけだ。利があるのはこっちだ、彼の機嫌を損ねることになっても、どうせあと数時間の命だ。問題はない。
「――なんじゃ、もう帰るのか」
「は、はい、大高城に残した臣下のことが気がかりですので」
「まあよい、そなたは生真面目ゆえな。だが、その前に近こうよれ。そのほうもじゃ」
義元に退席を申し出ると、なぜか家康共々隣に着席を促される。時間がないというのに悠長なことはしていられないが、強引に断ればオレの考えを読まれかねないし、付き合うしかない。
「……竹千代、そなたが今川に来てから何年になるかの」
「十年になります。御所様にも雪斎禅師様にも良くしていただいて……私程度には過分なお計らいでした……」
「それはそなたの中に余も雪斎もほかにはない才を見たからだ。無事芽吹いたようで余も嬉しいぞ」
義元は柔和な笑みを浮かべてそういった。父親の顔、というべきなのだろうか。彼の表情や仕草からは一切他意を見受けられない。本気で家康の才能を買って、その才能が発揮されている事を喜んでいる。
史実でも義元は家康にかなり期待していたようだが、この世界ではその期待は家康が女性である事を差し引いてもかなり大きなものらしい。娘、ああいや、息子があまりにも不甲斐ないからというのは流石に下衆の勘繰りというものだろうか。
「い、いえ、これも軍師殿の……」
「よい臣下を見つけるのも将としての才覚があってこそよ。そうであろう? 佐渡?」
「……まこと仰るとおりかと」
内心歯噛みしながらも一切表情には出さない。言ってることは間違ってないが、オレの場合はちょっと事情が異なる。義元がそれを知らないのをみると、雪斎は家康以外には”御使い”云々の話はしていないらしい。
「……佐渡よ、そなたには家康にとっての雪斎とならねばならぬぞ。くれぐれも二心なく忠道を貫けよ」
「仰せのこと、心胆に刻み付けまする」
義元の言葉はどこか遺言めいている。一瞬、自分の運命を悟っているのではないかと思うが、すぐにその考えを打ち消す。分かっているなら自分の死をさけるためにあらゆる手を尽くすはずだ。だから、これはオレの錯覚に過ぎない。
「……織田の子倅は降りはせぬだろうな」
「御所様…………」
なるほど、そういうことか。遠い目をした義元が漏らした一言がオレの疑問に答えを出した。彼は織田が降るのを待っているのだ。
この宴はそのための示威行為であり、時間稼ぎだ。今川軍の余裕の構えを見た織田が降伏するのを期待しているのだ。
その意図を考慮すれば、この宴はそこまで愚かな選択ではない。十倍の戦力差と寝返り、表向きの情報から考察すれば織田の詰みは明らかだ。普通の大名なら白旗を振ってもおかしくはない。
義元はそれを待っている。戦わずして勝つことこそが最上の勝利、と孫子も述べているとおりに彼は行動しているのだろう。
ああ、間違ってはない。彼も間違ってはいないが、甘い。小田原城で秀吉の行った位攻めにも似ているが、あれは城を囲んだ上での作戦だ。万に一つの勝ち目をなくしてからこそ、この作戦は有効だった。
おそらく義元は戦そのものをそこまで好んではいない、血を流さずに済むのならそのほうがよいと考えているのだ。それが彼の死因であり、今川家の滅亡の原因だ。
「……もう行くがいい。丸根と鷲津はそなたに任すぞ」
「はい! 必ずやご期待通りに!」
そんな義元を家康は尊敬しているのだろう。彼女にとって義元は父のようでもあり、師のようでもあるのだろう。
ああ、だからこそ、オレがここにいなければならない。彼を見捨てるのは家康ではなくこのオレだ。嫌われ役は覚悟の上だが、これからやることを思うと胃の中に溶けた鉛を流し込まれているような気分だった。
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