34、内応、あるいは策略
この夏の時期の山道は非情にジメジメしている。五百年以上の時代の開きがあってもこういう自然の法則は一切変わらない。そう考えると人間の文明なんてものは地球全体からするとちっぽけなものなのだと実感できる。
というか、比較的通気性に優れた日本の甲冑でもこの時期は辛い。できることなら全部脱ぎ捨ててジャージにでも着替えたいが、そう贅沢も言ってられない。
「雨が降りそうですね……」
どこか憂いを帯びた家康は空を見上げながらそういった。確かに雲行きは怪しい。このまま雨が降り出せばすべてが始まると考えれば、この曇り空はある意味吉兆だ。もっとも、このままだと凶兆に変りかねないわけだが。
非情に不本意だったが、丸根と鷲津の両砦の攻略は忠次たちに任せて、オレと家康は義元のいる桶狭間に向かっている。純粋な力押しでも簡単に砦を落せるだけの戦力差はあるから大きな問題はないのだが、彼らがやり過ぎないかがただ心配だ。
義元からの誘いを断るのも考えたが、それはしなかった。使者の様子からして無理に断ればなにかありかねないように見えたし、ここで断りあらぬ疑いをかけられるよりは一度出向くほうがリスクは少ないと考えたからだ。
相変わらず相手の考えが読めない。単純に油断しきってバカな真似をしているのか、それともなにか深い意図でもあるのか、そのどちらかを確かめておきたかった。
とにかく、挨拶だけしてさっさと帰る。まだ昼前だからささっとケツをまくれば事が起きる前に大高城に戻れるはずだ。多少のリスクはあるが、問題はない。
戦の最中に戦勝祝賀の宴というのはそこだけ見れば悪手中の悪手だ。海道一の弓取りとまで呼ばれた男が何の意図もなくそんな真似をするはずがない。オレが彼を過大評価しているといわれればそうかもしれないが、そんな無能なら容赦なく切り捨てられてこっちも気が楽だ。
それに義元を筆頭とした今川勢が油断しているならそれにこしたことはない。織田の奇襲作戦の成功確立が高まるなら決してデメリットばかりではない。
大高城から桶狭間山までは数時間の道行き。わずかな護衛を連れての移動だったが、幸いにも道中で敵や野伏せりの類に遭遇するという最悪の事態は避けれられた。
オレにとって気がかりなのは義元のいる本陣に着くまで家康がほとんど口を開かなかったことだ。彼女にも何か思うことがあるようだが、明け透けに聞くわけにはいかないし、見抜けないのはオレの軍師としての能力不足がゆえだ。
「――おお、よくきた竹千代! 言うたとおり軍師も連れてまいったな!」
「は、はい、仰せのとおりに……」
本陣に着いたオレたちを義元は直接出迎えた。かなり機嫌がいいのは白塗り越しでも、簡単に察せられる。理由もなくこんな事をしているわけではないらしい。
何か状況の変化があったはずだ。それも戦局を変えるような決定的な変化があったはずだ。、敵の重臣が寝返りを承諾したか、あるいは織田が降伏でも申し入れてきたか……後者だとかなり困ったことになるが……。
「これで皆集まったな。それにしても、しけた面をしておるのう。戦勝の宴と申したはずだが?」
オレと家康が席に着くと義元がそう声をかけてくる。なんとも上から目線な言い方だが、どうにも腹が立たないのは彼の人柄ゆえだろう。
陣幕に集まっているのは今川軍二万五千を率いる武将達のお歴々。全員オレたちと同じように突然呼び出されたらしく、顔に困惑の色が浮かんでいる。
オレたちだけが事情を理解していないわけではないというのはありがたいが、いよいよわからなくなってくる。この暴挙の理由を把握しているのはおそらく義元本人だけだ、となると、よほどのトップシークレットということになる。
何かを隠すのは隠すだけの理由がある。オレが策を立てるとしても自分と家康以外には限界まで伏せておく。情報の漏洩というのは関わる人数が多ければ多いほど増えるものだ。need to knowの原則は時代や世界が変っても普遍のものだ。
「ご、御所様、此度の戦はまだ終わっておりませぬ。だというのに、戦勝の宴というのはあまりにも……」
「ようやく聞いてまいったか親永。そなた、少々遅いぞ」
「で、でしたら御所様、なぜこのような……」
おそるおそる尋ねた関口親永を義元は楽しそうにからかう。口ぶりからすると、今回のこの行為が暴挙であることは義元自身も自覚していることらしい。その上で、これを行うというのはやはり何かの意図があってのことだ。
だんだんと状況が理解できてきた。ようは秘密裏に行っていた調略が成功したのだ。織田方の将の誰か、それもかなり重要な役割を負った将が内応を約束したのだろう。
「実はな、刈谷の水野信元めが内応を約束したのだ。余が大高城に入り次第、織田のうつけめの首を差し出すとな」
「刈谷の叔父上が……内応!?」
思わず家康が声を漏らしたのは無理もない話だ。実際オレも内心かなり驚いている、家康が声を上げなかったらオレがそうしていただろう。
内応を約束したという水野信元は彼女にとっては母方の伯父にあたる人物だ。彼は信長の父親の信秀の代から織田方についている人物だ、家康の誘拐の一件にも関わっているとも言われている。
彼が織田を裏切るというのはオレの知識にもない事態だ。後々、武田との内通を疑われて処刑されたことは覚えているが、この桶狭間で彼が今川方についたという話は聞いたことがない。どうなっている?
「うむ、そなたの叔父の信元めよ。驚いたようじゃの、竹千代!」
「は、はい、叔父上は父が御所様にご奉公されてからも再三再四織田につくように談判なされるほどの織田贔屓の方でしたので……」
「その織田贔屓の信元めも余が本気になればこのようなものということよ。信元だけではないぞ? 織田方の国人衆のほとんどが慌てて内応を申し出ておるわ。このようにな!」
「おお! なんと!」
義元がいくつかの書状を懐から取り出すと集まった諸将から歓声が上がる。目を通さなくてもすべて内応を示す書状だということは察しがつく。
ざっとみただけでも書状の数は十数枚。確かにこれだけの数が寝返ったのなら今川家の勝利は揺るがない。ただでさえ圧倒的な数の差があるのだ。これに国人衆の裏切りが加われば織田は成す術なく捻り潰されるしかない。
だが、どうにもオレには引っ掛かる。未来の知識があるがゆえに違和感を覚えているのか、それとも、ただの直感なのか、それはオレ自身にも定かじゃない。けれども、なにかがおかしい、なにかが……。
「……殿、叔父上のこと事前に何か聞き及んでおいででしたか?」
「い、いえ、私も今こうして聞いたのが初耳で……どうかされました、軍師殿?」
「……あとで少々お時間を戴きます」
「は、はい、わかりました……」
家康の言葉がオレの違和感に確かな形を与える。もしオレが水野信元の立場なら寝返りの件に関してはまず甥、ああいや、姪である家康に話を通す。
理由は単純だ。いくら血で血を洗う戦国時代とはいえ、裏切り者はどの家に行っても歓迎されることはない。一度裏切った人間には必ずもう一度裏切る。よほど上手く立ち回らなければ捨て駒にされるのがオチだ。
だから、裏切る際は先にそれなりの立場を要求しておくのが定石だ。ましてや、相手方に姪という近い親戚がいるのだ。本当に裏切るなら彼女を通じて義元に裏切り後の立場について確約を求めるはずだ。
それがない、ということはこの裏切りは嘘だ。十中八九、義元を油断されるための織田方の策略とみて間違いないだろう。
そしてそれを知るのは、おそらくはオレだけ。これは利用できる。
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