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72章 海神ポセイドン

 

 72章 海神ポセイドン


 悪魔にとって爵位と階級は絶対だ。

 

 ●

 

 孤児院が、森が燃えている。

 葉が燃えながら落ちてくる。

 

 黒煙が充満し、喉がひりつき始める。

 水で濡らした布を口に巻きながら、牽引役はアンドラスに斬りかかる。

 

 地面すれすれ、石畳に擦り付けられた大剣が火花を散らす。

 足元を狙うように牽引役は大剣を振り回す。

 伏せながら剣を振り上げ、頭をかち割るように振り下ろす。

 

 アンドラスが乗っている狼が器用にそれを避けた。

 避けた先にアンドロマリウスが立っている。


 アンドラスが突きを繰り出した。

 

「伯爵、引き給え」

「ここで引くのは正義ではありませぬ」 

 

 短刀と剣が切り結ぶ。

 アンドラスの腕に大蛇が絡みつき、腕を締め折ろうとする。

 

 みちり、ぶちり、と嫌な音がした。

 素手で大蛇が引き千切られている。

 

「では沈め」

「アンドロマリウス!」

 

 遮二無二に大剣を振り回す。

 アンドラスの背中を捉えた筈の剣は空振り、虚空を切る。

 

 間合いを取り、アンドラスがこちらを見ている。

 仕切り直しか、と構え直した所で何者かの声が場に飛び込んできた。

 

「君!」

 

 白い、文明時代を思わせる服を着た青年。

 手には見事な細工の槍を持っている。

 後ろには大勢の騎士達を引き連れていた。


 この状況をすぐに理解したのか、青年が牽引役に近付き、耳打ちをする。

 

「彼らはこちらで保護した」

「!」

 

 青年が言っているのは、逃した子供達の事だろう。

 だが安堵する間も無く、炎が一層、激しさを増し始めた。

 

「どうしたものかな」

 

 新たな獲物を見てアンドラスが首を傾げる。

 だが、その声には愉悦が滲む。

 配下の狼が唸り声を上げる。

 

「この皆殺しのアンドラス。契約者の命を贖うまでは国に帰れぬ」

「契約者の……? ……!」

 

 青年がアンドラスの手の中にある死体を見て息を呑んだ。

 

「あれは君が、違うな。傷口の大きさが違う」

「……判るのか?」

「その程度はな」


 見る限り、良い所の出だと思ったが場馴れしているのだろうか。

 それとも、最近経験を積んだのか。


 名前を聞こうとするが、アンドラスがそれを許さなかった。

 

 アンドラスの放つ炎が牽引役と青年達を分断する。

 どうやら牽引役を始末する事が最優先であるようだ。

 

 地面に伏せていても尚、熱気と炎が襲いかかってくる。

 大剣が篭手や革手袋を付けていても持てない程に熱くなる。


「ま、そりゃそうか」


 裏切り者の末路など、こんな物である。

 アンドラスの剣が炎の揺らめきを反射した。


「互いにやる事はもう済む。早く逃げなよ騎士さん達」 

「……っ!」

 

 煙と炎の向こうから青年がこちらに手を伸ばすのが見えた。

 だが、牽引役は手を取らない。

 想像通りの素性ならば、手を取る資格は既に無い。

 

 諦めと充足感が全身を包む。

 アンドロマリウスに抱かれ目を閉じようとした時だ。

 

 空で何かが光ったのが見えた。

 思わず見上げると流れ星のように何かがこちらに向かってきている。

 

 空から一直線に槍が降ってくる、と理解した頃にそれは光を纏い、

アンドラスの、そして牽引役の目の前に突き刺さる。

 

 槍から水を含んだ竜巻が巻き起こり周囲を薙ぎ倒す。

 突風に吹き付けられ、地面を転がる。

 

 豪雨の如く水が降り注ぐ。

 燃え上がっていた炎は掻き消え、いつの間にか現れた戦車が戦場を割るように佇んでいる。


 ●

 

 ゼウス。

 雷霆を司るオリュンポスの最高神。

 全知全能、愛と正義の神、運命さえも思いの儘に出来ると言われていた。

 

「おかしいと思わないか」 

「何が?」   

 

 あの時、直接刃を交える事は無かったが、それでもゼウスの強さに疑いは無い。

 そう言いながら、皇帝は何故、このような話になったかを思い出す。

 

 王国、厳密には遊牧民達の設営地へ向かう途中の事だ。

 やる事も無く、馬車から出て馬と並んで歩いていると、ゼウスが皇帝に手招きをしていた。


 話がある、と馬車に誘われ、飲み物と軽食を振る舞われていると、突如、今の会話の流れとなった。

 どういう事か、と聞こうとすると馬車を薙ぎ倒しかねない勢いでオーディンが飛び込んできた。 


 飲み物を分けると多少、機嫌が戻ったので話を続けるように促す。

 オーディンの視線に突き刺されながら、ゼウスが髪をかき上げ言う。

 

「私は雷霆の神であり、全知全能の神である、あった」

「すげーな」

「そうだろう、もっと褒めよ。じゃない。おかしいと思わないのか」 

「?」

 

 ポセイドンは海と大地を司る神であり、そして、ゼウスと並ぶ程の力を持ったと言われていた。

 

「おかしくない? 理不尽にも程がなくない?」 

「……いや、その辺の話は全然」

 

 ゼウスが驚きで目を軽く開いた。

 皇帝は冷たい茶を啜る。

 

「聞いてないのか」 

「聞かなくてもアイツが楽しい男なのには変わんないしー」

「楽し……、え?」

 

 ゼウスが何を言われたか判らない、といった表情をした。

 

 成程、聞けば確かにそれは理不尽かもしれない。

 オーディンの方を見ると納得したように何度も頷いていた。

  

 ふと、ポセイドンを呼び出した時のゼウスの様子を思い出す。

 それがどのような男か知らぬと見える、と忠告めいた発言をしていた。


「仲悪かったのか?」


 皇帝の言葉にゼウスが腕を組んで考え込む。

 どう形容するべきか判らないといった表情だ。 

 

「癇癪持ちで付き合い辛い所は多少、かなり、多々あったと思う。

個人的な話はしなかったし、……政治が絡むと、どうしてもな」

 

 信仰と政治が絡み合い、敗北は不信心と同義だったのだ。

 

 ゼウスの言葉にオーディンが少しだけ目を伏せた。

 それが文化の違い故の不可解なのか、思う所があるのかまでは判らない。

 

 ポセイドンの真意も一切不明だ。

 何を考え、皇帝と契約を結んだのか全く判らない。

 

「ただ、心には留めておけ。私が言うのも何だが、あれは決して善意だけでお前と契約した訳じゃない」 

「……おう」  

 

 きゅぅっ、と竜の甲高い鳴き声が聞こえた。

 外が俄に騒がしくなる。

 

 馬の手綱を取る戦士の背中越しに前方を確認すると、どうやら設営地に到着したようであった。

 ゼウスが溜息のような笑い声を上げ、こちらを見る。

 

「そうだな」 

 

 空気を変えるようにゼウスが殊更、明るい声で言う。

 

「折角だ、私の幕屋で一晩、あの兄について語り合うのはどう」

「ん?」

 

 いや、本人の居ない所でそういうのは、と言おうとした所で、

皆まで言わせず、オーディンがゼウスを馬車から蹴り出した。


 ●


 白槍公は何が起きたか判らずに唖然としている契約者を引っ張り、抱え込んだ。

 騎士達に、決して先走らぬようにと視線を送る。

 大蛇を持った悪魔がこちらを守るように立った。

 

 見慣れぬ装束の、半裸の男が降り立ち、槍へと手を伸ばす。

 地面に突き立てられた槍を引き抜きながら、男がアンドラスの方を見た。

 

 神か悪魔か。 

 

 この男は人ならざるものであると脳が警鐘を鳴らす。

 見てくれは人の形であるものの、纏う空気が明らかに人間のそれでは決して無い。

 

 アンドラスが狼の上から降り、男に声を掛ける。

 

「まさか御出でになるとは」

「貴様の許可が必要か」

「滅相も御座いません」  

 

 鳥の頭故に表情は判らないが、アンドラスの声は硬い。

 だが、その言葉で男の気分はかなり害されたようであった。


「しかし、我のような悪魔に神の御意志は推し量れますまい。

海神ポセイドン様は如何な御用事で顕現なされたか」

「……下見だ」

 

 不快である事を隠しもせず、男、ポセイドンが短く答えた。

 

「あの悍ましき塔の正体を探り、どちらに着くかを決める事にした。理解したか」

「はっ。では恐れながら申し上げます。貴方様はこちらに着くのが筋かと……」

「……!」

 

 一体、何を言い出すのか。


 白槍公はアンドラスを睨みつける。

 同様にポセイドンの表情も険しくなるが、アンドラスは気にせずに続ける。

 

「この国は神の敵となり御心を拒んだ国。信じぬ国」

「……ほぉう?」

 

 ポセイドンが初めて不機嫌以外の表情を見せた。

 続けよ、と言わんばかりに鼻を鳴らす。

 

「かつて信心を失った民達を沈めた貴方様にとっては、助けるに値する理由は無く、

逆に大敵と言っても過言ではありますまい」


 現時点でアンドラスの言葉に反論できる材料は無い。

 そしてこの国の王族として、ポセイドンに助命嘆願など出来る筈も無い。

 

 ポセイドンが白槍公の方を見た。

 白槍公は牽引役を自らの背に隠す。

 背後の部下達が殺気立ち、武器を構える音が聞こえ、自身も槍を握り直す。


「成程? ならば私はこちらに着こうか」 

「……理由をお聞かせ願えるか」

 

 そう言ってポセイドンが白槍公に背を向けた。 

 不可解である、といった内心を隠さずアンドラスが問う。

 

「信徒で無い者が私を奉じぬのは当然の事。それを見誤れば4文字と同じよ」

「……」

 

 ポセイドンの言う事が判る程度には、白槍公も事情を知っている。

 だが、何故それがこちらに着く理由になるのだろうか。

 

 白槍公の疑念を置いてきぼりに、ポセイドンは言葉を続ける。

 

「そして何よりアンドラス、皆殺しのアンドラス」

「! 我が名を御存知で」

 

「何故お前は私を殺しに来ない?」

  

 ポセイドンの言葉の意味をすぐに理解出来た者は、この場に居ないだろう。

 誰もが困惑の表情で黙り、言葉を待つ。 

 

「神を拒んだ国の人間が私に命乞いをせぬのは当然だ。

それに構わず私が人間を好きなように扱うのも当然だ。

だが、皆殺しの名を冠するお前は何故、私を殺しに来ない」


 槍を弄びながら、つまらなそうにポセイドンが見下ろしていた。

 だが、その切っ先が鋭くアンドラスに向けられる。

 

「神である。神である。人を愛しに殺しに、孕ませに来た神である。

悪魔よ、零落した我らであり、4文字の手駒であり、天使として神として復権を狙う者よ。

貴様が狙うべき首級がここにあるぞ――!」 

 

 ポセイドンの機嫌を本格的に損ねたと悟り、アンドラスが吠えた。

 狼に飛び乗り、ポセイドンに向かって剣を突き出す。

 

 耳障りな金属音の後にアンドラスが狼ごと吹き飛ばされた。

 

 ポセイドンが槍で地面を叩くと、大地が大きく揺れ、地鳴りが轟く。

 アンドラスの方に向かって地割れが走る。

 急いで狼に乗り直したアンドラスが舌打ちをした。

 

「神を誑かし、契約者の死に華を添える事こそ悪魔の本懐。だが……!」 

 

 そう上手くはいかんか、と吐き捨て、アンドラスが死体を抱えたまま何処かへ飛んでいく。

 強風に吹かれながら、ポセイドンが片眉を上げた。

 

「成程?」

 

 妖艶とも酷薄とも取れる表情でポセイドンがそれを見送る。

 風が収まり、場に静けさが戻る。

 

 だが危機が去った訳では無く、白槍公は警戒を解けずにいた。

 ポセイドンと目が合うと、わざとらしく溜息を吐かれた。

 

「葡萄酒を寄越せ、蜂蜜と水で割ったやつをだ。

その程度の用意は出来るだろう」

 

 そう尊大に言い放ちながら、ポセイドンが瓦礫に座った。 



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