第6章
ぼくが、家へ帰ると、間もなく、両親も、それぞれに帰って来た。学校からは、すでに連絡が行っていて、ぼくは、すぐに両親から説明を求められた。普段は放任主義で、滅多なことでは怒らない両親が、その日は、険しい顔をしていた。ぼくは、自分が彼女のことを好きだということは伏せて、ありのままを話した。
ぼくが、両親に話している途中で、電話が鳴った。母親が電話に出ている間、ぼくは、話を止めて、電話が終わるのを待った。母親が電話を終えて、リビングに戻ってくると、また、すぐに電話が鳴った。
最初の電話は、それほどかからなかったけど、二本目の電話は、十分ほどかかった。一本目の電話は、榊さんからだった。手短にイジメから自分を守るためにやったことだからと言って、何度も、感謝の意を伝えていたらしい。
二本目は、西田からだった。西田が、わざわざ家に電話をかけてきたことが、少し驚きだった。電話で、母親に、西田がクラスの連中から聞いた事情を仔細に伝えてくれたらしい。
どうやら、その二本の電話で両親もぼくの言うことを信じたようだ。もっとも、両親が、ぼくの言葉を疑っていたわけではなさそうだったけど。
こうして、両親への事情説明は、案外すんなりと終わった。ぼくが、事情説明を終わった頃にまた電話があった。今度は、担任の中野からで、ぼくの処分が、一週間の停学に決まったという連絡だった。
母親は、西田からの電話で、既に処分の内容を知っていたので、話はすぐに終わった。電話口で何度も「本当にすいません」と謝罪する母親の声を聞いて、いたたまれなくなった。
自分のしたことで、他の誰かが頭を下げなければならなくなるなんて、今まで考えもしていなかった。それだけぼくが、子供だったということなんだろうか。
「事情は、大体わかった。それで、これから、どうするつもりなんだ?」
父親が、改めて尋ねてきた。
「まだ、考えていない。そもそも、高校を卒業するってことが、そんなに重要なことにも思えないし、今度のことで、学校へ行くことに意味があるかどうかさえ、わからなくなった。ぼくが、学校の中で浮いた存在なのは間違いないし、それに、イジメを見ていて、見ぬふりをすることが、学校での勉強なら、そんなものに、意味があるとは思えない。このまま学校に通うことに、意味が見いだせなくなってる」
両親には、本当に申し訳ないと思った。高校の学費も生活費も、ぼくは自分では一円だって支払っていない。なのに、今更、学校に通う意味すら分からなくなっているだなんて、両親からしたら、ふざけた言い草だろう。でも、それは、まぎれもなく本心だった。
ぼくらの学校生活は、まるで知識の詰め込みゲームだ。でも、間違ったことを間違っていると言えない人間が、知識だけを頭の中に詰め込んだとして、それが、いったい、何の役に立つっていうんだろうか。ぼくには、何もかも分からなくなっていた。
「なるほどな。お前の疑問も、もっともだな」
父親が、言った。
「そもそも、オレたちが高校で勉強していることって、何か、意味があるのかな?実際、社会に出てから役に立つものなのかな。だって、高校出ていない人も、高校時代成績の悪かった人も、社会ではちゃんと生活できてるわけだろ」
ぼくの言葉を聞いて、母親が言った。
「お父さんは、学者だから、高校の勉強が役に立っているのは当然だけど、啓一の場合は、多分、役に立たないわよ」
ぼくは、母親の顔を見た。
「それって、高校の勉強なんて、意味がないっていうことだよね」
母親は、いつもと違って、少し厳しい顔をしていた。
「啓一、勉強の成果をどう役立てるかは、生きていく中で身につけていくべき知恵の部分よ。人から教えられるものじゃなくて、この社会で生きるために戦っていく中で、自ら見つけていくべきものなの。たとえばサッカーで、コーチがせっかくドリブル技術を教えようとしたとするわよね。でも、試合に出たこともないのに、試合で役に立つかどうかを問うばかりで、練習もしない選手には、そのドリブル技術は何の役にも立たないわ。社会に出る前から、社会で役立つかどうかばかりを考えて、勉強もしない啓一に、学校で学んだことを役立てる知恵は、身に着かないと思うわ」
母親の言葉は、いつになく手厳しかった。
確かに、母親の言う通りだと思った。ぼくは、今、何の努力もしていない。なのに、してもいない努力が実を結ぶかどうかを論じている。こういうのを机上の空論というんだろうか。ぼくは、何も、言えなくなっていた。
所詮、ぼくの疑問は、何の努力もしないことを、正当化するための逃げ道だったのかも知れない。世間を笑い飛ばしていたぼく自身の言葉が、いつの間にか自分自身に跳ね返ってきていた。
母親が、重ねてぼくに言った。
「啓一、知恵というものは、生きることに必死になっている人間にしか、与えられないものなのよ」
母親の言葉にぼくは、何も反論できなかった。そんな風に打ちひしがれるぼくを見て、父親が言った。
「何にせよ、今はまだ、興奮して、考えがまとまらないだろうから、どうせ一週間の停学なんだし、その間、ゆっくり考えてみるのもいいだろう。ただな、お前が、どんな結論を出すにしろ、まずは、父さんと母さんに相談してくれないか」
「わかってるよ。まずは相談するから」
ぼくが、そう言うと、母親が、横合いから言った。
「約束よ。必ず話をしてね」
ぼくの「約束する」という答えをしおに、家族会議は終わった。ぼくには、それ以上、語る言葉さえ残されていなかった。
両親には、本当に申し訳ないことをしたと思っている。それが世間で許されないことであっても、自分のしたことは、間違っていないと思ってはいた。でも、さすがに、両親の顔を見るのはつらい。
両親との話が終わると、ぼくは二階の自分の部屋へと引き上げた。ベッドの上に横になっても、ぼくの頭は、まだ混乱していた。
答えのない疑問が、ぼくの頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。今日一日で起きた出来事を整理するためには、時間が必要だった。いつにない母親の厳しい言葉もそうだったが、特に、丘の上での彼女との会話は、今まで、ぼくが聞いた事もないものだったから、尚更だった。
あの海の見える丘で、彼女から告白された時には、確かに驚いた。でも、その後彼女は、ぼくの心の内を次々と当てて見せた。その正確さに、ぼくは彼女の能力を認めざるを得なくなっていた。
新学期初日、彼女が、ぼくを見て驚いていたのは、ぼくが、彼女のことを思っているのがわかったからだった。彼女は、これまで人から避けられてばかりいたので、その日初めて会ったぼくが、彼女に好意を寄せているのを知って、驚いたんだ。
その後、授業中に当てられた時も、ぼくの驚き方が可笑しくって、笑っていたらしい。
登校した時や昼休みの時などにも、時々、ぼくの目を見て、ぼくの気持ちを確かめていたようだ。そして、ぼくの気持ちが変わっていないことを知ると、嬉しくもあったが、本当のことをぼくが知れば、嫌われてしまうのではないか、とも考えていたらしい。
ぼくは、考えてみた。もしも、他人の心を読める人間がいたとしたら、みんな、どんな反応を示すだろうか。
いちいち説明しなくても気持ちが伝わる事を、便利と思うだろうか。それとも、隠していた気持ちを知られてしまうことを、気味が悪いと思うだろうか。多分、後者の方が、普通の反応だろう。
だから、彼女は、これまで、人を寄せ付けない術を身につけて来た。人の心の読める彼女なら、他の人が真実を知った時、自分を歓迎してくれないであろうことは、容易に理解できたからだ。
彼女は、子供の頃からその力に、目覚めていた。だから、彼女にとって、それは、ごく普通のことだった。少しずつ大きくなるにつれて、自分の能力が特別なものだということがわかってきた。そして、人の心が読める能力というものは、世間から必ずしも歓迎されないことを学んでいった。
そんなわけで、彼女の能力は、小さい頃は勘の鋭い子だったという、思い出話の中に追いやられていった。
だが、彼女の能力が、消えたわけではなかった。むしろそれは、彼女に見たくないものを見せる役割を果たすようになっていた。
心の内に敵意を持ちながら、表面上の善意を見せる人たちや、穏やかな言葉の裏に隠された軽蔑だとか、愛の裏に隠された憎しみなどが、彼女の目には、隠すこともできずに、さらけ出されてしまうんだ。そして、いつしか彼女は、人との関わりを避けるようになっていた。
人と関われば関わるほど、彼女の目には、相手の心の中に隠した嘘が見えてしまう。こうした数々の出来事が、幼い彼女の心をどうしようもないほど、傷つけていた。ただ、彼女の両親が、心優しい人たちだったのが、わずかな救いだった。
彼女は、両親と居る時にだけ、心の安らぎを感じることができた。だが、そのささやかな幸せさえも、ある日、彼女の下から去って行った。
彼女が、自分の持つ、もう一つの能力に気づいたのは、小学生の時だった。小学校三年生の時、突然、彼女は、自分の見たくないものが見えた。それは、大好きだった両親の死だ。彼女が、両親を見る度に、彼女の目には、二人が血まみれになって死んでいる光景が見えるようになった。
どうして、そんなものが見えるのか、幼い彼女にはわからなかった。ほどなくして、彼女は、それが、ある種の予知であることを知ることとなった。両親が、交通事故で死んでしまったからだ。
彼女の予知能力は、かなり断片的なものらしい。未来のある瞬間が、まるで写真を見るように、突然、目の前に浮かぶんだ。それは、彼女自身の意思には関わりなく、突然、現れる。見ようとして見えるものではないが、見たくないからといって、避けられるものでもない。
一年の時、後藤という女子生徒とやりあった時にも、彼女には、一週間後の未来が見えていた。普通なら、口に出したりはしないのだが、その時は、気持ちが昂ぶっていて、自分でも抑えられなかったらしい。
両親を失って、独りぼっちになってしまった彼女は、父親の妹、つまり、叔母さんの家に引き取られることになった。だが、そこでの生活は、彼女にとって、幸せなものではなかった。
何も叔母の家でいじめられたわけじゃない。というよりも、叔母の家では、彼女のことをとても大事にしてくれた。ただ、時折、叔母夫婦が彼女に対して感じる、疎ましさや癇癪が、彼女には、つぶさに見えてしまうんだ。その度に、彼女は、自分がそこにいるべきではない人間として感じられた。
もちろん彼女が、叔母夫婦を恨んだというわけでもない。むしろ彼女は、叔母夫婦にはとても感謝していた。彼女の悲劇は、誰が悪いというものでもない。強いて言えば、そんな能力を持って生まれてきた、彼女自身の不幸だ。そうして、孤独をこよなく愛する一人の少女が生まれた。
ある日、彼女は、家から離れて歩き回るうちに、海の近くの丘の上に秘密の場所を見つけた。ぼくたちが、さっきまで過ごしていたあの場所だ。いつしか、そこが彼女のお気に入りになっていた。
他人と一緒いると、彼女は、深い心の傷を負ってしまう。だから、一人の時には、あの丘の上に行って、海を眺めるようになった。そんな人との関わりを避ける彼女が、コンパの翌日、あれほど怒っていたのは、上田が、彼女の家に電話したからだ。
その時間、彼女は、あの丘の上にいた。上田は、電話口で彼女の叔母に、かなり尊大な態度をとったらしい。また、彼女のことをクラス全員が嫌っているとか、気持ち悪がっているといったようなことも、言ったらしい。
全く上田らしいといえば、いいんだろうか。ああいう群れ人間にとって、群れから離れた人間は、絶対悪なんだ。群れに属していないというだけで、どんなに叩かれても文句は言えないし、やり返される心配もないということなんだろう。
おまけにヤツは、小心者だ。小心者ほど、自分を大きく見せたがる。その電話で、上田が何を言ったかは、ぼくにも、容易に想像できた。
そんなわけで、彼女の叔母は、すっかり心配してしまい、その時は、ちょっとした騒ぎになってしまった。彼女は、身寄りのない自分を引き取ってくれた叔母夫婦には、とても感謝していたので、どうしても、上田のことを許せなかったんだ。
ぼくは、彼女のこれまでの人生のことを考えてみた。人間の本心というものは、通常、嘘というオブラートに包まれていて、普通の人間には、見ることができないものだ。だが、それが見えてしまったら、どうなるんだろう。
誰もが持っている利害や打算、そして、それを包み隠すための嘘。いかにも相手を思いやっている風を装いながら、それをいかに自分の利益に結び付けるかを計算する人たちの存在。幼い少女の心には、抱えきれないほど、多くの醜いものを見てきたんだろう。そんな心の傷を抱えた彼女に、ぼくは、一層惹かれていく自分を感じていた。
彼女は、ひとしきり自分の秘密を打ち明けた後、言った。
「ごめんなさい。私、相川君を傷つけてしまった。本当は、相川君の気持は、とても嬉しかったの。こんな私のことを、思ってくれる人がいるなんて。それに相川君は、とてもまっすぐで、他の人達のように、嘘なんてつかない。私には、それがわかる。でも、だからこそ、こんな私に関わって、面倒なことに巻き込みたくなかった。それに、相川君が、本当の私のことを知った時、どんな風に思うか、私、それが怖かった。だから、迷惑だなんて言って、相川君を私から遠ざけようとしたの。でも、あんなにひどいことを言った私のことを、今日も必死で守ろうとしてくれた。だから、私、思い切って、全部話すことにしたの。相川君には、本当のことを知っておいて欲しかったから。相川君が、嘘をつかないように、私も相川君に嘘をつきたくなかったから」
そう言って、彼女は、ぼくの目を見た。彼女が、ぼくの目から何を読み取ったか、ぼくにはわかっていた。ぼくは、どうしようもなく、彼女のことが好きだった。彼女を守りたいと思った。彼女の心からの笑顔を見たかった。彼女を思い切り、この手で抱き締めたかった。彼女が歩くその隣を、ぼくも、寄り添って歩きたかった。
彼女が、ぼくの目をのぞき込んでいる時の、恥じらったような表情や潤んだ瞳が、ぼくの思いが伝わっていることを示していた。
多分、ぼくが、何も言わなくっても、彼女には、何もかもが伝わっていたと思う。でも、ぼくは、どうしても彼女に自分の気持ちを伝えたかった。ぼくが、どれほど彼女のことを思っているかを、自分の言葉で語りたかった。
ぼくが、話し続けている間、彼女は、ずっとぼくの目を見ていた。悲しみを背負った旅人が、眩しい光に出会った時のような、そんな表情でぼくを見ている彼女の姿を、ぼくは、たまらなく愛おしいと感じた。
翌朝、目が覚めるとぼくは、学校へ行く支度を始めた。その途中でふと気づいた。ぼくは、一週間の停学だったんだ。ついいつもの習慣で、無意味なことをしてしまった。
階下へ降りると、朝食の支度はすでに整っていて、父親は、トースターから飛び出してきたトーストにバターを塗っていた。ぼくは、両親に
「おはよう」
の挨拶をすると、朝の燃料補給を始めた。
「どう、少しは落ち着いた?」
母親が、そんな質問を投げかけてきたが、落ち着いたといえば、落ち着いたものの、答えが出たわけでもなかったので、返事のしようがなかった。
昨日、母親に言われたことは、もっともだと思ったものの、それに対する答えは見つかっていない。ただ、真剣に話してくれた母親に対して、ひとこと言っておかなければならないと感じていた。
「昨日は、ごめん、変なこと言って。ただ、まだ答えは見つからないから、これから昨日の話も含めて、いろいろ考えてみようと思う」
母親は、ぼくの言葉を微笑みながら聞いていた。
「そうね。時間は、たっぷりあるんだから、ゆっくり考えるといいわ」
母親は、そう言ったきりで、それ以上は、何も追及しなかった。そんな風に、停学初日の朝が始まった。やがて両親が、仕事に出かけた。
二人が出て行った後の、がらんとした家の中は、しんと静まり返っていた。ぼくは、所在もなくリビングに座って、部屋の中を見渡していた。
ふと、普段は気にも留めない室内のあれこれが、目につく。リビングのテーブルやその下のカーペット、テレビの上には、母親が趣味で作ったペーパフラワーが花瓶に入れて、飾られていた。
そういえば、母親は、日曜日になると、一心に、ペーパーフラワー作りに打ち込んでいる。ここにあるのは、両親の生活だ。少しでも生活を良くしていきたいと願い、そうやって家具を揃え、趣味を作り、決して豊かとはいえないまでも、ひたむきに生きている。
二人とも、毎日、どんな思いで仕事をしているんだろうか。一人息子の将来に、どんな夢を思い描いているんだろうか。この部屋の目に映るすべてのものに、両親の思いが刻み込まれているような気がして、何か、いたたまれなくなった。
自分が、間違ったことをしたとは思わない。だが、正しいことをしたのかと問われれば、自信を持って答えられなかった。昨日の晩、電話越しに、何度も「すいませんでした」と頭を下げていた母親の姿が、まぶたの裏に浮かんだ。苦労して高校まで行かせた一人息子が、学校に通うことに、意味すら見いだせなくなっていると知って、両親は、どんな思いでそれを受け止めていたんだろう。
ぼくは、まるで自分がこの世界に、何の存在価値も持たない人間になってしまったように感じていた。
外を通り過ぎる人の話し声や自転車のベルの音が、時折、静寂を破っていた。こうして部屋の中に閉じこもっているぼくの周りでは、素知らぬ顔で、日常生活が、織りなされていく。たった一人、そこから取り残されたままで、一体、これからぼくは、どこへ向かって歩いていけばいいんだろう。そんなことをぼんやり考えながら、停学初日は過ぎて行った。
午後四時にまだ数分を残した頃、不意に玄関のベルが鳴った。誰だろう、なんて思いながら、玄関の扉を開けると、彼女が立っていた。
ぼくの顔を見るなり、不安気だった彼女の顔色が、変わった。ぼくの心の色も、変わった。あまりのことに、ぼくは、口も利けなくなっていた。
「突然、ごめんなさい。相川君、停学中だったから、ノートとか持ってきたんだけど」
彼女は、ためらいがちにそう言った。
「どうして家がわかったの?」
「クラス名簿で住所を調べて、探してきたの」
何から話していいか分からずに、ぼくは、かろうじて言った。
「あ、よかったら、上がっていかない。お茶とか入れるから」
ぼくの言葉に彼女は、小さく「うん」と頷いた。
ぼくは、彼女をリビングに案内すると、ぎごちなくコーヒーをいれた。彼女にコーヒーカップを差し出して、テービルの前に座った。その間に彼女は、カバンから今日の授業のノートが書いてあるルーズリーフを取り出して、テーブルの上に並べていた。
彼女の手書きのノートに記された、几帳面そうな小さな文字が、目に沁みた。彼女が、わざわざ、ぼくのために二人分のノートを取ってくれたことが、今のぼくと、学校とのわずかな繋がりだったのかも知れない。
「ありがとう」
力なく言ったぼくを、彼女は、悲しそうに見つめていた。
「ねえ、相川君。学校は続けた方がいいよ」
ぼくは、ハッとした。彼女の能力のことを忘れていた。
「そうか。榊さんには、わかっちゃうんだよね」
ぼくは、自分の愚かさを笑った。
「でも、このまま学校に通い続けることに、どんな意味があるのか、わからなくなっちゃってさ。ぼくは、ただの落ちこぼれだし、将来何かやってみたい仕事があるわけじゃないから。榊さんは、家でも、かなり勉強してるんでしょ」
「叔父さん、叔母さんに、心配させたくないから。それに、大学に入ったら、バイトして、お金貯めて、一人暮らししたいなって。叔父さん夫婦に、迷惑かけたくないから」
ぼくは、彼女の家庭環境を思い出していた。叔父さん夫婦に極力迷惑をかけたくないという彼女の気持ちは、わかるような気がした。
「私のために、相川君がこんなことになって、私も責任を感じているの。だから、相川君に学校を辞めてほしくない」
「榊さんのせいじゃないよ。もともとオレは、あの学校には向いてないんだよ。というより、学校だけじゃなくって、世間に合わせることが、できないっていうか」
彼女は、とても悲しそうに、ぼくを見ていた。そんな彼女の目を見るのは、ぼくにとっても、好ましいことではなかったのは事実なんだけど。
「相川君は、ホントに、まっすぐだよね。普通は、学校に通う意味なんて、考えたりしない。誰もが、学校に通って、卒業して、就職する。だから、みんな、他の人たちと同じようにしているだけ。だけど相川君は、ひとつひとつ立ち止って、考えちゃうんだよね。もし、相川君に何か目的があって、学校を辞めるのなら、それは、それで、いいと思う。でも、意味が分からないから、勉強も手を抜いて、落ちこぼれたから、学校にいる意味がないっていうのなら、それは逃げているんだと思う。私、相川君には、そんな逃げの生き方は、してほしくない。私を守って戦ってくれた相川君だからこそ、自分のためにも、頑張ってほしい」
雄弁ではないが、それだけに真心のこもった彼女の言葉に、ぼくは、何も、返す言葉がなかった。ぼくを気遣う彼女の言葉の一つ一つが、ぼくの胸にしみた。
「ちょうど来週から、中間テストだから、私と一緒に頑張ってみない。私は、相川君と同じ学校に、もっともっと通っていたい。だから、一度、頑張ってみようよ。相川君は、きっとやればできる子だと思うよ」
いつもは「やればできる」なんて言われると、その言葉に作為を感じてしまうんだけど、彼女の口からその言葉を聞くと、胸に迫るものがあった。同じ一つの言葉が、それを語る人によって、こんなにも違って響くものなんだろうか。
ぼくたちは、そんな風に、いろいろなことを話し合った。というより、ぼくのことを話し合った。普段は、人から干渉されることを嫌うぼくが、その時だけは、彼女のぼくに対する心遣いに、あたたかな温もりを感じていた。
彼女の帰りが遅くなり過ぎないように、夕闇が忍び込んでくる時間には、二人で駅までの道を歩いていた。言葉少なにぼくの隣を歩く彼女の姿が、ぼくを照らすほのかな灯にも見えた。
「もう、ここで大丈夫」
駅に着くと、彼女は言った。ぼくは、電車が来るまで、彼女と並んで駅のベンチで待つことにした。
やがて電車が入ってくると、彼女は、足元に目を落としながら言った。
「私、明日も来るから」
一言、そう告げると、彼女は、ぼくの目を見た。
彼女には、人の心を読み取る能力がある。だから、その時、気づいていただろう、ぼくの浮き立つような気持を。電車の扉越しに、ぼくを見つめる彼女を見送りながら、早くも明日の約束の時間を心待ちにしている、ぼくが、いた。
家に帰ると、ぼくは、一人考えていた。彼女が言った言葉が、頭の中で何度も、こだまを返していた。
停学が明ければ、すぐに中間テストだ。どこまでやれるかは、わからない。だが、今回は、少し頑張ってみようと思った。落ちこぼれのまま学校を去っていくのは、彼女の言う通り、逃げだ。だったら、まずは結果を出してから考えよう。その上で、学校を続けるかどうか、考えよう。そんな風に思い始めていた。
でも、本当は、心のどこかでは気づいていた。「もっともっと同じ学校に通っていたい」という彼女の言葉が、すでに結論を出させていたことを。
翌日も、彼女は、学校帰りに、ぼくの家に寄った。玄関まで出迎えたぼくの目を見て、彼女は、気づいただろう。ぼくの心が、彼女と一緒に学校へ通うことに、傾いていることを。
ぼくの目を見るなり、彼女の顔に小さな笑顔が咲いた。
「今日から、一緒に勉強しないか」
と言うぼくに、彼女は、嬉しそうにうなずいた。
ぼくは、リビングではなく、自分の部屋に、彼女を案内することにした。勉強をするなら、自分の部屋の方が、集中できそうだったからだ。ぼくの部屋は、高校二年生の部屋としては、ごく一般的なものだと思う。もっとも、人付き合いの嫌いなぼくは、他の高校生の部屋など、実際には、見たことなかったのだけれど。
さして広くもなく、さして狭くもない部屋で、机とベッドと本棚があるだけだ。彼女は、ぼくの部屋に入ると、物珍しそうに部屋の中を見渡した。そして、本棚に目をとめて言った。
「たくさん、本が、あるのね。珍しい本も、持ってるし。読書家なんだ、知ってたけど」
彼女の「知ってたけど」という言葉で、ぼくは、彼女の能力を思い出した。
「そんなことまで、わかるの」
「だって、相川君って、授業中でも、その時読んでいる本のこと、考えていたりするでしょ。だから、きっと、相当な本好きなんだろうなって、思ってた」
彼女は、いたずらっぽく笑って、そう言った。ぼくの気持ちを読み取っているからだろうか、彼女は、今日は、いつもよりも明るく見えた。少し首を傾けて笑う彼女の仕草が、とても可愛くって、ぼくは、彼女の笑顔をもっと見たくなった。
多分ぼくは、一日に三十時間、彼女の笑顔を見ていても、飽きたりはしないだろう。それで、本棚の前で、彼女にお勧めの本を紹介したりした。彼女は、目を輝かせて、ぼくの話を聞いていた。
こんな風に、誰かに自分の趣味を語る時が来るなんて、少し前のぼくなら、想像もしていなかったと思う。ぼくの傍らで、ぼくの話を聞きながら、本棚に並んだ本の背表紙を眺めている彼女の横顔は、否応なしに、ぼくをおしゃべりにさせていた。自分を信じてくれる誰かが、傍らにいるというだけで、こんなにも人間は変わるものだということを、ぼくは、その時、初めて知った。
心浮き立つ瞬間というものは、時に、人をどうしようもない愚か者に、変えてしまうのかも知れない。いつもなら、自分の趣味を他人に押し付けようとする連中に、軽蔑のまなざしを送っていたぼくが、その軽蔑すべき行為を彼女に対して行っていたんだから。
ぼくは、本棚の中から一冊の本を取り出すと彼女に勧めていた。彼女は、その本を手に取ると、まずは表紙を見て、それから本を裏返して裏表紙をチェックした。それは、古本屋で、新学期初日に手に入れた文庫本だ。『草の花』というタイトルのその本は、いたくぼくの気に入った。で、彼女の感想も聞いてみたいと思ったんだ。
裏表紙には、あらすじが書いてあって、彼女は、しばしそれを読んだ後、
「おもしろそう」
と言った。そして、ぼくの方を振り返って、
「じゃあ、これ借りてもいい?」
と、言った。
「ああ、もちろんだよ」
ぼくの答えを聞くと、彼女は、嬉しそうにもう一度、裏表紙のあらすじを読み返した。そんな他愛のないやり取りの後、ぼくらは、早速勉強を始めることにした。
けれど、そこで問題が発生した。ぼくの部屋には、机が、一つしかない。そして、それは一人用のものだから、二人で座るには、小さ過ぎるし、椅子も、一つしかない。ぼくは、どれだけ舞い上がっていたんだろう。こんな簡単なことに、気付きもしないなんて。慌てて、テーブルを取りに階下に降りた。
部屋に戻ると、彼女は、まだぼくの本棚を見ていた。まるで、そこから彼女のまだ知らないぼくが、見つかるかも知れないと考えているように。それが、ぼくには、イヤじゃなかった。むしろ、彼女には、彼女のまだ知らないぼくを、もっと知ってほしかった。
バカげた考えだってことは、わかってる。彼女の能力からすれば、ぼくの目を見ていれば、何もかも、わかってしまうはずだから。わざわざ、ぼくの方から、そんな努力などする必要などないのに。
地球上で最も愚かな人間を見つけたかったら、恋する男を探せばいい。本当にそう思う。その瞬間、地球上で最も愚かな男は、間違いなく、ぼくだった。
勉強が始まると、まるで、ぼくらは、別の天体で暮らす生き物のように、異なった反応を見せた。彼女は、スラスラと明日の英語の予習をこなしていき、ぼくは、教科書を前に置いたまま、ただひたすら唸っていた。
彼女は、時折ぼくを見て、
「どこか、わからないところある?」
と聞いてきた。正直、ぼくには、わかるところの方が、珍しかったんだけど、その都度、彼女は、丁寧に教えてくれた。彼女の教え方は、とても上手くて、教師の言葉は受け付けないぼくの脳細胞も、瞬く間に彼女の信者になっていた。
ぼくらは、そうして勉強を続けたけど、あまり遅くなると、彼女の両親も心配するし、ぼくの両親も帰ってくるので、六時前には、切り上げた。勉強会初日のぼくの状態は、ダンケルクを撤退する連合軍のようだった。つまり、惨敗ということだ。
勉強が終わると、彼女は、言った。
「相川君、一年の時、全然、勉強しなかったでしょ」
「うん。自慢じゃないけど、全くやってない。多分、今日が、ぼくの生涯で、一番勉強した日だと思う」
彼女は、驚いたように笑った。
「受験勉強は?」
「それも、やってない。さすがに親の手前、やってるフリだけはしてたけど。でも実際は、部屋に閉じこもって、本、読んでた」
「スゴイ。それで、ウチの高校受かったの」
「うん」
彼女は、驚きはしたものの、ぼくの言葉を疑う素振りはなかった。当り前だろう。彼女には、ぼくの心の中が、見えるのだから。
「それって、凄いことだよ。全然勉強しないで、ウチの高校受かるんだから。相川君、ホントは、すごく頭いいんじゃない」
「そうかな。まあ、頭がよかろうと、悪かるろうと、あんまり気にしてないけど」
「うん、知ってた。ねえ、一年の時の成績は、どうだったの? あ、ちょっと待って、当ててあげる」
そう言うと、彼女は、ぼくの目をのぞきこんだ。
「へえ、やっぱり最初の頃は、そんなに悪くなかったんだ。それに、国語は、実力テストでは、いい点、取ってたんだね」
彼女の言う通りだった。一年の初めの頃は、そこまで成績は悪くなかった。だが、夏休みが始まる前には、ぼくの株価は最安値を更新し続け、二学期に入ると、グラスの底にこびりついたカスのようになっていた。
ただ、国語に関しては、定期テストは、振るわなかったけれど、実力テストでは、結構いい点が取れた。
そもそも定期テストの国語は、授業中に先生の言ったことをどれだけ覚えているかの確認で、ほぼ暗記科目だ。だが、本当の国語力が問われる実力テストでは、普段から本を読んでいるぼくは、がぜん有利になった。
「ねえ、今度のテストでは、世界史と生物に力を集中してみたら」
彼女が、テーブルの上に身を乗り出して、そう言った。
「英語とか、数学とかは、一年の時の積み重ねが必要だから、今度のテストには、間に合わないと思う。でも、世界史とか、生物は、暗記科目だから、一年の時の勉強は関係ないでしょ。その二科目でいい点取れたら、相川君も、自信が付くし」
「本当にそう思う?」
「思うよ」
彼女の提案は、もっともだった。一年の積み重ねのないぼくが、次のテストで結果を出したかったら、暗記科目に集中するしかないだろう。ぼくは、彼女の言葉に従うことにした。
勉強が終わると、ぼくらは、翌日のことを話し合った。明日は、土曜日で学校は休みだった。それで、明日は、二人で図書館に行って、勉強しようということになった。
ぼくらの学校には、勉強で図書館を使う生徒は、それほど、いないはずだった。というのも、ぼくらの学校は進学校で、外で勉強する場合、たいていの生徒は、予備校の自習室を利用するからだ。だから、図書館でなら、同じ学校の生徒たちの、好奇の視線を避けることができる。そんなわけで、ぼくらは、翌日、図書館で勉強することを約束した。
そして、勉強が終わると、ぼくは、彼女を駅まで送って行った。ぼくの気持ち的には、電車に乗って彼女の家までついていきたかったんだけど、駅のホームに着いた時、彼女が
「ありがとう。もう、ここで大丈夫」
と言った。
ぼくらは、ホームのベンチで電車を待ちながら、無言で過ごした。
ぼくらの間には、言葉はなかったけれど、彼女の横顔に浮かんだ微笑みが、ぼくらの気持の繋がりを語っていた。多分、ぼくの顔には、だらしのない、呆けたような表情が、浮かんでいたんだと思う。
やがて、電車の到着を告げるアナウンスが聞こえると、ぼくらは、ベンチを立って、明日までのしばしの別れに備えた。その時、突然、彼女は、ぼくに向き直って、額をぼくの肩に押し当てた。
「私、相川君に会えてよかった」
ぼくには、何が起きているのかも、わからなかった。風に揺られた彼女の髪が、ぼくの口元や鼻先をくすぐっている。ほのかにいい香りが漂ってきて、その香りが、ぼくから思考という精神の作用を奪っていった。
多分、ぼくは、彼女を思いっきり抱き締めたかったんだと思う。でも、ぼくは、痺れた様に動けなかった。ぼくの目には、彼女の髪や細い肩や背中が見えた。向かい合った誰かの背中を見るということが、これほどまでに切なく、温かで、心躍るものだということを、ぼくは、それまで知らなかった。
電車が、ホームに入ってくると、彼女は小さな声で
「好き」
と、ひとことだけ言って、振り向きもせず、電車に飛び乗った。
そして、ドアが閉まると、すぐにぼくの方を振り返り、ドアに両手をあて、何かにすがるような目をぼくに投げかけた。
ぼくは、笑いたかったんだろうか、それとも、泣きたかったんだろうか。どちらともつかない表情で、何度も、何度も、彼女に向かって頷きながら、動き始めた電車を追って、歩き始めた。彼女は、ずっとぼくを見ていた。
ホームの端にたどり着いても、ぼくは、遠ざかっていく電車の中の彼女から目が離せなかった。彼女も、ぼくをずっと見ていた。電車の後ろの赤いランプが滲んで見えることで、ぼくは、自分が泣いていることを知った。
どのくらいの間、ホームで立ち尽くしていたのかわからないけど、気がつくと、ぼくは、自分の家へ向って歩いていた。体が軽く感じられて、そのまま風に揺られて、空に昇ってしまいそうだった。
人の心の作用で、重力が影響を受けるものなのかどうか、ぼくには、わからなかったけど、人は空を飛べるものだと誰かが言ったら、その時のぼくは、たやすく信じただろう。
さっき駅のホームで聞いた彼女の言葉が、ぼくの心に響き渡っていた。初めての言葉だった。自分を必要としてくれる誰かの存在が、これほどまでに、人の心を振り回すものだとは。
人間というものは、実に勝手なものだ。今まで、ぼくは、ラブソングなんてものは、軽蔑していた。何千年も前から、似たり寄ったりのことが繰り返されていて、手を替え、品を替え、世の中のありとあらゆる人が、同じ気持ちを歌っている。でも、そのどれもが、似たり寄ったりだ。不幸には、様々な形があるが、幸福は、どれも似たり寄ったりだと言ったのは、誰だっただろう。
要するに、ラブソングなんていうものは、どれも、これも、変わり映えのしないものなんだ。でも、今ぼくは、その変わり映えのしないラブソングの主人公を演じている。何て身勝手なことだろう。
変わり映えのしない、誰かを好きだという気持ち。それが、ありふれたものだとわかっていながら、ぼくは、自分の気持ちが、かけがえのないものだと感じている。本当に人間というのは、身勝手だ。
ぼくが家へ帰ると、さほど時間をおかず、母親も帰ってきた。母親は、家に帰るなり食事の支度を始め、ちょうど夕食が出来上がる頃に、父親も帰ってきた。三人で食事をしながらも、ぼくの心は、そこにはなかった。両親は、何か会話をしていたようだったが、その言葉は、ぼくには届いていなかった。
早々に食事を終えると、自分の部屋に帰り、彼女のことを考えていた。別れ際に彼女が見せたあの表情の意味が、ぼくには、痛いくらいにわかっていた。彼女には、ぼくしか、いないんだ。そして、ぼくにも、彼女しかいない。
階下から、風呂が沸いたという母親の声が、聞こえてきた。風呂なんて、その時のぼくには、どうでもよかったんだけど、日常のルーチンに体が勝手に反応して、風呂場へと向かっていた。
風呂に入っている途中、ふとぼくは、夕食に何を食べたんだっけ、なんて考えていた。というか、そもそも夕食を食べたかどうかも、定かな記憶がなかった。こういうのは、恋愛性アルツハイマー症とでも、言うべきなんだろうか。とにかく、その日のぼくは、夢うつつといった状態だった。
夜が更けて、ベッドの中に潜り込んでもまだ、ぼくの胸の中には、彼女の「好き」という言葉が、こだましていた。