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志織  作者: 越智千尋
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第10章

 二人で話し合った、あの日以後も、ぼくらは、毎日、会っていた。あの海の見える丘の上で、他愛もない話をしたり、図書館で一緒に勉強したり、時には、二人一緒に古本屋を訪ねたりした。もしも、あの日々をやり直すことができるなら、ぼくは、どんな要求にも応じただろう。

 ぼくは、何も気づいていなかった。彼女の様子が少しずつ、変わっていたのも。時折、彼女の目を彩る悲しみや、二人で過ごす時間をいとおしむ様な素振りにさえも。ぼくは、まるでさえない道化の様に、何も気づいていなかった。

 彼女は、いつも、未来は、まだ、はっきりとは見えていない、と言っていたけれど、実は、ある時期から、見えていたんだ。ただ、それをぼくに伝えることが、できなかったんだと思う。そんな彼女の決断が、ぼくには、悲しく、そして、つらい。

 ぼくには、わかっている。彼女には、そう決断するしかなかった。彼女のそばにいたぼくには、痛いほどに、よくわかる。だからこそ、ぼくは、悔やむ。なぜ、あの時、気づけなかったのか、と。もしも、気づいていれば、ひょっとしたら、別の未来があったんじゃないか。それが、どんな未来だっていい。別の結末を、ぼくら二人の人生に、書き加えることが、できるものならば。

 忘れもしない、八月十三日のことだった。役所の仕事も休みになった母親が、山籠りをしている父親の所へ行くといって、朝から出かけた。帰りは、翌々日の夕方になると言っていた。

 ぼくは、母親を見送った後、彼女と会うために、家を出た。その日、彼女は、二人で買い物がしたいと言っていた。それで、ぼくらは、電車に乗って、街の繁華街へと向かった。

 ぼくのような人間には、普段、全く縁のない場所なので、何をどうしたらいいのか、よくわからなかったけど、彼女と一緒なら、どんな場所でも、かまわなかった。

 学校のある駅をやり過ごして、三つ目の駅で、電車を降りた。その辺りは、この地方都市の中心で、駅前には、この街で、たった一つの予備校がある。何人か、見覚えのあるウチの学校の生徒とすれ違ったけど、彼らの多くは、その予備校の入口へと、入って行った。

 ぼくらは、そんな受験戦士の群れとは別に、デパートやゲームセンターで賑わう一角へと向かった。ぼくと同じで、こうした賑やかな場所に縁のない彼女は、人の目を見ないように、ふし目がちだが、好奇心いっぱいの様子で、視線を走らせていた。彼女は、ぼくの手を引いて、いくつかの店へ入って行った。そのどれもが、男物の服を売っている店で、彼女は、気になる服が見つかると、すぐにぼくの肩にその服を合わせて、はしゃいでいた。

「ねえ、きっと啓一君には、この服が似合うよ。でも、こっちの服も、素敵だな」

「ねえ、ぼくは、あんまりファッションとか、興味ないんだけど。服なんて、寒さをしのげれば、それでいいし、志織の服を見に行こうよ」

「私は、いいよ。啓一君の服の方が先。啓一君って、自分では気づいていないと思うけど、結構、イケメンなんだから、服一つでも、ずいぶん印象が変わると思うよ」

「でもねえ、中身をほったらかして、外面ばかり飾るのは、何か、サルみたいだよ」

 彼女は、そう言うぼくを、穏やかな微笑みで見つめながら、言った。

「啓一君には、中身だって、十分過ぎるほどあるよ。文学に詳しいし、嘘をつかない。いつだってまっすぐで、人の目を気にしない勇気だってある。それに、私が、今まで出会った誰よりも、優しい」

 ぼくは、正直、彼女のそんな言葉に、照れてしまった。

「そりゃ、買いかぶり過ぎだよ」

 そう言って、店を出ようとするぼくを、彼女は、なおも押しとどめて、服を探し続けた。

 本以外の物には、お金をかけない主義のぼくは、彼女が服を選んで持ってくる度に、値札をチェックしていた。そして、その金で買える本の量を考えた。ぼくの場合、ドルやユーロに換算するより、本の値打ちで考えた方が、価値を測りやすい。

 その結果、彼女の選ぶ服はすべて、拒否の対象となった。

「ねえ、啓一君、私に、何か、プレゼントさせてよ」

 ぼくの目から、ぼくの考えを読み取って、彼女は言った。

「それなら、さっき通り過ぎた所に、アクセサリー店があったから、そこで、何か、もっと安い物を買おうよ」

「わかった。じゃあ、そこで何か啓一君にプレゼントを選ぶよ。約束ね」

 彼女は、ぼくの決心の強さが分かるから、あえて、無理強いはしなかった。

 ぼくらは、店を出ると、アクセサリー店に向かった。

 その店は、そんなに大きくはなく、値段も、高校生のぼくらにも、手の届くレベルだった。そこで、ぼくらは、ペンダントや指輪を見て回った。正直、そんな物に、ぼくは、まったく興味はなかったんだけど、彼女の気持ちを踏みにじることはできなかった。

 そうやって、あれこれと探し続けるうちに、彼女は、指輪のコーナーで、何か見つけた。

「ねえ、これなんてどうかな?」

 彼女は、そう言って、ひと組の指輪を手に取った。

 それは、カップル専用の指輪らしく、二つの指輪が、セットになっていた。その周りにも、対になった指輪が並んでいる。お互い相手のために金を使いたがっているカップルから、できる限り金を絞り取ろうとする、お店の仕掛けたトラップコーナーのようだ。

「そんなこと、考えてないで、コレ、見てみて」

 ぼくの考えを、いち早く読み取った彼女が、言った。ぼくは、彼女の差し出す指輪を見た。その二組の指輪には、次のような小さな文字が、刻まれていた。


 隻手音聲


 ぼくには、その意味は、よくわからなかった。でも、彼女は、とても気に入ったようだった。ぼくには、彼女の笑顔を曇らせるような趣味はない。値段も手頃だったので、それで手を打つことにした。

 お互い金を出し合って、お目当ての物を手に入れると、ぼくらは、店を出た。指輪の交換の儀式は、別の場所で行うことにした。というのも、店の中で、そんなことを始めたら、晒し者になることは、請け合いだったし、どこか静かな場所で、二人きりで、やりたかった。

 時刻は、すでに一時を回っていた。彼女は、指輪の交換を、彼女の家の近くの、あの丘の上でやりたがった。ただ、その前に、先ほどから、ぼくらの胃袋が、待遇改善の要求をしていた。そんな時、彼女は、いつか二人が初めてのキスをした、あの海が見たいと言い出した。

 そこで、ぼくらは、胃袋伯爵に今しばしの猶予を願い出て、電車に乗って、古本屋の近くの定食屋へと向かった。

 遅めの昼食を済ませると、そこから、海へ向かった。彼女は、何か考え事をしているような感じで、黙って海を見ていた。話しかけると、ぼくを振り返って、穏やかだが、寂しそうな笑顔で、

「うん」

 とか、

「そうだね」

 といった相槌を打つだけだった。

 いつもと違うそんな彼女の様子にぼくは、戸惑っていた。

 しばらく海を見た後、また電車に乗って、あの丘の上へと向かった。丘に着いた頃には、四時をはるかに回っていて、その時になって、ようやく、ぼくらは、アクセサリー店で買った指輪を取り出した。ぼくらが、お互いのために、初めて買ったプレゼントは、銀色に光っていた。ぼくは、彼女の指に、彼女は、ぼくの指に、その指輪をはめた。

 彼女は、指輪をはめた手を、自分の目の前にかざして、眩しそうに見ていた。

「ありがとう、啓一君。私、この指輪、大事にするね」

 そう言って、彼女は、ぼくを見た。

「ぼくも、大事にするよ。だってさ、女の子にプレゼントするのも、されるのも、初めてだからね」

 答えるぼくに、彼女は微笑みを返した。

 不思議だった。今まで、こういうプレゼントなんて、ただのモノにしか過ぎないって思っていたけど、彼女からもらった指輪は、何か特別なものに見えた。まるで、この指輪を通して、ぼくと彼女が繋がっているような感じだった。元素番号で語られるだけの金属の塊。でもこの指輪は、魔法でもかかっているように、ぼくの心に働きかけていた。

 西へと傾いて行く陽の光を受けながら、ぼくらは、海を見ていた。海の青の中に、白い波のしぶきが、岸辺へと打ちよせ、かすかな潮騒のメロディーを響かせていた。波の調べは、岸に打ちつけられて消えても、絶えることなく、次から次へと生まれては、消えていった。

 きっと、人類が、この地球上に誕生してから、数え切れないほどの恋が生れ、そして消えていったんだろう。ぼくらの愛も、そのひとつにしか、過ぎないのかも知れない。

 でも、はかなく消えていく虹にも、その輝きが、あるように、ぼくらのこの恋にも、決して消えることのない永遠の輝きがある。ぼくは、そんな風に感じていた。

 彼女が、ぼくのそばに、こうしている、ただそれだけのことが、ぼくの勇気になり、ぼくの力となり、ぼくという存在に意味を与えている。この瞬間は、この暖かい胸の輝きは、きっと誰にも消すことのできない永遠の光だ。優しい時間に抱かれて、ぼくは、彼女の温もりに心を預けていた。

 不意に彼女が、立ち上がって言った。

「そろそろ帰ろうか」

 気がつくと、太陽は、西の地平に手が届きそうなところまで、来ていた。ぼくも、立ち上がった。

「そうだね。あんまり遅くなっても、いけないからね」

 その時、彼女が、ぼくの胸に体を預けてきた。ぼくは、そんな彼女が愛おしくって、静かに彼女の体を抱きしめた。そして、ぼくらは、何度目かのキスをした。彼女の唇やぼくの顔にかかる彼女の息が、ぼくの生きる鼓動になった。

 どれくらいの間、そうしていたのだろう。ぼくらは、どちらからともなく、手をつないで駅までの道をたどり始めた。

 駅に着くと、彼女は、ホームまで付いてきた。電車を待つ間も、ぼくは、彼女の手を通して伝わってくる温もりに包まれていた。

「明日は、何時にする?」

 問いかけるぼくに、彼女は、答えた。

「どうしよう。明日の朝、電話で決めてもいいかな?」

「いいよ。じゃあ、電話、待ってるね」

 電車が、ホームへ滑り込んできた。

 扉が閉まって、電車が動き始めても、彼女は、ぼくを見ていた。ぼくも、彼女を見ていた。重ね合わせたその瞳に、彼女が優しい嘘を隠していたことを、ぼくは、この時、知らなかった。ぼくは、何も分かっていなかった。彼女の決意も。彼女の覚悟も。彼女の小さな胸に隠された思いも。

 なぜ、あの時ぼくは、何も気づけなかったのだろう。その日、ぼくらが回ったのは、二人の思い出の場所ばかりだ。まるで別れ際のカップルが、二人で築いた思い出を、もう一度振り返るように。なぜ、ぼくは、そんなことにも、気付けなかったんだろう。

 ぼくは、未来を変えるたった一つのチャンスを、こんな風に、何も知らずに見過ごしてしまった。

 その夜、ぼくは、家に一人で過ごしていた。

 母親は、山籠りしている父親の所へ行っている。父親の専門は、法律学だ。自然科学系なら実験設備が必要だろう。でも、法律学の場合、実験の必要なんてない。だから、研究にあたって、大学の施設を使う必要なんてないんだ。そんな理由で、父親は、夏になると、短期の世捨て人になって、研究に打ち込む。母親も、そんなことには慣れっこで、ごく当たり前のように、それを受け入れている。

 ぼくたち家族にとって、夏に、父親が、いないことは当たり前のことで、むしろ、父親がいる方が違和感がある。

 ただ、母親は、毎年、父親の様子を見に行くため、家を空けることがある。そんな時は、ぼくは、いつも独りで過ごしている。言うまでもないことだが、ぼくは、料理ができない。したがって、母親が留守の間は、買い置きのインスタントラーメンを作るか、コンビニ弁当で食事を済ませている。

 その日は、夕方、彼女と別れてから、帰りに近所のコンビニで弁当を買ってきて、それで夕食を済ませていた。

 食事が終ると、ぼくは、自分の部屋に戻って、勉強を始めた。彼女と出会ってから、ぼくは、本当に変わった。以前のぼくなら、こうして、机の前に座って勉強しているヤツには、軽蔑しか感じなかっただろう。ぼくらの周りには、教科書や参考書なんかよりも、広い世界がある。その世界を見ようともしないで、つまらない数式や歴史の年号の暗記におぼれている連中の気が知れなかった。

 でも、彼女と出会って、ぼくは変わった。彼女が、ぼくのことを見ていてくれる。心配していてくれる。将来のこととか、ぼくには、あまりにも、ぼんやりとしか見えなくて、夢や希望を語るには、この世の中は、あまりにも、嘘や偽りであふれている。そんな風にしか、思っていなかった。

 でも、ぼくは、出会ってしまったんだ。確かなものに。彼女が、そばにいてくれる、ただそれだけのことが、こんなにも、ぼくの心を揺り動かすなんて。以前のぼくなら、そんなこと、思いもしなかっただろう。

 そして、ぼくは思った。こんなにも、ぼくを変えてくれる彼女の、ぼくは、一体、何なんだろうか。彼女は、学年でも、トップクラスの秀才で、もし、彼女が望みさえすれば、彼女には、どんな扉も開かれただろう。でも、その扉は、劣等生には、開かれていない。その扉を入るには、成績というパスポートが必要だ。彼女の可能性をつぶすことなく、彼女の隣を歩くためには、ぼくは、彼女にふさわしい男にならなければならない。

 ぼくは、これからも、彼女と一緒にいたい。彼女の隣を歩いていたい。だから、今、ぼくは、頑張らなきゃならない。そうした思いが、ぼくの背中を押していた。

 ふと、勉強の手を休めて、自分の手を見た。そこには、昼間、彼女と二人で買った指輪が光っていた。

 それは、ぼくと彼女の間をつなぐ絆。ぼくたちの愛の証。彼女から贈られたという、ただそのことが、たった一つの指輪を、こんなにも輝かせていた。それは、彼女が、ぼくに、くれた輝きだ。

 こんなにも、ぼくの心を染め上げている、彼女の存在。いつか、彼女が、ぼくにとってそうであるように、ぼくは、彼女の心の中に輝く星になれるだろうか。大切な彼女の、同じように大切な人になりたい。その思いが、ぼくを支えていた。

 十二時を回って、一通りの勉強を終え、ベッドに横になって、ウトウトしている時、彼女の声が聞こえたような気がした。いや、ハッキリと彼女の声が聞こえた。

「啓一君、啓一君」

 一瞬、幻聴か、とも思った。だが、ハッキリ聞こえる。その声は、ぼくの頭の中に直接届いているようだった。か細く、弱弱しい声で、彼女が、ぼくを呼んでいた。

 ぼくは、ベッドの上に飛び起きて、もう一度、耳を澄ませた。確かに、彼女の声が、聞こえた。耳からじゃない。心に呼びかける声だ。ただ事ではない声だ。

 ぼくには、彼女の姿さえ見えた。彼女は、あの海の見える丘の上で、苦しんでいた。ぼくは、時計を見た。一時を回ったところだった。もう、電車は動いていない。ぼくは、部屋を飛び出した。行先は、決まっている。

 まともな人間なら、バカげた話だと、笑い飛ばしてしまうかも知れない。きっと翌日には、笑い話の一つになるさ。そんな風に、思うはずだ。でも、その時のぼくには、確信があった。これは、幻なんかじゃない。彼女は、今、苦しんでいて、ぼくの助けを求めている。

 家を出ると、庭に置いてある自転車に飛び乗った。深夜の街を、必死にペダルを回して駆け抜けた。その間も、彼女の声は、聞こえていたけど、次第に、その声は、弱く、そして、か細くなっていった。夜の空気を切り裂いて、ぼくは、彼女のもとへと急いだ。でも、ぼくの意思に反して、足は重さを増していった。それでも、懸命にペダルをこぐ。

 彼女が、待っている。彼女が、助けを求めている。急がなくちゃいけない。誰もいない真っ暗な道を、風を切って進む自転車のスピードが、それでも、ぼくには、遅いと感じられた。足元さえ、よく見えない夜の闇の中で、ぼくは、何度も転んだ。その度に、すぐに起き上がって、自転車を走らせた。

 何度、そうして転んだのか、覚えていない。やっとの思いで丘の麓にたどり着くと、ぼくは、自転車を乗り捨てて、丘の上へと続く小さな道を上りはじめた。覆いかぶさるように生えた木々の枝を押しのけて、ただひたすら上を目指した。

 丘の上にたどり着くと、彼女は、そこに倒れこんでいた。黒の長袖のシャツに、同じく黒のズボンを身に着けた彼女を、淡い月明りが照らし出していた。

「志織ぃー」

 ぼくは、彼女の名前を呼びながら、走った。

 彼女のところにたどり着くと、ぼくは、彼女の体を腕の中に抱きかかえながら、起こそうとした。彼女の体には、力がなかった。彼女は、ぼくの顔を見ると、悲しげな微笑みを浮かべた。

「来てくれたんだ。ごめんね、こんな夜遅くに」

 彼女の顔には、生気がなかった。

「しっかりしろ、志織。どうした? 何があったんだ?」

「私、ずっと、ずっと、啓一君と一緒にいたかった。だから、私、頑張ったんだよ。でも、だめだったみたい」

 彼女の体に回した手に、何かヌルっとした感触を感じた。見ると、それは血だった。目を凝らすと、彼女の腹から、血が、あふれ出ていた。ぼくは、何が、何だか、わからなくなった。でも、彼女が、今、危険な状態にあることだけは、確かだった。

「どうしたんだよ、コレ? 何があったんだ? ちょっと待って、今、救急車を呼ぶから」

 ポケットから、携帯を取り出そうとするぼくの手を、志織が押さえた。

「ごめんなさい。でも、もう間に合わないの。私、ここで、死んじゃうの」

「何、言ってるんだよ。死ぬわけないだろ。だって、ぼくたち、まだ出会ったばかりだぞ。これから、ぼくたち、二人で、もっと色んなところ、行くんだろ。ずっと一緒にいるんだろ。こんなとこで、志織が、死ぬわけないよ」

「ごめんなさい。私、啓一君に嘘をついてた。本当は、私には、見えてたの、未来のことが。でも、言えなかったの、啓一君が、死んでしまうだなんて」

 ぼくは、混乱していた。ぼくは、こうして生きている。何も、起きてなんかいない。ぼくは、平気だ。今、死のうとしているのは、彼女の方じゃないか。

「何、言ってるんだよ。ぼくは、何ともないよ。今、ヤバいのは、志織の方だろ」

「本当はね、今日、死ぬはずだったのは、私じゃなくて、啓一君の方だったの。でも、私、啓一君を死なせたくなかった。だから、未来を変えようとしたの。でも、私、欲張りすぎちゃったのかな。未来を変えることは、できたの。でもね、私たちが、結ばれないという運命までは、変えられなかった。啓一君が死ぬ未来は、変わった。でも、この変わってしまった未来の中では、私が、死んじゃうの。私、もう助からないの」

 彼女は、それから、途切れ、途切れに語りはじめた。ここ数日、彼女の予知能力は、今までにないほどに研ぎ澄まされてきた。そして、彼女は、見てしまったんだ。ぼくが、今日、死ぬということを。ぼくだけじゃない。この街の多くの人の命が、今日、失われるはずだった。

 今日、起きるはずだったのは、この街のはずれにある原子力発電所を舞台にしたテロだったんだ。三十八度線の北にあるイカれた独裁国家が、仕掛けたテロだった。この街の原発は、今は稼動していない。でも、燃料棒は、原子炉に入ったままだ。そして、原発が、稼動していない今は、警備も、手薄になっている。そこを狙ったテロだった。

 彼女の目には、それが、見えてしまった。でも、予知能力なんて、誰も信じてはくれない。だから、彼女は、一人で決めた。そのテロリストと戦おうと。

 ぼく一人だけを助けるのなら、戦う必要なんて、なかっただろう。ぼくだけを、今晩一晩、街の外に連れ出せばよかったんだから。でも、彼女は、ぼくと暮らしたこの街も、守ろうとしたんだ。この街には、彼女にとって、いい思い出はない。それでも、彼女は、この街を守ろうとした。そこが、ぼくたち二人が暮らした街だったから。

 素人が、プロのテロリストを相手に、戦って、勝つ可能性は、ゼロに近い。でも、彼女には、超能力があった。特に、この数日、彼女の予知能力は、以前とは比べ物にならないほど、強くなっていた。だから、彼女は、可能性に賭けた。

 おそらく、テロリストたちも、驚いただろう。無防備なはずの原発の中に、敵が、潜んでいたのだから。しかも、敵は、たった一人で、まるで、彼らの行動をすべて予測しているかのように、打つ手すべて裏をかかれて、追い詰められたのだから。

 彼女は、ひそかに手に入れたサバイバルナイフで、彼らに立ち向かった。一人ひとりと敵を倒し、最後の敵を討ち果たす時に、銃弾を受けてしまったんだ。彼女は、すべてを終えた後、未来を見た。そこには、無事に生き延びて、暮らしているぼくの姿があった。でも、同時に、彼女は、見てしまったんだ。腹部に受けた銃弾がもとで、死んで行く自分の姿も。

 彼女は、その場に崩れ落ちながらも、祈っていた。ぼくと多くの時間を過ごした、この丘をもう一度見たいと。そして、心の中で、ぼくに呼び掛けていた。それが、彼女の隠されていた力だったのか、それとも、別の何かの意思だったのかは、彼女にも、わからない。気がつくと彼女は、この丘の上に倒れていた。

 一体、彼女は、どれほどの勇気を絞り出していたんだろう。高校生の女の子が、たった一人ぼっちで、テロリストに戦いを挑むなんて。一体、どれほどの不安を抱えて、戦っていたんだろう。彼女が、一人ぼっちで戦っている間、ぼくは、何も知らずに、どうでもいい日常を送っていた。そのことが悔しくて、悔しくてならなかった。

「どうして、どうして黙っていたんだ。なんで、言ってくれなかったんだ。志織、ぼくたちは、いつだって、二人一緒のはずだろ」

「啓一君を、危険な目に遭わせたくなかった。だって、私が見たのは、啓一君が死んでしまう未来だったから。私、啓一君に会えてよかった。こんな私のことを気遣ってくれて、いつも一緒にいてくれた。こんな私のことを愛してくれた。啓一君の気持ちは、知ってるよ。その気持ちに、ひとつの嘘もないことも。ありがとう、啓一君」

「何、言ってるんだよ、志織。どうして、そんな余計な事をしたんだよ。志織を死なせるくらいなら、ぼくが、死ぬよ。志織のためなら、ぼくは、命なんていらないよ。なあ、志織、どういうことなんだよ、コレは。志織のいない世界で、ぼくに、どうやって生きて行けって言うんだよ。わかるんだろ、ぼくの気持ちが。だったら、なんで、そのぼくの気持ちを踏みにじるようなことするんだよ。志織のためなら、ぼくは、何べんだって、死んでもいいよ。地獄の底にだって、行ってもいいよ。でも、志織のいない世界で生きていくのだけは、イヤなんだよ」

 ぼくの目は、とめどない涙で曇って、声も、言葉になっていなかったかも知れない。でも、彼女には、伝わっていたはずだ。ぼくの心が。ぼくのあふれ出る思いが。

 彼女は、ぼくの顔を見て、穏やかに笑っていた。まるで、この世に思い残すことは何もないと言っているように。

「啓一君は、私の光。私のことを導いてくれた。啓一君は、私の誇り。啓一君に愛されたことが、私の生涯でたった一つの誇り。だから、お願い、啓一君は生きて」

 ぼくの声は、もう、言葉にはならなかった。

「何でだよ、志織」

 かろうじて、その一言だけを、心の底から振り絞った。

「ねえ、啓一君。私が、死んだら、ここに埋めて。私、啓一君と過ごしたこの丘で、眠りたい」

 とめどない涙が、ぼくの心も、声も、濡らしていた。声を出そうとしても、喉の奥から漏れてくるのは、何かが唸る様な、低い音だけだった。自分が、息を吐いているのか、吸っているのかも、わからないほどに、呼吸が乱れた。

「ねえ、啓一君。最後に、一つだけ約束して」

 彼女は、消え入るような声で言った。その声にこもった死の響きは、ぼくから、力を奪っていった。

「啓一君、私のことは忘れて。きっと、啓一君なら、素敵な人と出会えるから。だから、私のことは忘れて、幸せになって」

 この世の中で、もっとも残酷な言葉を一つだけ選べと言われたら、ぼくは、この時の彼女の言葉を挙げるだろう。ぼくが、もっとも彼女の口から聞きたくなかった言葉だった。

「できるわけ、ないだろう、そんなこと」

 不意に彼女の体が、重くなった。彼女の体から、力という力が抜けおちて、ぼくの手の中から、その体が、こぼれおちてゆくようだった。手のひらの間から、思い出のカケラが、こぼれおちていくのを止めるように、ぼくは、彼女の体を強く抱きしめて、何度も、何度も、彼女の名前を呼んだ。何度も、何度も

「しっかりしろ」

 と叫び続けていた。彼女の体は、それでも、まだ温かくって、抱きしめると、温もりが伝わってきた。でも、彼女の口から、返事を聞くことはできなかった。

 ガクンとうなだれた首は、ぼくが、彼女の体を揺する度に、上に下に、右に左に動くだけで、彼女の体からは、あらゆる命のかけらが失われていた。それでも、ぼくは、彼女の顔をのぞき込んで、何度も、何度も、彼女の名前を呼んだ。彼女の頬に雫となって落ちていたのは、きっと、ぼくの涙だったんだろう。

 もしも、ぼくが、おとぎ話の王子様なら、たった一つのキスで、彼女を眠りから呼び覚ますことができただろう。でも、何度、彼女の唇に触れても、彼女の目が開くことは、なかった。

 彼女の髪は、生きている時と同じように、かすかな香りがした。彼女の頬は、生きている時と同じように、柔らかで温かかった。なのに、彼女の命だけが、そこにない。どうして、そんなことが、信じられるだろう。

 ぼくは、彼女の手を取って、その指を握った。だが、その指は、何の思いも持たないものの様に、ぼくの手の中から滑り落ちた。

 何も、変わってはいなかった。彼女の唇も、鼻も、折れてしまいそうに細い体も。でも、そこには、呼吸がなかった。鼓動がなかった。声もなかった。命がなかった。ぼくは、何度も何度も彼女を抱きしめ、頬を合わせ、口づけをした。でも、彼女の中に、命の灯がともることはなかった。

 もしも、彼女が、生きてさえいてくれるなら、もしも、彼女が、もう一度、あのはにかんだような微笑みを返してくれるなら、他には、何もいらない。ぼくのこの手も、指も、バラバラに引きちぎれて、地獄の釜の底に落とされたって構わない。ぼくの心臓を胸の中から取り出して、ズタズタに引き裂いて、豚の餌にされても構わない。ぼくの生きるすべてを、今、ここで、捨ててしまっても構わない。

 ぼくが、この世界の中で求めるものは、ひとつだけだった。彼女さえいれば、それでよかった。他には、何一ついらなかった。

 どれだけの間、ぼくは、そうしていたんだろうか。ぼくの頭は、考えることをやめていたけど、ぼくの体は、自然に動いていた。

 麓の公園へ下りると、公園管理用の倉庫の鍵を壊して、中から、シャベルを取り出した。そして、丘の上に戻ると、そこに、穴を掘り始めた。穴を掘りながら、何度も、何度も、横たわる彼女を見た。その時になっても、まだ、ぼくには、信じられなかった。そこに命がないなんて。そこにはもう、ぼくたちが、笑いあえる明日がないなんて。

 穴を掘り終わると、彼女の体を、そこに横たえた。彼女の体は、まだ温かくて、眠っているようにも見えた。彼女の体の上に、土をかけながら、ぼくは、何度も、何度も、泣いた。何度も、何度も、叫んだ。その度に、シャベルを持つ手が止まって、その場に崩れ落ちた。そして、その度ごとに、ありったけの勇気を振り絞って、立ち上がり、彼女の上に土をかけた。彼女を葬りながら、何度も、何度も、嗚咽の嵐に包まれた。

 信じたくなかった。彼女にだけは、ずっと、ずっと、笑っていてほしかった。ずっと、ずっと、生きていてほしかった。届かない願いだけが、まばゆい星の空に昇っては、消えていった。やがて、朝日が、丘の上を染め始めても、ぼくは、そこで泣き濡れていた。

 あの夜から、いくつの夜を数えただろう。でも、どれほどの時を重ねても、ぼくの悲しみは、薄れはしなかった。夏休みの間は、父親がいなかったので、ぼくの異常に気づいていたのは、母親だけだった。でも、基本、放任主義の我が家では、うるさく詮索されることもなかった。ぼくの心は、人形のように虚ろになっていた。

 いっそ、自分が、自動人形にでもなってくれれば、どんなに楽だっただろう。そうすれば、勝手に体が、日々のルーチンを片付けてくれる。何も、考える必要がない。いや、ぼくは、考えてすら、いなかった。心の中に、何か大きな塊があって、そこに気力とか、元気というものが、すべて吸い込まれていくようだった。

 彼女が、ぼくの代わりに死んだということが、ぼくの胸を責め続けていた。自分さえいなければ、彼女は、今も生きていて、この世界のどこかで、笑って過ごしていたかも知れない。その事実が、ぼくの心を、情け容赦なく、切り刻んでいた。

 死という問題は、それが、遠くにある間は、まったく意識しないものだけど、いざ身近な人が死んでしまうと、どうにもならないやるせなさの中に、人を閉じ込めてしまうらしい。

 原子力発電所の襲撃は、報道管制でも敷かれていたのか、ニュースでは、全く取り上げられなかった。でも、ぼくは、別の手掛かりとなるニュースに、気づいていた。事件の翌日、電力会社の社員の乗ったバスが、事故に遭い、全員が、死亡したと、テレビで言っていた。

 こうして、事実は、闇の中へと葬り去られていくのかも知れない。もしも、原子力発電所が襲撃されたとなれば、社会の混乱は、避けられない。国民をパニックに陥れないため、という大義名分が、あったんだろう。ぼくたちの住むこの社会は、一体、どれだけの嘘で構成されているんだろうか。いくつもの嘘と偽りの上に成り立つ、あやういバベルの塔。それが、ぼくたちの住む、この世界の秩序だ。

 でも、ぼくたちは、それを知らず、この世界に、確かな何かがあると信じて、日々を過ごしている。

 死の翼は、ぼくたちの知らないところで、常に羽ばたいている。ただそれを、ぼくたちが知らないだけなのかも知れない。あの日、志織という名の一人の女の子が、この街を救った。でも、誰も、そんなことは知らない。彼女は、誰にも知られることなく戦い、そして、死んでいった。彼女の戦いも、彼女の愛も、ただ、ぼくの胸の内にだけ、存在する。ぼくの思い出の中だけに、輝く星になって。

 夏休みが終わって、学校が始まると、彼女は、行方不明として、処理された。ぼくと彼女との関係は、クラス全員が知っていたから、ぼくは、担任から呼び出されて、事情を聞かれた。何も知らないと言い張るぼくを、担任は、深く追及しなかった。

 クラスの誰もが、ぼくを避けていた。あるいは、どう接していいのか、わからなかったのかも知れない。ただ、上田たちのグループは、明らかに嬉しそうだった。彼らにとって、障害となるぼくらの存在が、夏休みを境に、突然消えたのだから、無理もないだろう。

 彼らが、教室の中でかたまって、時折、ぼくの方に目をやりながら、笑っているのを何回も見た。ぼくは、怒ればよかったんだろうか、それとも、泣けばよかったんだろうか。

 でも、ぼくは、そのどちらも、しなかった。ぼくにとっては、そのどれもが、どうでもいいことだった。こぼれたミルクは、もう二度とコップの中には戻らない。死んでしまった彼女は、もう二度と帰ってこないんだ。

 やがて、実力テストが終わり、進路指導の時期が来た。ぼくの成績は、夏休みの前半彼女と勉強したおかげで、奇跡的な結果を出していた。そのぼくの成績を見て、担任は、ためらいがちに、この成績なら、かなり上位の大学も狙えると言っていた。

「よく頑張ったな」

 そうねぎらう担任を見ながら、ぼくは、ぼんやりと考えていた。

 コイツは、何を言っているんだろう。かなり上位の大学だって。そんなものに何の意味があるというんだろう。地位も名誉も、あるいは、財産だって、そんなものには、何の意味もない。ぼくに必要なのは、彼女だけだ。彼女のいない世界で、何を手に入れたとしても、そんなものには、道に落ちている石ころほどの価値もない。

 彼女の死とともに、ぼくの心も、死んでしまった。そして、時間だけが、ぼくの前を通り過ぎて行った。

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