第三話:私のメイドに何をしているの?
「……何者ですか」
静まり返った廊下に、セレナの声が落ちた。
深夜。
グランヴェルト大公爵家の屋敷は、すっかり眠りについていた。
窓の外には月が浮かび、等間隔に並べられた魔導灯だけが、長い廊下を淡く照らしている。
使用人たちはすでに自室へ戻り、夜番の騎士だけが決められた経路を巡回している時間だった。
いつもと変わらない夜。
少なくとも。
普通の人間が見れば、そう思っただろう。
セレナ自身も、自室へ戻る途中まではそう思っていた。
音が聞こえたわけではない。
魔力を感じたわけでもない。
ましてや、明確な殺気を向けられたわけでもなかった。
ただ一つ。
(……静かすぎる)
それだけだった。
どれほど静まり返った屋敷であっても、人が生活している以上、完全な無音になることなどあり得ない。
遠くを歩く騎士の足音。
眠っている使用人たちの僅かな気配。
庭の木々を揺らす風。
屋根の上を走る小動物。
そうした無数の小さな存在が、意識するまでもなく一つの景色として混ざっている。
しかし。
その景色の中に。
一か所だけ、不自然な空白があった。
気配がない。
というより。
そこに存在している何かが、自分自身の気配だけでなく、周囲にあるはずの細かな気配までまとめて削り取っている。
(……いる)
セレナの紫水晶のような瞳が、僅かに細められた。
冒険者だった頃。
何度か、似た感覚を経験したことがある。
暗殺者。
高位の魔物。
気配遮断を得意とする魔物。
隠れることに長けた存在ほど、時として自分の気配を消しすぎる。
普通なら。
何も感じない。
だが。
死線を潜り抜け続けた者にとっては、その「何もなさすぎる」という違和感そのものが警告になる。
そうした小さな異常を拾い続けてきたからこそ、セレナはSランクまで生き残った。
そして。
その不自然な空白の先には――シエラの寝室がある。
「…………」
白い指が、腰に佩いた細身の剣へ添えられた。
「もう一度だけ聞きます。何者ですか」
返事はない。
だが。
それで十分だった。
こちらに気づいていないのではない。
答える必要がないと思っている。
セレナはそう判断した。
「……なるほど」
次の瞬間。
――シャリン。
澄んだ金属音が、深夜の屋敷に一度だけ響いた。
鞘から抜かれた細身の剣が、月明かりを受けて冷たく輝く。
腰よりも長い紫銀色の髪。
黒、白、紫を基調とした華やかなメイド服。
細かなフリルとリボン。
普段の彼女だけを見れば、名門大公爵家に仕える美しい侍女にしか見えない。
しかし。
剣を抜いた瞬間。
その印象は完全に消えた。
そこに立っているのは。
幾度となく死線を越えてきた、元Sランク冒険者だった。
「ここから先は、お嬢様のお部屋です」
一歩。
セレナが前へ出る。
「理由を聞く必要もありませんね」
その直後。
空気が僅かに揺れた。
「――っ!」
セレナの身体が、横へ滑るように移動する。
ほんの一瞬前まで首があった位置を、黒い何かが通過した。
直後。
背後の壁に細い亀裂が走る。
(速い)
音すらほとんど聞こえなかった。
斬撃。
あるいは、それに類する何か。
だが。
セレナはすでに反撃へ移っている。
床を蹴り。
最短距離で相手の喉を狙う。
何も存在しなかったはずの空間へ、細剣が突き込まれる。
――キィン!
火花が散った。
金属同士がぶつかる澄んだ音。
そして。
初めて。
侵入者の姿が現れた。
黒い外套を纏い、顔の大半を隠した男だった。
外見だけなら。
人間に見える。
「ほう」
男が初めて声を発した。
「気づいただけではなく、反応するか」
「ご期待に添えたようで何よりです」
セレナは細剣を構え直した。
力んでいるようには見えない。
だが。
どの方向から攻め込まれても、即座に対応できる姿勢だった。
(強い)
最初の一撃は。
見えていたわけではない。
僅かな空気の変化。
経験。
直感。
それらを総動員して避けただけだ。
普通の暗殺者ではない。
「退け」
男が言った。
「用があるのは貴様ではない」
「奇遇ですね」
セレナの口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「私もあなたには何の用もありません」
剣先を向ける。
「ですが、お嬢様に用があるというのでしたら――話は別です」
「命を捨てるつもりか」
「まさか」
即答だった。
「殺されるつもりで戦うほど、趣味は悪くありません」
半歩。
前へ。
「あなたを倒すつもりです」
次の瞬間。
二人の姿が。
同時に消えた。
◇
黒刃が振り下ろされる。
セレナは受け止めない。
細剣をほんの僅かに傾け。
触れさせる。
滑らせる。
軌道を逸らす。
まともに受ければ腕ごと持っていかれかねない一撃が、セレナの身体の横を通り過ぎた。
そして。
その瞬間には。
すでに次の攻撃へ移っている。
男の喉へ。
細剣の切っ先が走った。
「――っ」
男が身を捻る。
紙一重。
致命傷こそ避けたものの、頬へ赤い線が走った。
(浅い)
セレナは止まらない。
喉が駄目なら目。
目を避ければ手首。
その動きに合わせて脇腹。
一つ一つの攻撃が独立しているわけではない。
相手がどちらへ避けるかを読み。
その先へ剣を置いていく。
冒険者として積み重ねてきた経験。
対人戦。
魔物との死闘。
護衛。
奇襲。
そのすべてが。
一振りの細剣へ集約されていた。
そして。
剣先が。
男の脇腹へ突き刺さる。
浅い。
だが。
確実に肉へ届いている。
(取った)
剣を抜く。
返す。
次は首。
男が後方へ飛び退く。
細剣の先端が黒い外套を裂いた。
「……なるほど」
男が低く呟いた。
「この星の人間にしては、よくできている」
(この星……?)
一瞬。
その言葉が引っかかった。
この国でも。
この大陸でもなく。
この星。
だが。
考える時間など与えられない。
男が再び地面を蹴った。
今度は。
「っ……!」
速い。
先ほどよりも。
明らかに。
振るわれる黒刃。
セレナは受け流そうとする。
細剣を傾け。
軌道を逸らす。
しかし。
完全には逃がし切れない。
衝撃が。
指先。
手首。
肘。
肩へと駆け抜ける。
(重い……!)
続けて。
男の脚が動いた。
蹴り。
セレナは半歩身を引く。
完全には避けられない。
左腕を添え。
正面から受けることだけは避ける。
それでも。
僅かに触れただけの衝撃で、腕が痺れた。
(まともに受ければ骨ごと砕かれる)
単純な体格差では説明できない。
肉体強化か。
何らかの特殊な力か。
いずれにせよ。
人間の肉体の範疇からは外れている。
数合。
十数合。
剣を交えるほどに。
セレナの中で。
一つの結論が固まっていった。
(……勝てない)
それは。
弱気でも。
諦めでもない。
戦士としての。
冷静な判断だった。
技量だけなら負けていない。
剣の扱い。
読み。
フェイント。
経験。
戦況判断。
むしろ。
こちらが上回っている部分すらある。
だが。
根本となる身体性能が違いすぎる。
力。
速度。
耐久力。
そして。
(傷が……)
先ほど。
確実に脇腹へ剣を入れた。
傷口から血が流れていた。
それなのに。
今はもう。
ほとんど血が止まっている。
いや。
(塞がっている……?)
あり得ない。
人間の回復速度ではなかった。
「何を……したんですか」
「何のことだ」
「その身体です」
男が僅かに笑う。
「人間には理解できん」
「そうですか」
セレナは細剣を握り直した。
左手。
右足。
呼吸。
まだ動く。
「なら、理解する必要もありませんね」
再び。
踏み込んだ。
◇
勝てない。
ならば。
どうする。
答えは簡単だった。
(止める)
この男を。
この場所で。
倒せなくてもいい。
シエラの部屋まで。
行かせなければいい。
それだけだ。
黒刃がセレナの右肩を掠めた。
「っ……!」
布が裂け。
白いフリルへ赤い血が滲む。
だが。
剣は離さない。
次の攻撃が脚を狙う。
避け切れず。
スカートの裾と太腿を浅く裂かれた。
長い紫銀の髪が大きく揺れる。
髪を飾っていた黒と紫のリボンが一つ切れ。
床へ落ちた。
それでも。
セレナの剣先は一度も。
シエラの部屋へ続く道から逸れない。
少しずつ。
完璧に整えられていた彼女の姿が崩れていく。
髪が乱れ。
華やかなメイド服へ裂け目が入り。
白い布地が赤く染まる。
呼吸も荒い。
それでも。
立ち位置だけは。
変わらなかった。
「しつこいな」
男が苛立ったように言った。
「褒め言葉として受け取っておきます」
「既に勝敗はついている」
「そうですね」
セレナは呼吸を整えながら答えた。
勝ってはいない。
それどころか。
明らかに追い詰められている。
だから。
「それが?」
「……何?」
「私があなたに勝てないことと」
細剣を構え直す。
「あなたをここから通すことに、何の関係が?」
男の目が細くなる。
「たかが一人の子供だ」
「…………」
その瞬間。
セレナの顔から。
僅かに残っていた笑みが消えた。
「今、何と?」
「子供一人のために命を捨てるのかと言った」
その言葉を聞いた瞬間。
セレナの脳裏へ。
五年前の記憶が蘇った。
◇
『私に勝てたら、メイドになってあげますよ』
あの日。
深い意味などなかった。
その頃のセレナは。
今のようにフリルやリボンで飾られたメイド服など。
一度も着たことがなかった。
剣。
外套。
最低限の旅装。
それだけで十分だった。
グランヴェルト大公爵。
王国騎士団長。
有名な剣士だということは知っていた。
それでも。
自分はSランク冒険者。
勝つつもりだった。
勝って。
勧誘を断る。
その程度のつもりだった。
だから。
少しばかりの皮肉も込めて言った。
『私に勝てたら、メイドになってあげますよ』
そして。
――負けた。
見事なまでに。
だから。
約束通り。
大公爵家へ来た。
初めて。
慣れないメイド服へ袖を通した。
そして。
少女が生まれた。
とても。
小さかった。
驚くほど。
小さな手。
あまり泣かない。
表情も少ない。
普通の赤子とは。
少し違っていた。
それでも。
眠い時には。
少し不機嫌になる。
甘いものを食べれば。
ほんの僅かに目元が柔らかくなる。
転んでも。
何事もなかったような顔をするくせに。
よく見れば。
少しだけ痛そうにしている。
朝は弱い。
刺繍は嫌い。
父親が騒げば。
露骨に面倒そうな目をする。
髪を整えている最中に注意されれば。
少しだけ不満そうな顔をする。
口数は少ない。
けれど。
見ていれば。
何を考えているのか。
少しくらいは分かるようになった。
そして時折。
五歳の少女とは思えないほど。
遠い目をする。
そんな少女を。
五年間。
毎日。
見てきた。
最初はただ。
勝負に負けた。
約束した。
だから仕える。
それだけだった。
いつから。
それが変わったのか。
セレナ自身にも。
分からない。
◇
「……理由」
セレナは。
小さく息を吐いた。
「そんなもの、今さら考えたこともありません」
細剣を構え直す。
傷ついた身体で。
それでも一歩。
前へ。
「私は、お嬢様のメイドですから」
それだけだった。
「愚かな」
男が。
初めて明確な苛立ちを見せた。
「人間ごときが」
その身体から。
黒い何かが漏れ出す。
「――っ」
セレナの背筋を。
悪寒が走った。
(これは……)
昼間。
王都で感じた。
あの嫌な空気。
シエラが消した。
黒い何か。
それによく似ている。
「退け」
「断ります」
「なら」
男の姿が消えた。
「死ね」
セレナは反応した。
目では追えない。
ならば。
経験で軌道を読む。
細剣を差し込む。
黒刃へ触れる。
逸らす。
――はずだった。
「――っ!」
重い。
先ほどまでとは。
まるで違う。
細剣が大きく弾かれた。
手から離れ。
宙を舞う。
(まずい)
黒刃が胸へ迫る。
避けられない。
セレナは身体を捻り。
致命傷になる位置だけを外した。
――ザシュッ。
「っ……!」
熱。
右脇腹。
今までとは。
比べものにならない深さだった。
白いフリルが。
一瞬で赤く染まる。
直後。
セレナの身体が。
壁へ叩きつけられた。
「か……っ」
肺から空気が抜ける。
膝をつく。
紫銀の長い髪が。
床へ広がる。
乱れた髪。
切れたリボン。
血に染まった服。
それでも。
セレナは顔を上げた。
(立て)
脚が動かない。
「終わりだ」
男が歩いてくる。
(立ちなさい)
少し離れた床に。
細剣が落ちている。
腕を伸ばす。
指先が届かない。
もっと。
(お嬢様が)
さらに伸ばす。
指が柄へ触れる。
(後ろにいる)
握る。
身体を起こす。
脚が震える。
視界も滲んでいる。
それでも。
立った。
男が足を止める。
「……まだ立つのか」
「当然……でしょう」
口元から血が流れる。
それでも。
細剣を構える。
「あなたを……まだ通していませんから」
「もう勝てないぞ」
「知っています」
「なら、なぜだ」
「……先ほど」
セレナは。
傷だらけの顔で。
ほんの少しだけ笑った。
「答えたでしょう?」
剣先を上げる。
もう。
ほとんど力は残っていない。
それでも。
「私は、お嬢様のメイドです」
その時だった。
「……何してるの?」
小さな声。
男の動きが止まる。
セレナの紫の瞳が。
大きく見開かれた。
廊下の奥。
そこに。
一人の少女が立っていた。
淡い桜色の長い髪。
白い寝間着。
裸足。
まだ少しだけ眠そうな。
人形のように整った顔。
「お……嬢様……?」
シエラ・グランヴェルト。
五歳。
セレナが。
命を懸けて守っていた。
その本人だった。
◇
(……何じゃ)
ほんの少し前まで。
シエラは眠っていた。
人間の五歳児というものは。
思っていたよりもよく眠る。
(眠いのう……)
夢と現実の境目。
そんな中。
微かな違和感を感じた。
(……?)
この星には存在しない。
異質な力の揺らぎ。
昼間。
魔獣から感じたものと似ている。
そして。
もう一つ。
(セレナ?)
セレナの魔力が。
激しく乱れている。
急速に。
消耗している。
その瞬間。
眠気が消えた。
(まさか)
ベッドを降りる。
靴を履く時間すら。
惜しかった。
廊下へ出て。
そして。
見つけた。
「…………」
長い紫銀の髪は。
大きく乱れていた。
いつも綺麗に飾られている黒と紫のリボンは。
一つ千切れ。
床へ落ちている。
白かったフリルには血。
華やかなメイド服は。
何か所も裂けていた。
それでも。
セレナは。
剣を握っていた。
シエラの部屋へ続く廊下を背に。
一歩も。
退かずに。
(…………)
シエラの目から。
眠気が完全に消えた。
床には血。
壁には戦闘の痕跡。
目の前には。
見知らぬ男。
その身体からは。
昼間の魔獣と似た。
異質な力。
(なるほど)
だいたい。
理解した。
(昼間の件か)
自分が。
瘴気を消した。
それを察知して。
誰かが送り込んできた。
(……早いのう)
予想していたより。
相手の動きは早い。
だが。
今は。
そんなことよりも。
シエラの目は。
傷だらけのセレナへ向けられていた。
「お嬢様!」
セレナが叫ぶ。
「どうして……!」
「……起きた」
「今すぐお逃げください!」
(逃げる?)
シエラは。
ほんの少し。
首を傾げた。
(誰からじゃ?)
目の前の男。
確かに強い。
人間として考えるなら。
異常と言っていいほどに。
セレナが。
ここまで追い詰められたのだから。
しかし。
(……それだけじゃ)
「お嬢様!」
セレナが。
ふらつきながら。
再び。
シエラと男の間へ入ろうとする。
シエラは。
黙って。
セレナへ歩いていった。
「来ては……なりません……」
「……セレナ」
「はい……」
「座って」
「できません」
「……どうして?」
「お嬢様を……お守りしなければ……」
「…………」
シエラは。
セレナを見る。
五年間。
ずっと傍にいた。
朝。
髪を整える。
着替えを手伝う。
食事。
勉強。
外出。
眠る時まで。
毎日。
自分が何者なのか知らない。
自分が彼女より遥かに強いことも知らない。
だから。
本気で。
命を懸けた。
(まったく)
シエラは。
小さく息を吐いた。
(馬鹿な子じゃのう)
なのに。
不思議と。
嫌ではなかった。
むしろ。
胸の奥が。
少しだけ。
暖かい。
シエラは。
セレナの前へ立つ。
そして。
小さな指を。
乱れた紫銀色の髪へ差し入れた。
血で頬へ張りついていた。
一房。
それを。
そっと。
元の位置へ戻す。
いつもは。
セレナが。
シエラの髪を整える。
今夜だけは。
逆だった。
そして。
傷ついた頬へ。
小さな手を添える。
「……よく頑張ったわね」
「――」
セレナの目が。
見開かれた。
普段。
必要なこと以外。
ほとんど口にしないシエラから。
そんな言葉を聞いたことはなかった。
「お嬢……様……」
「……あとは」
シエラは。
ほんの僅かに。
微笑んだ。
「私に任せなさい」
「何を……」
言い終えるより先。
シエラの指先から。
淡い光が漏れた。
「……え」
身体から。
力が抜ける。
「お……嬢……」
視界が霞む。
(眠気……?)
抗おうとする。
しかし。
身体が言うことを聞かない。
シエラが。
倒れかけたセレナを支える。
「……寝てて」
「でも……」
意識が沈む。
最後に。
セレナが聞いたのは。
いつもの無表情な少女のものとは。
少しだけ違う。
冷たい声だった。
「……よくも」
一拍。
「私のメイドを、ここまで傷つけてくれたわね」
そこで。
セレナの意識は途切れた。
◇
シエラは。
眠ったセレナを。
壁際へそっと横たえた。
(これでよし)
眠らせるのと同時に。
傷もある程度塞いである。
失血。
内臓。
骨。
命に関わる部分を。
優先して治した。
(全部綺麗に治すと、それはそれで怪しまれるからの)
……すでに。
十分怪しまれる状況ではある。
(まあよい)
今は。
後回し。
命に別状がないことを確認すると。
シエラは立ち上がった。
そして。
ようやく。
男を見る。
男も。
シエラを見ていた。
先ほどまで。
セレナへ向けていた。
見下すような目ではない。
警戒。
困惑。
そして。
ほんの僅かな。
恐怖。
「……何者だ」
(来たのう)
シエラは。
少しだけ考えた。
当然。
正直に。
――この星の管理神じゃ。
などと言うわけにはいかない。
なので。
「……シエラ」
「名前を聞いているのではない」
(面倒じゃな)
「……この家の娘」
「…………」
男が黙る。
(何じゃ。間違っておらんじゃろ)
シエラは。
本気でそう思っている。
「その力は何だ」
「……神聖魔法」
即答。
(嘘ではない)
かなり。
広義では。
神聖。
ではある。
「ふざけるな」
男の身体から。
黒い力が滲み出す。
(ほう)
今度は。
シエラも。
真面目に観察する。
(やはり昼間の魔獣と同じ系統じゃな)
ただし。
完全に同じではない。
魔獣より。
ずっと明確に。
この男は。
何か別の存在と繋がっている。
(……なるほど)
男が地面を蹴った。
一瞬。
姿が消える。
セレナですら。
完全には追い切れなかった速度。
黒刃が。
五歳の少女の首へ迫る。
そして。
止まった。
「――な」
シエラの右手。
小さな。
五歳児の指。
二本。
それだけで。
黒い刃が。
挟まれていた。
「…………」
男が固まる。
シエラは。
刃を見る。
(弱い)
そう思い。
少しだけ。
考え直した。
(いや)
(人間として見れば、かなり強いのじゃろうな)
セレナが。
あれだけ苦戦した。
なら。
人間基準では。
間違いなく強者。
(基準を儂にしてはいかんの)
しかし。
今。
目の前にいるのは。
その神本人である。
「離せ!」
男が刃を引く。
動かない。
シエラは。
不思議そうに首を傾げた。
「それで本気?」
男の顔が歪む。
「貴様……!」
蹴り。
シエラの頭を狙う。
届くより先。
シエラが。
僅かに手を動かした。
――ドンッ。
低い音。
男の身体が消える。
否。
吹き飛んだ。
廊下の先。
壁へ激突する寸前。
見えない力に捕まり。
止まる。
「がっ……!」
(屋敷を壊すと、お父様がうるさそうじゃからの)
衝撃だけ。
完全に消した。
男は。
何が起きたのか。
理解できない様子だった。
「ば……かな……」
口から。
血が流れる。
シエラが。
ゆっくり歩いてくる。
裸足。
白い寝間着。
淡い桜色の髪。
どう見ても。
ただの五歳の少女。
それなのに。
男の目には。
もう。
人間の少女には。
見えていなかった。
「その……力……」
男の目が。
大きく見開かれる。
「まさか……」
(……)
シエラの足が止まる。
「神……」
(まずい)
予想以上に。
鋭い。
どうやら。
この男は。
神力そのものを。
ある程度感じ取れるらしい。
なら。
ただの人間ではない。
神の眷属。
あるいは。
それに近い存在。
「貴様……まさか、この星の――」
「……遅い」
シエラが。
指を僅かに振った。
それだけだった。
男の言葉が止まる。
身体から。
力が抜ける。
その場へ。
崩れ落ちる。
命。
魂。
そして。
この男の身体を支えていた。
外部からの力。
それらの接続を。
シエラは。
一瞬で。
断ち切った。
「…………」
静寂。
戦いと呼ぶには。
あまりにも。
短かった。
◇
(さて)
シエラは。
倒れた男へ近づいた。
膝をつき。
その身体を観察する。
(肉体は……人間じゃな)
少なくとも。
大枠は。
この星の人類と変わらない。
だが。
問題は。
もっと奥。
魂。
その中心。
(……ある)
細い糸。
もちろん。
物理的に見えているわけではない。
普通の魔法使いでは。
認識すらできない。
神力による。
繋がり。
この男から。
遠いどこかへ。
一本の細い糸が。
伸びていた。
今。
シエラが接続を断ったことで。
ほとんど。
消えかけている。
(こやつ自身は神ではない)
ならば。
(眷属)
あるいは。
(使徒)
そして。
この男へ力を与えた存在。
(……神格じゃな)
間違いない。
神の力。
しかし。
シエラたちとは違う。
別の管理領域。
別の星。
そこに属する神力。
(なるほどのう)
ようやく。
点と点が繋がった。
魔獣。
瘴気。
侵入者。
そして。
外部の神力。
(誰かがおる)
他の星を管理する存在。
その何者かが。
自分たちの星へ。
無断で。
手を伸ばしている。
目的までは。
分からない。
ただ。
(ろくなものではないの)
瘴気を撒き。
この星を。
少しずつ弱らせる。
管理者である自分たちに隠れて。
外部から。
干渉する。
(邪神)
その呼び方が。
一番しっくりきた。
神だから。
善。
ではない。
管理者としての力を。
他者の星へ。
悪意を持って行使する。
それなら。
(邪神で十分じゃな)
シエラは。
もう一度。
男を見る。
すでに。
神力との接続は。
完全に消えていた。
このまま残しておけば。
人間たちが。
余計な騒ぎを起こす。
(……消しておくか)
シエラが。
指を一度。
鳴らす。
男の身体が。
淡い光の粒へ変わり。
音もなく。
消えていった。
残されたのは。
戦闘によって傷ついた廊下と。
倒れているセレナ。
それだけだった。
◇
シエラは。
自室へ戻った。
机の前へ座り。
紙とペンを用意する。
(さて)
これは。
自分一人で抱える話ではない。
むしろ。
星の外にいる敵について。
現地へ転生している自分が調査する方が。
効率が悪い。
(面倒なことは、あやつらに押しつければよい)
シエラは。
小さな手でペンを握る。
そして。
さらさらと。
文字を書いた。
『外部神格による干渉と思われる事象を確認。
魔獣一体。
瘴気発生。
その後、眷属と思われる存在が屋敷へ侵入。
排除済み。
対象の魂に、外部神格との神力接続痕を確認。
発信元、および管理領域の特定を頼む。
こちらは現地の異物を処理する。』
(……こんなものかの)
読み返す。
必要な情報は。
だいたい入っている。
余計なことは。
書かない。
特に。
自分が。
人間たちから。
聖女扱いされ始めている件など。
絶対に。
書かない。
(知られたら、一生笑われるからの)
紙を二つ折りにする。
指先へ。
僅かな神力を込める。
次の瞬間。
手紙が。
淡い光へ包まれ。
音もなく。
消えた。
これで。
管理領域にいる。
同僚神のもとへ届く。
(邪神探しは任せた)
シエラは。
椅子の背へ。
小さな身体を預ける。
(儂は現地じゃ)
自分がやることは。
もっと単純でいい。
魔獣が出れば。
倒す。
瘴気があれば。
消す。
使徒が来れば。
排除する。
(目の前へ出てきたものだけ、片づければよい)
その方が。
ずっと。
分かりやすい。
「…………」
そこで。
シエラは。
小さく欠伸をした。
「……ふぁ」
(……眠いの)
当然と言えば。
当然だった。
中身が。
どれほど長い年月を生きた神であろうと。
今の身体は。
五歳児だ。
昼間には。
王都へ現れた魔獣を目撃し。
広範囲の瘴気を浄化した。
そのまま。
聖女だ何だと騒がれ。
夜になれば。
眠っていたところを。
外部神格の力で叩き起こされ。
セレナを治療し。
使徒を排除し。
その魂の奥まで調べ。
さらに。
管理領域への報告まで書いた。
神力を使うこと自体で。
疲れたわけではない。
だが。
五歳の小さな身体には。
少し。
無理をさせすぎた。
(……今日は色々ありすぎじゃ)
シエラは。
眠たそうに。
目を擦る。
(続きは……明日でよいか)
邪神が。
一晩で。
この星を滅ぼすわけでもあるまい。
そう結論づけると。
シエラは。
椅子から降りた。
裸足のまま。
ぺたぺたと。
ベッドへ歩く。
小さな身体で。
寝台へよじ登り。
布団の中へ。
潜り込む。
(……眠い)
それだけだった。
つい先ほど。
邪神の使徒を。
瞬く間に排除した。
星の管理神。
その本人とは。
到底思えないほど。
あっさりと。
シエラの瞼は。
閉じていった。
(……おやすみ)
そして。
ほんの数十秒後。
部屋には。
規則正しい。
小さな寝息が。
響き始めた。
◇
「……ん」
セレナが。
目を開けた。
最初に視界へ入ったのは。
魔導灯の淡い光に照らされた。
廊下の天井だった。
「…………?」
数秒。
自分が。
どうしてそこに寝ているのか。
理解できなかった。
だが。
直後。
記憶が。
一気に戻ってくる。
侵入者。
戦闘。
自分では。
どうしても埋められなかった。
圧倒的な身体性能の差。
そして。
最後に現れた。
小さな主人。
『……よく頑張ったわね』
『私に任せなさい』
「――っ」
セレナが。
身体を起こす。
窓の外を見る。
まだ。
月が高い。
夜は。
終わっていない。
自分は。
それほど長く。
意識を失っていたわけではないらしい。
「…………」
まず。
自分の身体を見る。
黒、白、紫のメイド服。
至るところが。
裂けている。
白いフリルは。
乾き始めた血で。
赤黒く染まっている。
長い紫銀の髪も。
乱れたまま。
黒と紫のリボンも。
一つ。
なくなっている。
間違いなく。
戦った。
夢ではない。
あの男に。
何度も。
傷つけられた。
特に。
最後。
右脇腹を。
深く。
斬られた。
あの傷は。
死んでも。
おかしくないほどだった。
なのに。
「……傷が」
ない。
いや。
僅かな痛みは残っている。
皮膚を押せば。
鈍い痛みもある。
だが。
深く裂かれた傷口は。
ほとんど。
塞がっていた。
(……どういう)
セレナは。
裂けた服の上から。
そっと。
傷があった場所へ触れる。
治癒魔法。
そう考えるのが。
もっとも自然。
しかし。
あれほど深い傷を。
短時間で。
ここまで治せる術者が。
屋敷にいただろうか。
まして。
自分が。
意識を失っている間に。
「…………」
セレナは。
ゆっくり。
周囲を見る。
そして。
次の異常に気づく。
「……いない」
男が。
いない。
壁には。
剣撃の跡。
床にも。
血。
自分の。
切れたリボン。
砕けた装飾。
戦闘の痕跡は。
はっきり。
残っている。
なのに。
あの男だけが。
どこにもいない。
死体も。
武器も。
何も。
残っていない。
まるで。
存在そのものが。
消えてしまったかのように。
(旦那様が?)
違う。
もし。
ガルディスが。
この状況に気づいたなら。
屋敷は。
今頃。
こんなに静かではない。
夜番の騎士を集め。
使用人を起こし。
何より。
シエラの無事を確認するため。
この廊下は。
人で溢れているはずだ。
だが。
静か。
誰も。
起きていない。
巡回する騎士たちも。
この戦いに。
気づいていない。
(なら……)
最後に。
脳裏へ浮かんだのは。
あの少女。
白い寝間着。
裸足。
淡い桜色の髪。
血に濡れた。
自分の頬へ。
触れた。
小さな手。
『……よく頑張ったわね』
そして。
『私に任せなさい』
「…………」
セレナの。
紫の瞳が。
ゆっくりと。
シエラの部屋へ向く。
閉じた扉。
その向こうに。
自分が。
五年間。
世話をしてきた。
小さな主人がいる。
(まさか……)
その考えを。
否定する材料が。
何一つ。
浮かばなかった。
昨日。
王都で。
騎士たちを救った。
規格外の。
神聖魔法。
そして。
今夜。
自分を眠らせた。
あの光。
消えた侵入者。
塞がった傷。
すべてを。
一つに繋げれば。
答えは。
どうしても。
一つの方向へ向かう。
(お嬢様が……?)
だが。
もし。
そうだとして。
どうやって。
あの男を。
倒した。
自分では。
勝てなかった。
元Sランク冒険者として。
持てる技術を。
すべて使った。
それでも。
届かなかった相手。
それを。
五歳の少女が。
「…………」
セレナは。
しばらく。
その扉を見つめた。
やがて。
ゆっくり。
立ち上がる。
身体は。
不思議なほど。
問題なく動いた。
音を立てず。
シエラの部屋へ。
近づく。
そして。
ほんの少しだけ。
扉を開いた。
◇
部屋の中は。
暗かった。
窓から差し込む。
月明かり。
それだけが。
室内を。
淡く照らしている。
セレナは。
まず。
ベッドを見た。
「…………」
いた。
シエラが。
そこに。
眠っていた。
布団へ。
小さな身体を。
半分ほど埋め。
淡い桜色の髪を。
枕の上へ。
ふわりと広げている。
片方の手だけが。
布団の外へ。
少し出ている。
表情は。
いつものような。
感情の薄いものではない。
力の抜けた。
穏やかな寝顔。
小さな唇が。
呼吸に合わせて。
僅かに動く。
「すぅ……」
「…………」
どう見ても。
五歳児。
それも。
どこにでもいる。
とは言えないほど。
人形のように可愛らしい。
ただの。
小さな女の子だった。
「……ん……」
シエラが。
小さく。
身じろぎする。
布団を。
両腕で。
少しだけ。
抱きしめる。
そして。
また。
すやすやと。
眠る。
「…………」
セレナは。
その場に。
立ち尽くした。
つい先ほど。
自分が。
見たもの。
聞いた言葉。
目覚めてから。
確認した。
異常。
それらと。
今。
目の前で。
無防備に眠っている。
小さな少女。
二つの姿が。
どうしても。
結びつかない。
(本当に……お嬢様が?)
普通なら。
あり得ない。
五歳児が。
Sランク冒険者であった自分ですら倒せない敵を。
どうにかできるはずがない。
だが。
だからといって。
他に。
説明もつかない。
(…………)
シエラは。
何者なのだろう。
昼の。
神聖魔法。
時折見せる。
年齢に似合わない視線。
あまりにも。
落ち着きすぎた。
態度。
そして。
今夜。
自分へ向けた。
『あとは私に任せなさい』
あの言葉。
あれは。
強がりではなかった。
少なくとも。
セレナには。
そう思えた。
なら。
自分が。
知らないだけで。
シエラは。
何か。
大きな秘密を。
抱えている。
そこまで考え。
セレナは。
目を閉じた。
そして。
それ以上。
考えるのを。
やめた。
(……何をしているのでしょう、私は)
何者なのか。
そんなこと。
今すぐ。
知る必要があるのか。
目の前で。
この少女は。
眠っている。
安心し切って。
小さな身体を。
布団へ埋めて。
何も知らない。
五歳児のように。
可愛らしく。
眠っている。
セレナの目から。
先ほどまでの。
戦士としての鋭さが。
少し。
消えた。
(……可愛らしい)
思わず。
そんな感想が。
浮かぶ。
いつも見ている。
寝顔。
だが。
今夜は。
何故か。
いつも以上に。
そう思えた。
セレナは。
ベッドの傍らへ。
静かに近づいた。
布団が。
少しだけ。
ずれている。
それを。
そっと。
掛け直す。
シエラは。
起きない。
「…………」
小さな寝息。
それだけが。
返ってくる。
「おやすみなさいませ」
セレナは。
小さな声で。
囁いた。
「……お嬢様」
その時。
胸の中へ。
不思議なほど。
すんなりと。
一つの答えが。
落ちた。
(何者でも……構いません)
シエラが。
何を。
隠しているのか。
知らない。
どうやって。
あの侵入者を。
消したのか。
分からない。
自分の傷を。
治したのが。
本当にシエラなのか。
確証すらない。
だが。
(お嬢様は、お嬢様です)
それだけは。
変わらない。
勝負に負け。
仕方なく。
大公爵家へ来て。
生まれたばかりの頃から。
五年間。
ずっと見てきた。
自分の。
主人。
たとえ。
この少女が。
普通ではない何かを。
隠していたとしても。
それで。
これまでの五年間が。
変わるわけではない。
(それに)
もし。
シエラが。
自分へ。
知られたくないことが。
あるのなら。
無理に。
暴く必要などない。
秘密が。
あるなら。
それも。
含めて。
守ればいい。
シエラ自身を。
この子の秘密を。
そして。
この少女が。
今のように。
何の心配もせず。
眠っていられる。
日常を。
(それが)
セレナの。
紫の瞳が。
ほんの少し。
柔らかくなる。
(私の仕事ですから)
いや。
もう。
仕事。
という言葉だけでは。
説明できないのかもしれない。
だが。
それについても。
今は。
考える必要はない。
セレナは。
眠るシエラへ。
もう一度。
視線を向けた。
「……本当に」
小さく。
呟く。
「不思議なお方ですね」
「すぅ……」
返ってきたのは。
可愛らしい。
寝息だけだった。
セレナは。
僅かに。
微笑んだ。
そして。
音を立てないように。
静かに。
部屋を後にした。
◇
数時間後。
朝。
「シエラ!」
グランヴェルト大公爵家に。
いつもの。
大声が響いた。
「昨夜はよく眠れたか!」
「……うん」
シエラは。
眠たそうな目で。
父を見る。
(夜中に使徒を一人片づけたがの)
「そうか! それはよかった!」
(知らぬが仏じゃな)
シエラは。
小さく。
欠伸をした。
まだ。
少し眠い。
(やはり五歳の身体というものは不便じゃ)
中身は。
神。
だが。
肉体は。
完全に。
人間の五歳児。
「お嬢様」
セレナが。
静かに。
紅茶を置く。
長い紫銀色の髪は。
いつものように。
完璧に整えられている。
黒と白と紫を基調とした。
新しいメイド服。
乱れた髪も。
血に染まったフリルも。
裂けた衣服も。
今はない。
そこにいるのは。
いつも通りの。
美しく。
隙のない。
シエラ専属のメイドだった。
「本日のご予定ですが――」
「……少ない?」
「残念ながら」
「…………」
「露骨に嫌そうなお顔をなさらないでください」
(今日くらい休ませてくれてもよかろうに)
シエラが。
少しだけ。
不満そうな顔をする。
「…………」
セレナは。
そんな主人を。
静かに見る。
昨夜のことは。
一言も。
聞かない。
侵入者についても。
傷についても。
あの言葉についても。
何も。
(……?)
逆に。
シエラの方が。
僅かに。
セレナを見る。
(何も聞かぬのか)
ある程度は。
覚悟していた。
質問。
追及。
あるいは。
疑い。
だが。
何もない。
ただ。
いつもより。
ほんの少しだけ。
セレナの。
自分を見る目が。
柔らかい。
(……気づいておるのか?)
シエラは。
少しだけ。
考えた。
しかし。
(まあ)
(言わぬなら)
(それでよいか)
すぐに。
考えるのを。
やめた。
面倒なことは。
増やさない方がいい。
パンを。
一口。
そして。
昨夜。
同僚神へ。
送った手紙を。
思い出す。
(邪神の調査は、あやつらに任せる)
(儂は現地じゃ)
魔獣。
瘴気。
使徒。
この星には。
すでに。
何かが。
入り込んでいる。
(面倒じゃのう)
本当に。
面倒。
だが。
シエラは。
窓の外を見る。
庭。
使用人。
騎士。
父。
母。
そして。
セレナ。
五年間。
人間として。
暮らしてきた。
この場所。
(まあ)
小さな手で。
カップを持つ。
(儂らの星で)
ほんの少し。
目を細める。
(好き勝手されるのも、腹が立つからの)
なら。
見つけたものから。
片づければいい。
魔獣なら。
倒す。
瘴気なら。
消す。
使徒なら。
排除する。
邪神本人を探すのは。
仲間たちの仕事。
自分は。
ただ。
現地で。
やれることをする。
(……よし)
方針は。
決まった。
「お嬢様?」
「……何でもない」
「そうですか」
セレナは。
それ以上。
聞かなかった。
シエラも。
何も聞かなかった。
二人の間に。
言葉は。
必要なかった。
昨夜。
一人のメイドは。
自分が仕える少女に。
大きな秘密があるのかもしれないと。
気づいた。
けれど。
その答えを。
無理に知ろうとは。
思わなかった。
何者であろうと。
シエラ・グランヴェルトは。
彼女にとって。
大切な。
お嬢様なのだから。
罰ゲームのような。
ただの定期点検。
そのはずだった。
だが。
この夜を境に。
人形令嬢シエラ・グランヴェルトの人間生活は。
そして。
彼女と一人のメイドとの関係は。
ほんの少しだけ。
――変わり始めた。
次話の投稿はだいぶ先になりますので楽しみにお待ち頂けたら幸いです。
面白いと感じましたら、ブクマ、評価、コメント等をよろしくお願いします。




