第一話:罰ゲームで人形令嬢になりました
新連載です。好評そうでしたら続けます。
星には、それぞれ管理者が存在する。
世界の成り立ちを見守り、その循環が正常に保たれているかを監督する存在。
地上に暮らす者たちは、そんな彼らを――神と呼んだ。
もっとも。
当の神々にしてみれば、その呼び名にさほど特別な感慨があるわけでもない。
「嫌じゃ」
果ての見えない白い空間に、しわがれた老人の声が響いた。
上下すら曖昧なその場所には、遠く無数の星々が小さな光となって瞬いている。
その中央。
一つの円卓を、数人の男女が囲んでいた。
美しい女。
青年。
幼い少年。
壮年の男。
姿形も年齢もばらばら。
だが、その誰一人として人間ではない。
彼らは皆、とある一つの星を共同で管理する神々だった。
そして。
その中で最も露骨に不機嫌そうな顔をしているのが、一人の老人である。
腰まで伸びた白髪。
同じく長い白髭。
深く刻まれた皺。
ゆったりとした白い衣。
人間が想像する「老いた神」という存在を、そのまま形にしたような姿だった。
「何が悲しゅうて、また人間にならねばならんのじゃ」
「定期点検だから」
「それは分かっておる」
「なら諦めたら?」
「嫌じゃ」
即答だった。
数え切れないほど長い年月を生きてきた神とは思えないほど、見事な駄々である。
とはいえ。
彼が嫌がるのにも理由はあった。
神々には定期的に、自らが管理する星を実地で確認する義務がある。
方法は単純。
その時点で星でもっとも繁栄している種族の赤子へ転生し、その一員として一生を過ごす。
ただ、それだけだ。
何か特別な使命を与えられるわけではない。
世界を救えと言われるわけでもない。
普通に生まれ。
普通に育ち。
普通に生活し。
やがて普通に寿命を迎える。
その一生を通して、外から眺めているだけでは気づけない異常がないかを確かめる。
言ってしまえば。
ゲームの開発者が、自ら一般プレイヤーとして最初から最後まで遊んでみるようなものだった。
「人間の一生そのものは短いからの。そこは別に構わん」
老人は長い髭を撫でながら、面倒そうに息を吐いた。
「じゃが、力を抑え続けるのがしんどいんじゃ」
転生したからといって、神でなくなるわけではない。
魂の本質は変わらず、力も失われない。
ただし。
現地の住民に、自分が神であると知られてはならない。
それが点検における大前提だった。
だからこそ、転生中は常に力を抑え続けなければならない。
うっかり力を込めれば岩を砕き。
うっかり魔法を使えば山を消し。
うっかり本気で走れば、人間の目では追うことすらできない。
それを数十年。
あるいは百年近く。
神にとって人間の一生は短くとも、窮屈なものは窮屈なのだ。
「では今回も決めようか」
一柱の神が、円卓の上へ小さな箱を置いた。
老人の眉間に皺が寄る。
「……またそれか」
「公平でいいでしょ?」
「儂はこういう運任せが嫌いなんじゃ」
「前回も言ってたね」
「前回も負けたからの」
「今回は勝てるかもよ」
「その言葉、まったく信用できん」
とはいえ。
誰一人として自分から点検へ行くと言い出さない以上、何らかの方法で決めなければならない。
結局。
今回もゲームで決めることになった。
そして――。
「はい。負け」
「…………」
「今回はあなたね」
「…………」
「聞こえてる?」
「……もう一度」
「駄目」
「今のは練習じゃろ?」
「始める前に本番って言ったよ」
「儂は聞いとらん」
「聞いてたよ」
「…………」
老人はしばらく黙った。
やがて。
肩を落とし、盛大に息を吐く。
「田舎がいい」
「ん?」
「どうせ人間になるなら、何も起きん田舎がいい。村人。できれば農家じゃな」
「ずいぶん具体的だね」
「都会は面倒じゃ。人も多い。しがらみも多い。偉い人間とも関わりたくない」
「はいはい」
「……その返事が一番不安なんじゃが」
老人は疑わしそうに目を細める。
だが。
まさか本当に転生先を弄られるとは思っていなかった。
少なくとも。
その理由が、ただの悪戯だけではなかったことを知るのは。
まだ、ずっと先のことである。
「じゃあ、いってらっしゃい」
「仕方ないのう」
「ああ。それと」
転生のための光へ足を踏み入れようとした老人へ、一柱の神が声をかける。
老人は振り返った。
「今回は、少し気をつけてね」
「……何をじゃ?」
「さあ?」
「なんじゃ、それは」
「何もなければ、それが一番だから」
「意味の分からんことを言うでない」
深く考えることもなく。
老人は転生の光へ身体を預けた。
どうせ。
人間の一生など、神にとっては瞬きのようなもの。
今回も何事もなく。
静かに暮らして戻ってくればいい。
――そう思っていた。
◇
最初に感じたのは。
眩しさだった。
次に。
寒さ。
そして――。
「おぎゃあああああああ!」
(……うるさいのう)
耳元で響いた凄まじい泣き声に、老人――いや、生まれたばかりの赤子は目を瞬いた。
数秒後。
(…………儂か?)
どうやら。
自分の声だった。
身体がほとんど動かない。
視界もぼやけている。
腕を動かそうとしても、小さな手が頼りなく震えるだけ。
(相変わらず、赤子というものは不便じゃな)
転生が初めてというわけではない。
それでも。
この何もできない身体には、毎回どうにも慣れなかった。
「あなた……!」
女性の声が聞こえる。
疲れ切った様子で、それでも幸せそうに笑いながら、自分を抱き上げている。
その隣には大柄な男。
鍛え抜かれた身体。
鋭い眼光。
立っているだけで分かるほど、無駄のない身のこなし。
(ほう。人間にしては、なかなかじゃな)
赤子の身体になっても、見るべきものは自然と見える。
この男は強い。
そこらの兵士や冒険者では比較にもならないだろう。
そんな男が。
「……可愛い」
震えていた。
「可愛すぎる……!」
(……何じゃ、こやつ)
「あなた、声が大きいです」
「す、すまない。だが見ろ! この手を!」
「赤ちゃんですもの」
「俺の指を握ったぞ!」
「赤ちゃんですもの」
「もう俺を父親だと認識しているのではないか!?」
(しておらん)
赤子は無言で男を見る。
(おそらく、今回の父親か)
女性が母。
男が父。
そこまではいい。
問題は。
その周囲だった。
ぼやけた視界でも分かるほど、部屋が広い。
天井が高い。
壁や家具には精巧な装飾。
周囲には何人もの使用人。
どう考えても。
自分が希望した、のどかな田舎の農家ではない。
(……村?)
嫌な予感がした。
「大公爵閣下」
控えていた侍女の一人が、男へ恭しく頭を下げる。
「お嬢様は、とてもお元気でございます」
(…………大公爵?)
赤子の思考が止まる。
(お嬢様?)
自分の身体へ意識を向ける。
確認。
数秒。
(…………女ではないか)
そして再び。
豪華な部屋。
大量の使用人。
大公爵と呼ばれた父親。
自分自身。
そこから導き出される答えは一つ。
(…………)
(あやつらぁ……!)
田舎の村人がいいと言った。
農家なら最高だとも言った。
それが。
どうして。
(大公爵家の娘になっておるんじゃ!?)
転生して数分。
早くも同僚神への恨みが芽生えた。
とはいえ。
外へ出せるのは泣き声だけ。
「元気だな!」
(違うわい)
父親は喜んでいる。
「名前は、決めていた通りでいいな?」
「ええ」
母親が優しく微笑む。
そして。
生まれたばかりの娘の額へ、そっと口づけた。
「シエラ」
それが。
今回の人生における彼女の名となった。
「シエラ・グランヴェルト」
(シエラ、か)
悪くない。
悪くはないのだが。
(……いや。そこではない)
こうして。
長い白髪と白髭を蓄えた老人の姿をしていた一柱の神は。
本人の希望とは正反対の。
王国屈指の名門貴族。
グランヴェルト大公爵家の令嬢として。
新たな生を始めることになった。
◇
グランヴェルト大公爵家。
王国でその名を知らぬ者はいない。
王家に次ぐほどの格式を持ち。
広大な領地を治め。
莫大な財と影響力を有する名門。
そして。
何よりも有名なのが――剣。
代々、剣聖と呼ばれるほどの剣士を輩出してきた王国随一の武門である。
現当主。
ガルディス・グランヴェルトもまた、その名に恥じない剣士だった。
王国騎士団長。
国王直属の騎士たちを束ねる男。
戦場では敵に恐れられ。
部下からは尊敬され。
貴族社会でも容易に侮ることのできない人物。
そんな男にも。
致命的と言っていい弱点が存在した。
「シエラ!」
五年後。
大公爵家の朝は、当主の大声から始まった。
「…………」
大きなベッドの上。
小さな少女がゆっくりと瞼を開く。
淡い桜色の長い髪。
長い睫毛。
白磁のような肌。
まだ五歳だというのに、整いすぎているほど整った顔立ち。
小さく。
華奢で。
表情にも乏しい。
その姿は、精巧に作られた人形のようだった。
だからこそ。
屋敷の使用人たちは密かに彼女を――人形令嬢と呼んでいる。
もっとも。
(朝から元気すぎるじゃろ、この男)
中身は。
少し前まで白髭を撫でながら星を管理していた老人神である。
「おはよう、シエラ! 今日も世界一可愛いぞ!」
「……お父様」
「なんだ?」
「うるさいです」
「っ……!」
ガルディスが胸を押さえた。
「シエラに……うるさいと……!」
「旦那様」
冷静な声が割り込む。
「朝からあれだけ騒げば、当然かと」
「セレナ、お前まで……!」
ベッドの傍らに立っていたのは、一人の若いメイドだった。
腰よりも長く流れる、淡い紫銀の髪。
光を受ければ銀にも薄紫にも見える髪を、黒と紫のリボンが上品に飾っている。
瞳は、紫水晶を思わせる鮮やかな紫。
整った顔立ちには、どこか冷ややかな美しさがあり。
黒と白、そして紫を基調とした華やかなメイド服が、その雰囲気によく似合っていた。
細かなフリル。
幾つものリボン。
大公爵家に仕える専属メイドらしい、品のある装飾。
一見するだけなら。
名門貴族の屋敷に仕える、美しい侍女。
それだけに見える。
だが。
シエラは、その印象だけに騙されない。
(相変わらず、隙のない女じゃのう)
歩幅。
重心。
指先の位置。
視線の配り方。
そのすべてに無駄がない。
華奢に見える身体も、実際にはよく鍛えられている。
腰には、装飾の施された細身の剣。
華やかな服装の中に自然と溶け込んでいるが。
あれは飾りではない。
完全な実戦用だ。
そして。
彼女は今も。
部屋のどこから何者が飛び込んできても。
即座にシエラとの間へ割って入れる位置を。
意識することすらなく、自然に取っている。
名はセレナ。
シエラ専属のメイド兼護衛。
そして。
元Sランク冒険者である。
シエラが生まれる少し前。
娘の護衛として最高峰の人材を求めていたガルディスが、当時冒険者として名を馳せていた彼女を勧誘した。
しかしセレナには、貴族の屋敷へ入るつもりなどなかった。
だから。
断るための口実も兼ねて、こう言った。
『私に勝てたら、メイドになってあげますよ』
当時のセレナはSランク。
王国内でも、まともに自分と戦える人間などほとんどいない。
いくら剣の名門の当主とはいえ。
そう簡単には――。
『では、約束だ』
負けた。
完敗だった。
そして。
自分から提示した条件である以上、反故にするわけにもいかず。
セレナはそのまま大公爵家へ入り。
まだ生まれてすらいなかったシエラの専属メイド兼護衛になった。
それが五年前。
「お嬢様。起床のお時間ですよ」
「……あと五分」
「昨日も同じことを仰いました」
「今日は十分」
「増えております」
「……成長」
「退化です」
(むう。人間の朝は早すぎるのじゃ)
布団を鼻先まで引き上げる。
表では。
シエラはほとんど喋らない。
もともと、人間の幼子としては妙に落ち着いている。
それに加えて。
シエラ自身が意図して、発言を最低限に抑えていた。
(下手に喋ると、ろくなことにならんからの)
これまでにも、つい神だった頃の感覚で物を言いそうになったことが何度もある。
人間の歴史を見て、
――ああ、その国なら昔儂が大陸を整えた時に――。
などと言おうものなら。
五歳児の発言ではない。
星について話を振られて、
――あの辺りの地脈は儂らが調整して――。
などと口走れば。
もっとまずい。
だから。
喋らない。
聞かれたことには短く答える。
余計なことは言わない。
それが。
シエラが五年間で身につけた、もっとも安全な処世術だった。
(まあ、そのせいで無口な子供だと思われておるが。都合がいいわい)
「今日は剣の稽古をする約束だっただろう!」
ガルディスが復活した。
シエラは布団の中から、父親を見る。
「……覚えてます」
「よし!」
(そんなに嬉しいのかのう)
この男は。
娘に関係することであれば、何でも喜ぶ。
シエラが初めて立った日。
泣いた。
初めて歩いた日。
泣いた。
初めて「お父様」と呼んだ日。
泣いて喜んだ挙げ句。
そのまま仕事を休もうとしたため。
セレナによって、無言のまま執務室へ送り返された。
(あの時のセレナは、笑顔なのに妙に怖かったのう)
本人へ言ったことはない。
おそらく。
言わない方がいい。
◇
転生して。
五年。
世界は。
今のところ、正常だった。
争いもある。
病もある。
犯罪もある。
魔物だっている。
だが。
それらは、この星に元から存在するものだ。
世界の中で生まれ。
世界の中で循環する。
神の目から見れば。
正常な範囲。
(今のところ、何もなしじゃな)
それでいい。
今回の点検で、シエラが何かを成し遂げる必要などない。
人間として一生を生き。
世界を体感し。
何も異常がなければ。
それで点検は終わりだ。
(しかし……)
シエラは着替えさせられながら、小さく息を吐く。
セレナの白い指が。
淡い桜色の髪を手際よく整えていく。
櫛を入れる動き。
リボンを結ぶ指先。
そのどれもが静かで。
妙に無駄がない。
(剣を握っても櫛を握っても、動きが変わらんの)
「お嬢様」
「……何?」
「動かないでください」
「……動いてない」
「今、少し首を傾けられました」
(細かいのう)
言わない。
(令嬢というものは、農民よりよほど忙しいではないか)
礼儀作法。
歴史。
音楽。
ダンス。
刺繍。
食事作法。
社交についての勉強。
最近では剣術まで増えた。
(儂は畑でも耕しながら昼寝をして過ごしたかっただけなのじゃが)
同僚神たちへの恨みは。
五年経った今でも。
ほんの少しだけ残っている。
◇
屋敷の訓練場。
ガルディスが木剣を握っていた。
向かいには。
小さな木剣を両手で持つシエラ。
少し離れた場所には、セレナが立っている。
黒と紫のスカートが、風に僅かに揺れる。
腰には。
いつも通り。
細身の剣。
「いいか、シエラ」
先ほどまでの親バカな顔とは少し違う。
剣を持てば。
ガルディスの纏う空気が変わる。
そこはシエラも認めていた。
(普段はあれじゃが。剣を握れば立派なものじゃな)
「最初は構えからだ。無理に形を覚える必要はない。まずは剣の重さと、自分の身体の動きを――」
ガルディスがゆっくりと構えてみせる。
シエラはそれを見る。
(ふむ)
足の位置。
腰の向き。
腕。
肩。
剣先。
呼吸。
重心。
(なるほどのう)
神であった頃。
シエラは星全体を流れる力を見ることができた。
どこから力が流れ。
どこへ抜けるのか。
それに比べれば。
一人の人間の身体の使い方を読み取ることなど難しくない。
問題は。
今の身体が五歳児だということだけ。
(この身体なら……こうじゃな)
シエラは木剣を構えた。
無理に父親と同じ形にはしない。
自分の身長。
筋力。
腕の長さ。
重心。
そのすべてに合わせて。
もっとも自然に。
「…………」
ガルディスが黙った。
そして。
少し離れて控えていたセレナも。
紫水晶のような瞳を、僅かに細めた。
普段。
シエラを見守る時の視線は。
もっと柔らかい。
だが。
今だけは。
かつて数え切れないほどの戦士や魔物を見てきた。
Sランク冒険者の目へと変わっている。
(……また何かやらかしたかの?)
シエラは二人を見る。
何も言わない。
余計な発言は危険である。
「……シエラ」
「?」
「そのまま、少し振ってみなさい」
「……はい」
言われた通り。
木剣を振る。
ひゅっ。
小さな風切り音。
当然。
大した威力などない。
五歳の身体なのだから。
(ふむ。思ったより身体がついてこないのう)
自分の感覚では、もっと滑らかに動かしたつもりだった。
だが。
筋力も。
骨格も。
まだまだ未熟。
(人間の肉体というのは面白いの。頭で分かっておっても、その通りには動かん)
少しだけ興味が湧いた。
神力を使えば何でもできる。
だからこそ。
何も使わず。
限られた身体だけを操るというのは。
思いのほか奥深い。
「…………天才だ」
ガルディスが呟いた。
(何がじゃ?)
「旦那様」
セレナが静かに言う。
「今のは、親バカ抜きで仰っていますか?」
「ああ」
珍しく。
真顔だった。
「俺は五年間、この子を見てきた。誰にも剣を教えさせていない。それなのに、今の一度だけで自分の身体に合った構えへ直した」
「……確かに」
セレナの視線が。
もう一度。
シエラの足。
腰。
剣先へと流れる。
(おお。そこまで分かるのか)
シエラは少しだけ。
二人への評価を上げた。
父親も。
セレナも。
やはり人間の中ではかなり優秀らしい。
「シエラ」
「……はい」
「剣は好きか?」
(さて)
シエラは木剣を見る。
(好きか嫌いかと言われれば、まだ分からんが)
制限された身体。
それを鍛え。
少しずつできることが増えていく。
それ自体には。
少し興味がある。
「……嫌いじゃないです」
「そうか!」
途端。
ガルディスの顔が明るくなる。
「では明日から毎日――」
「毎日は嫌です」
「…………」
沈黙。
ガルディスが。
見るからに落ち込む。
すると。
セレナが。
ほんの僅かに口元へ手を添えた。
「お嬢様」
「……何?」
「旦那様が死にそうです」
「……大丈夫」
「何がです?」
「強いので」
「そういう問題ではないかと」
(人間は難しいのう)
シエラは首を傾げた。
セレナの口元には。
まだ。
ほんの少しだけ。
笑みが残っていた。
◇
その日の午後。
シエラは父とセレナと共に、王都へ出ていた。
ガルディスには騎士団長としての仕事がある。
シエラは。
母への贈り物を選ぶため、それに同行した。
王都は賑わっていた。
商人たちの声。
馬車の車輪。
行き交う人々。
屋台から漂う香り。
道を駆ける子供。
建物の二階から洗濯物を干す女性。
どこにでもある。
人間たちの日常。
(平和なものじゃ)
馬車の窓から。
シエラは静かに街を眺めていた。
(まあ、人間同士からすれば色々あるのじゃろうが)
神の視点と。
そこに暮らす者の視点では。
世界の見え方が違う。
だからこそ。
こうして実際に暮らす必要がある。
その点については。
シエラも点検という制度そのものを否定する気はなかった。
「お嬢様」
「?」
向かいに座るセレナが声をかける。
黒と紫の装い。
長い紫銀の髪。
華やかな服装をしているというのに。
座っているだけで。
いつでも動ける姿勢が崩れていない。
「何か欲しいものはありますか?」
「……特に」
「そうですか」
少し間を置き。
「普通の五歳児は、もう少し欲しいものをねだるものですよ」
(また普通の五歳児か)
最近。
よく言われる。
(そもそも儂は普通の五歳児ではないからのう)
とは。
口が裂けても言えない。
「……そうなの?」
「ええ」
「…………」
シエラは少し考える。
欲しいもの。
(武器はいらん。宝石もいらん。本も……神の頃に読んだものより新しい知識が載っておるなら興味はあるが)
しかし。
五歳の令嬢が欲しがって自然なもの。
何か。
少し考えて。
「……ケーキ」
「ふふ」
「……何?」
「いえ。承知しました」
(何を笑っておるんじゃ)
普段は。
冷ややかにすら見える紫の瞳が。
その時だけ。
ほんの少し。
柔らかくなった。
(まあ)
(機嫌がいいなら、それでよいか)
その時だった。
――ドォンッ!
轟音。
馬車が大きく揺れる。
「――っ」
セレナが。
即座に立ち上がった。
黒と紫のスカートが、ふわりと揺れる。
そして。
次の瞬間には。
すでにシエラの前へ身体を滑り込ませていた。
同時。
白い指が。
腰の細身の剣、その柄へ添えられる。
ほんの一瞬前まで。
穏やかに会話していた美しいメイド。
その雰囲気は。
完全に消えていた。
紫の瞳が。
鋭く細められる。
(さすが元Sランクじゃな)
速い。
しかも。
動きにまったく無駄がない。
「魔物だ!」
「王都に魔物が出たぞ!」
「逃げろ!」
外から悲鳴が聞こえる。
馬車の扉が開く。
ガルディスだった。
「セレナ」
「はい」
「シエラを頼む」
「承知しました」
「絶対に危険な場所へ近づけるな」
「旦那様」
「何だ」
「私は誰だと?」
一瞬。
ガルディスが黙る。
「……元Sランク冒険者だったな」
「お忘れなく」
「頼んだ」
そして。
ガルディスは走り去った。
迷いがない。
(やはり)
シエラはその背中を見る。
(剣士としては優秀じゃ)
父としては。
少々うるさいが。
「お嬢様。屋敷へ戻ります」
「……少しだけ」
「はい?」
「見る」
「危険です」
「ここから」
「…………」
セレナが眉を寄せる。
(さて、どう言えば納得するかの)
本来なら。
自分が危険に晒されることなどほとんどない。
だが。
そんなことを言えば理由を聞かれる。
「……お父様」
「旦那様が心配ですか?」
(別にそういうわけでは……)
そう言おうとして。
やめる。
(いや。そういうことにしておく方が自然じゃな)
シエラは小さく頷いた。
「……心配」
セレナの表情が。
ほんの僅かに柔らかくなった。
「少しだけですよ」
(ちょろいの)
決して口には出さなかった。
◇
遠く。
建物の隙間から。
巨大な影が見えた。
四足。
黒い外殻。
鋭い角。
大型の魔物。
少なくとも。
見た目だけならば。
(王都へ入り込んだことは珍しいが)
シエラは目を細める。
(それだけじゃな)
魔物が街へ現れる。
それ自体は世界の異常ではない。
偶然。
何らかの原因で侵入した。
それだけなら。
現地の人間たちが対処すればいい。
すでに騎士団が集まり始めている。
父もいる。
(あの程度なら問題ないじゃろ)
シエラは静かに見守る。
神である自分が何でも片づけてしまえば。
点検にならない。
その星の住民が。
その星の仕組みの中で問題を解決できるなら。
手を出す必要はない。
剣戟。
魔法。
叫び声。
騎士たちが巨大な魔物を包囲する。
その中央。
父が剣を振るった。
一閃。
距離があるにもかかわらず。
シエラには、その斬撃の鋭さがよく分かる。
(ほう)
初めて。
少し感心した。
(人間の身体で、ここまでやるか)
父だけではない。
騎士たちも。
互いを補い。
連携し。
巨大な相手を徐々に追い詰めていく。
(悪くない)
そして。
数分後。
ズズン――。
巨大な身体が。
地面へ倒れた。
「倒したぞ!」
「騎士団がやった!」
「さすが騎士団長だ!」
街から歓声が上がる。
シエラも。
僅かに息を吐いた。
(問題なしじゃな)
魔物が出た。
人間が倒した。
それだけ。
よくある出来事。
(さて。ケーキでも――)
そう思った。
直後。
一人の騎士が。
倒れた。
「……?」
シエラの目が止まる。
二人。
三人。
次々に。
剣を持って立っていた騎士たちが。
突然。
膝をつく。
「どうした!?」
「おい!」
「しっかりしろ!」
「治癒術師を呼べ!」
歓声が。
混乱へ変わる。
怪我をしている者だけではない。
後方にいた騎士まで。
倒れ始めている。
(……妙じゃな)
シエラは。
先ほどまでとは違う目で。
戦場を見る。
そして。
(…………)
気づいた。
(何じゃ、これは)
何かが。
漂っている。
普通の人間には見えない。
薄く。
黒く。
煙とも。
魔力とも違う。
それは。
倒れた巨大な魔物から漏れ出し。
周囲へ染み込むように広がっていた。
(これは)
シエラの表情から。
眠たげな気配が消える。
意識を集中する。
魔物を見る。
形。
肉体。
魔力。
表面的な構造。
確かに。
この世界の魔物によく似ている。
だが。
(違う)
根本が。
違う。
(この星のものではない)
この星の循環の中で生まれた生命ではない。
世界の構造と。
噛み合っていない。
外から。
別の場所から。
無理やり持ち込まれた異物。
(外来種……というには、少々厄介すぎるの)
そして。
そこから放たれている異質な力。
(瘴気)
自然と。
その言葉が浮かんだ。
(こやつは魔物ではない)
シエラは。
静かに。
目を細めた。
(……魔獣)
この世界に元から存在する魔物とは。
明確に区別する必要がある。
そう。
直感した。
(しかし、なぜじゃ)
この星の外から。
異物が入っている。
(まさか)
頭に。
同僚神たちの顔が浮かぶ。
(あやつらか?)
自分を。
田舎の村人から。
大公爵家の人形令嬢へ転生させた連中。
悪戯好きで。
暇があれば。
余計なことをする。
(また儂をからかうために――)
そこまで考えて。
止まった。
「……違う」
小さな声が漏れる。
「お嬢様?」
セレナが振り向いた。
シエラは答えない。
街を見る。
倒れた騎士。
苦しむ人々。
不安そうに泣く子供。
そして。
魔獣の近くに生えていた街路樹。
その葉が。
黒ずみ。
僅かに枯れ始めている。
(違う)
確信。
(あやつらではない)
同僚たちは。
確かに悪戯をする。
自分を令嬢にして笑う。
面倒な立場に放り込んで楽しむ。
だが。
そこには。
越えてはならない一線がある。
(この星の子らを、本当に傷つけるような真似はせん)
シエラたちにとって。
この星に暮らす生命は。
単なる数字でも。
資源でもない。
長い年月をかけて。
生まれ。
育ち。
増え。
文明を築いていく姿を見守ってきた。
子供のような存在。
(なら)
誰が。
その瞬間。
『今回は、少し気をつけてね』
転生前。
同僚の一柱が言った言葉が。
脳裏に蘇った。
(…………)
(まさか)
シエラは。
ほんの僅かに。
目を見開く。
(あやつら、何か気づいておったのか?)
なぜ。
自分を。
田舎の村人ではなく。
王国屈指の大公爵家へ転生させた。
(いや)
まだ。
考える材料が足りない。
(後じゃ)
今は。
目の前。
騎士たちが倒れている。
父も。
瘴気の中にいる。
(この程度なら、まだ間に合う)
シエラは。
馬車から降りようとする。
「お嬢様?」
セレナが止める。
「どちらへ?」
「……行く」
「いけません」
「……」
「旦那様からも、絶対に危険な場所へ近づけるなと言われております」
(さて)
シエラは。
セレナを見る。
先ほどまで。
柔らかくこちらを見ていた紫の瞳。
今は。
完全に護衛の目だ。
(なんと説明したものか)
瘴気を知っている。
自分なら取り除ける。
自分なら全員助けられる。
だが。
その理由を。
五歳児として。
自然に説明する方法など存在しない。
(こういう時に喋らない設定は便利じゃが、不便でもあるのう)
少し考える。
そして。
最も無難な言葉だけを選んだ。
「……助けられる」
「え?」
セレナが眉を寄せる。
当然の反応だ。
(まあ、信じるわけがないか)
だが。
シエラは。
小さな手でドレスの裾を持ち上げる。
(仕方ない)
ここから先。
ほんの少しだけ。
神の力を使う。
(神とバレさえしなければ、力そのものを使ってはならんわけではない)
幸い。
この世界には。
神へ祈り、その力を借りる。
神聖魔法というものが存在する。
(あれに見せかければよい)
それなら。
人間たちには。
違いなど分からない。
シエラは。
騒然とする王都へ視線を向ける。
(まったく)
胸の奥で。
白髭の老人だった神が。
ひどく面倒そうに息を吐く。
(今回は)
倒れた巨大な異物。
魔獣を見据える。
(何事もなく終わってはくれんようじゃの)
五歳の人形令嬢。
その小さな身体の中に眠っていた神が。
初めて。
この世界へ入り込んだ異常に。
本当の意味で目を向けた瞬間だった。
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