その1 はじまり ――影を踏む人たち
ある晴れた朝、女の子は足もとの影に話しかけた。
「ねえ、一緒に行く?」
女の子に友達みたいに話しかけられた瞬間、ぼくは目を覚ました。
「ぼくのこと? わかるの?」
「じゃあ、一緒に行ってあげる」
女の子はうれしそうに歩きはじめる。
ぼくも寄り添って歩く。
女の子は冒険に行くらしい。
行きたい場所があるみたいだ。
ぼくは、目的地を知らない。
でも、楽しそうなので、ぼくも冒険についていくことにした。
影を踏む人たち
影は踏まれるのが嫌いだ。
いや、べつに痛くはない。
でも、そういう問題じゃない。
「そこにいるってわかってて踏むの、感じ悪くない?」
誰に言っても聞こえない。
わかってる。
でも、言わずにはいられない。
人間だってそうだろう。
痛くなければ何をされてもいい、なんてことはないはずだ。
肩をつつかれるとか、頭をぺしっとされるとか、そういう小さいことでも地味に腹が立つ。
影にとって、踏まれるのはたぶんそれに近い。
いや、もっと嫌かもしれない。
こっちは地面に張りついていて、伸びたり縮んだりはできても、好きなように逃げ回れるわけじゃない。
だから、踏まれるたびにむっとする。
ただし、例外もある。
「……まあ、あるにはあるけど」
踏まれることで、その人が倒れずにすむなら、話は別だ。
そういうときだけ、ぼくは自分から足もとへ行く。
とはいえ、助けるのは目の前で起きたときだけ。
ぼくは正義の味方じゃない。
べつに助けたいわけじゃない。
ほんとだ。
転ばれて泣かれたり、空気がどんよりしたりするのが面倒なだけ。
……たぶん。
朝の歩道
朝はよくない。
みんな急いでいて、
前しか見ていない。
足元にいるものの気持ちなんて、
たぶん一ミリも考えていない。
朝の歩道を、女の子がてくてく歩いていく。
人とすれ違うたび、ぶつからないように、ほんの少し端へよける。
すると、後ろから革靴の音が近づいてくる。
こつ、こつ、こつ。
「やな予感」
次の瞬間。
ぐり。
「……踏んだ!」
会社員っぽい男が、ぼくの肩口を遠慮なく踏みつけ、そのまま通り過ぎていった。
「ちょっと! 今の、完全に見えてたよね!?」
もちろん返事はない。
あるわけがない。
男は何事もなかったみたいな顔で、そのまま駅のほうへ消えていく。
「謝罪って知ってる? 人として」
その直後、今度は学生服の男子が追い抜いていった。
ぐいっ。
「また踏んだ!」
さらにそのあと、買い物袋を提げたおばさんが、かかとでずしっと。
当の本人はそんなこと知るはずもなく、前を向いたまま歩いていく。
ぼくは足もとで、ひとり勝手にむっとする。
「せめて避けようって気持ちを見せてほしいんだけど」
自転車
そこへ、横から自転車が一台、しゃっと通り抜けた。
前輪がぼくをかすめ、後輪がきっちり追撃していく。
「うわっ」
最近は、歩道はだめだとか、
いや、いいときもあるとか、
いろいろややこしいらしい。
車道が怖いのもわかる。
いつもの道を、いつものように走りたい気持ちも、まあわかる。
でも――
歩道を通るなら通るで、
もう少し遠慮してくれてもよくない?
少しして、もう一台。
しゃっ、しゃっ。
「いや、連続は聞いてないって!」
三台目は友達と並んで笑いながら走ってきて、ためらいゼロでぼくの上を通過した。
「ちょっと待って。朝の道、足もとに厳しすぎない!?」
そんなことをぶつぶつ言っていた、そのときだった。
女の子の足が、ふらりと揺れた。
「え」
歩道の端の、ほんの小さな段差。
たぶん、見えていなかったんだろう。
リュックの重みで、体が少し前に傾く。
「あ、ちょ、待っ――」
考えるより先に、
ぼくは女の子の足先へ、するりとのびていた。
女の子の靴が、ぐっとぼくを踏む。
その一歩だけ、妙に深く。
次の瞬間、崩れかけた体がぴたりと戻った。
前につんのめりそうだった勢いが、そこでふっと消える。
まるで最初から何もなかったみたいに、女の子はそのまま一歩を踏み出した。
「……よし」
女の子が、きょとんとして足元を見る。
でも、見えるのはいつもの朝の道と、自分の影だけだ。
もちろん、ぼくのことなんて気づかない。
「いや、気づかなくていいんだけど」
ぼくは何でもないふりをする。
踏まれたところが少しむずむずしたけど、それも黙っておく。
「今日は特別だからな」
「毎回やると思うなよ」
「次はちゃんと前を見て歩いてよ、ほんとに」
女の子は何も知らないまま、また歩き出す。
白いスニーカーが、こん、こん、と軽く鳴る。
ぼくはその足もとに戻って、ふうと息をついた。
息なんてないけど、気分として。
踏まれるのは嫌いだ。
それは変わらない。
でも。
「まあ……あの一歩のためなら、今回は許す」
そういう日くらいは、ある。




