6. 運が悪い
「彼方危ない!」
「きゃっ!」
それは突然の事だった。
彼方の羞恥心問題が治まりはじめ、テストが全て返却されて夏季休暇まで一週間を切ったある日のこと。
学校から帰宅中の二人は信号の無い交差点を渡る途中に乱暴な運転をする車に遭遇して慌てて避けた。
「危ないなぁ。彼方大丈夫だったか?」
周囲をちゃんと確認しながら渡っていたので早めに気付いて余裕をもって避けられた。
命の危機を感じるとまで行かなかったからだろうか、怖いというよりも驚いたという気持ちの方が強かった。
しかしそんな呑気に感じていたのは優斗だけだった。
「いやああああああああああああああああ!」
「彼方!?」
彼方は真っ青になり頭を両手で抱えて絶叫しながら蹲ってしまったのである。
――――――――
「はい、お水」
「ありがとう」
彼方を家に連れ帰った優斗はリビングのソファーに並んで座った。
彼方は水の入ったコップを持って項垂れているけれど、今はもう怖がっている様子は無かった。
「迷惑かけちゃってごめんね」
「何言ってるんだ。俺はドMだから迷惑かけられて嬉しいんだぞ」
「ふふ、馬鹿」
茶化して笑い合えるくらいには空気は重くなかった。
それは恐らく彼方の錯乱が比較的軽い物だったからだろう。
『だい……じょぶ』
あの時、彼方は直ぐにそう言って立ち上がったのだ。
苦しく辛そうな顔をしながらも無理矢理笑顔を作って優斗を安心させようとした。
そうするだけの心の余裕が残されていた。
『篠ヶ瀬君が居てくれるから、大丈夫』
だがそれでもダメージを負ったことに違いはない。
彼方は優斗の温もりを求めて寄りかかり、肩を抱かれるようにして歩いて帰った。
今回ばかりは気恥ずかしいだなんて感覚はこれっぽっちも湧いてこなかった。
「さて、何から話そっかな」
優斗が何かを話すように要求したわけでもなく、彼方は自分から説明すると言い出した。
知って欲しかったのか、優斗が知りたがっていることを察していて伝えたかったのか。
あるいはその両方か。
「別に彼方が言いたくないなら言わなくて良いぞ」
「嘘つきさんだね。知りたくてたまらないって顔に出てるよ」
「マジか。洗ってこないと」
彼方の心は確かに正常に戻った。
恋心に悩めるほどに回復している。
だがそれは彼方のトラウマが解消されたという訳では無い。
普通に苦しむようになった、というだけの話なのだ。
そのことに優斗は気付いていたからこそ、咄嗟の出来事にも慌てずに対応できた。
今もこうして余裕そうに軽口を叩いて彼方をリラックスさせようと自然に振舞えている。
「お父さんとお母さんはね、とても運が悪かったの」
ついに語られる彼方の事情の一端。
それはこんな切り口で始まった。
少しだけ震えていて怖がっているけれども、落ち着いているように見える。
内心では恐ろしい現実を受け入れようと戦っているだろうに。
自分に出来ることは今までと変わらない。
こうして傍に居て見守ることだけだと優斗は思う。
「運が悪い?」
「そう。笑える話もいっぱいあるからいつか教えてあげるね」
「ああ、楽しみに待ってるよ」
つまり今から話すのは笑えない話なのだろう。
「お父さんもお母さんも会社に恵まれなかったんだ」
「会社?」
「そうなの。子供の私が言うのもなんだけど、二人とも優秀だったんだよ。でも悉く『嫌な人』と一緒の部署に配属されちゃって、人間関係が原因で会社を転々としてた」
能力の高さに嫉妬した上司が仕事を回さなかったり、犯罪行為の片棒を担がされそうになったり、お局様に睨まれて徹底的にいびられたり、まともに仕事をさせて貰えず給料も全然上がらない。
二人の性格やコミュニケーション能力に問題があったわけではない。
誰が配属されても病むだろうという問題児が所属する部署に何故か配置されてしまうのだ。
「お父さんが最後に勤めていた会社も大変だったみたいで、最近はずっと家に帰って来なかったの」
「忙しかったんだ」
「どうなんだろう」
人間関係が問題というのなら仕事量では無い別の理由で帰れなかった可能性もある。
「詳しい事は話してくれなかったから分からないけど、これまでの会社よりもお給料が良かったから頑張ってたみたい」
だが果たしてその給料が本当に正しく支払われていたのか。
何日も帰れない程の仕事量に見合っているのか。
その辺りの感覚はまだ社会経験の無い二人にはピンとこなかったようだ。
「日曜日の午前中だった。あの日もお父さんは目に深いクマを作って帰って来たの。何日ぶりに帰って来たのかなんてもう覚えてないや」
それほどまでに会社への泊まり込みが常態化していたのだろう。
『ただいま』
『お帰りお父さん。凄い顔してるよ?』
『はは、少し眠らせてもらうよ』
『少しじゃなくてちゃんと寝なきゃダメだよ』
『でもこの後用事があるんだ』
『用事って、また仕事に行くの?』
『ううん、それとは違う用事さ。ふわぁあ、それまで仮眠するよ。ごめんな、ほったらかしにして』
『そんなのどうでも良いからちゃんと寝てよお父さん!』
『おやすみ~』
『もう、お父さんったら!』
そんなに疲れていて眠れるのか。
あるいは一旦眠ったらしばらく起きられないのではないか。
そんなことを思ったけれど、父親はたった三時間の睡眠で目を覚ました。
『それじゃあちょっと出かけて来るよ』
『本当に行くの?』
『ああ、途中で母さんと合流して帰るから』
『そういえばお母さん午後休みって言ってたっけ。もしかしてデートだったりして』
『バレちゃったか。偶然同じ日に休みが取れそうだったから久しぶりにデートしようって話してたんだ』
『それならそうと言ってくれれば良かったのに』
『彼方に言うのは恥ずかしくてな』
『あはは。でも疲れてるんだから気を付けて楽しんで来てね』
『ああ、分かってる。夜には帰るから一緒にご飯を食べよう』
『うん!』
それが彼方が見た父親の最後の姿だった。
「それからしばらくしてけ、警察から連絡が来て、お父さんが運転する車が…………じ…………事故…………を…………」
優斗は彼方に寄り添い、優しく肩を抱いた。
もういい。
もう思い出さなくていい。
そう言いたいけれども歯を食いしばりぐっとこらえた。
彼方は今、自分の辛い記憶と向き合おうとしているのだから。
「まさか……あんな状態で……車なんて運転すると思わなかった……思わなかったよ!」
普段の父親なら危険なことは絶対にしなかった。
だから今回も車では無くて徒歩で街まで行くのかと思っていた。
「知ってたら止めたのに! 絶対に止めてって言ったのに! お父さんの馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿!」
口をついた言葉は止まらない。
「何で私を残して死んじゃうの! 誕生日プレゼントなんてどうでも良いから傍に居てよ! うわああああん!」
優斗の胸に顔を押し付け、溜まりに溜まった悲しみを吐き出した。
その想いをしっかりと受け止めながら優斗は思う。
「(そうか、彼方のご両親は誕生日プレゼントを買うために出かけたのか)」
疲れた体を押してでも出かける理由はデートでは無かったのだ。
彼方への誕生日プレゼントを母親と一緒に買い、夜にささやかな誕生日会を開催するつもりだったのかもしれない。
買うつもりだったプレゼントが大きい物だったのか、それとも誕生日会のために沢山買う予定のものがあったのか。
だから車を運転してしまったのだ。
彼方が喜ぶ姿を見たくて、無茶をしてしまったのだ。
そしてそのことに彼方は気が付いていた。
「おどうざんのばか。おどうざんのばか。おどうざんのばがああああ!」
それからはもう言葉にならなかった。
「お願い。こっち見ないで」
ひとしきり泣いた後、彼方は優斗から離れると慌てて背中を向けた。
泣きすぎて顔が酷いことになっていると気付いたからだ。
乙女心が復活する程度には落ち着いたらしい。
「篠ヶ瀬君、ありがとう」
「どういたしまして」
優斗がそばにいたからこそ、彼方は両親の死を見つめ直すことが出来た。
まだ完全に受け入れられたわけではないけれど、一歩前に進めた気がする。
「(ううう、また恥ずかしいところを見せちゃった)」
でもそれはとても心地良い恥ずかしさだった。
これなら何度でもフラッシュバックしても良いのにと思えるのだが、現実は無情である。
「なあ彼方。一つだけ良いか」
「なあに?」
優斗は彼方の話に同意も否定もするつもりは無かった。
彼方がそれらを求めている訳では無いと気付いていたから。
だけれども一つだけどうしても言っておきたいことがあった。
「彼方のご両親って別に運が悪くないんじゃないかな」
「どうして?」
詳しい事は知らないが、両親が会社での辛い話をわざわざ娘に聞かせることは普通なら無いのではと優斗は考えた。
それでも彼方が辛さの一端を知っているという事は、隠しきれずに漏れてしまう程に劣悪な環境だったのだろう。
恐らくは彼方が想像しているよりも遥かに酷い状況だったはずだ。
だがそれでも優斗は彼らが運が悪いなどと思えなかった。
「だって彼方が生まれて来たんだからさ。最高に運が良いはずだよ」
「!?!?!?!?」
まさかの落とし文句に彼方の悲しみは一気に吹き飛ばされるのであった。
「さ、ささがしぇくんのばかぁ!」