そのさん
それは激戦だった。
2016年、皐月賞。
とても風の強い日だった。
芝コース、2,000メートル、中山競馬場に選ばれた18頭が集う。
勝者はただ一頭。
選び抜かれた血の歴史が交錯し、負けるはずのない強者が土にまみれる。
一番人気はサトノダイヤモンドだった。
しかし、煌めく才能は観衆を迷わせ、差のない二番人気にリオンディーズ、そこにマカヒキが続いた。
前走で力負けを喫したエアスピネルは離れた四番人気に甘んじた。
スタート直後、闘争心に火のついたリオンディーズは鞍上(鞍の上。騎手を指す。)のミルコ・デムーロの静止を振り切り早々に前を追いかけ、ついには先頭に立ってしまう。
逆転を目指すエアスピネルがそれをマーク、サトノダイヤモンドがそれに続く。
マカヒキは直線一気を目論み最後方に。
向こう正面は強烈な向かい風。
先頭に立ち、遮るもののない強風が容赦なくリオンディーズの体力を奪っていく。
それでいて前半1,000メートルの通過タイムは58秒4の、超ハイペース。
完全に暴走だった。
好機とばかりにエアスピネルらがリオンディーズに襲いかかる。
一般的にこうした暴走をした馬は馬群に飲み込まれるだけだ。
しかし、リオンディーズはやはり怪物だった。
彼が作った異常なハイラップによって、追いかけた先行馬は次々と潰れていく。
先行馬のなかではエアスピネルだけが、賢明にリオンディーズに食らいついていた。
ただ、怪物はリオンディーズだけではない。
さすがに疲れたのか、リオンディーズは騎手ミルコの右鞭による激が堪え、左に大きくふらつく。
これにより進路を塞がれたエアスピネルが左に向くと、またこれに不利を受けたのは追撃する天才・サトノダイヤモンドだった。
二頭は一度は脚勢を削がれるも、これに怯まず疲れ切ったリオンディーズを交わしにかかる。
まさに、死闘。
選び抜かれた18/6,825頭にあって、この先頭争いに加わる権利を持つのはさらに限られた天賦の才。
各地の重賞(グレードレース。一般のレースよりも格が高い。)の覇者たちが、惨めにも置いていかれ、敗者の烙印を押される。
その、前を行く三頭を飛ぶようなスピードで交わそうとする姿がさらに「二頭」。
一頭はもちろん、後方で体力を温存して父親譲りの鬼脚を繰り出すマカヒキ。
そしてもう一頭は、ここまで秘めたる才能をこの大舞台で解き放とうとする伏兵・ディーマジェスティだった。
※※※
それは20年前のこと。
一頭の牝馬が死の淵にあった。
その馬の名はシンコウエルメス。
調教中の事故により、彼女の脚の繋(馬の足先のこと)の骨には捻れるような亀裂が入っていた。
獣医は調教師に彼女の安楽死を勧めた。
500キロにおよぶ体重を支えるサラブレッドの脚は、たとえ一本でも損なわれれば四肢の壊死に繋がり、死に至る。
しかし、調教師は僅かな可能性に賭けて、彼女を生かしてくれ、と言った。
ディーマジェスティにまつわるドラマはそこから始まる。
大手術だったという。
繋の骨をつなぎとめるために交差するように打ち込まれたボルトは実に6本。
3時間に及ぶ手術は、奇跡的に成功した。
シンコウエルメスは北海道の牧場で母親となり、4頭の子供を産んだ。
そのうちの1頭がエルメスティアラという。
そのエルメスティアラが2013年に産んだディープインパクトの仔がディーマジェスティだ。
あの時奇跡的に繋がれた命は血脈となり、彼の身体に流れる。
※※※
信じられない光景だった。
サトノダイヤモンドの追走に必死に抵抗する怪物・リオンディーズを並ぶ間もなく交わす脚は、前走で彼を下したマカヒキのものではない。
テレビ中継の解説をしていたかつての名騎手・岡部幸雄はディーマジェスティの閃光のような脚についてレース後こう回顧した。
「ディープインパクトそのものですね。」
マカヒキも自慢の末脚を繰り出すも、彼には届かない。
1着ディーマジェスティ。
2着マカヒキ。
3着サトノダイヤモンド。
4着にはリオンディーズが入ったが直線での進路妨害をとられ、エアスピネルと入れ替わって5着となった。
タイムは1分57秒9のレースレコード。
古馬(4歳以上の馬)屈指の強豪・ラブリーデイの樹立したコースレコードにもコンマ1秒に迫るタイムは3歳春の若駒としては破格のものだ。
4強がいずれも敗れる波乱。
しかし、リオンディーズが作り出した乱ペース恩恵を受けたとも言えるマカヒキが2着に来たことが、皮肉にもこのディーマジェスティの走りがフロックでないことを証明している。
4強でない、5強だったのだ。
※※※
この世代のレベルの高さを語るのは我々ファンだけではない。
弥生賞、皐月賞でエアスピネルに騎乗した武豊はそれぞれのレース後にこう回顧している。
「不思議な感覚です。いいレースができて、馬自身は最後までしっかり走っています。普通なら勝てるレベルの内容で3着でした。今年の馬たちは強いです」
「レースとしては思い通りの走りでレース前も落ち着いていた。陣営の努力のおかげです。
ただ、上位の馬は強かった。不利は痛かったけど、それでも上位の馬は強かったです」
ダービーを5勝した武豊すら、今年の世代のレベルの高さに賛辞を惜しまない。
血のドラマを楽しむのもいい。
余暇としての賭け事を楽しむのもいい。
一つ確かなのは、今日ここにあるのは最高のエンターテイメントだということだ。
最高の日本ダービーが、やってくる。