名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
まだらの帯 ―― 名探偵 藤原彰子の宮中事件簿『転生皇后・藤原彰子』スピンオフ外伝
中宮・藤原彰子のもとへ、一人の女房が夜明け前に助けを求めて駆け込んできた。継父の邸で姉が不可解な死を遂げ、自分も同じ部屋へ移されたという。姉が最期に残した言葉は――「まだらの帯」。人々が物の怪の祟りを噂する中、転生者・彰子は怪異を信じず、邸の造り、人の利害、そして小さな違和感を積み重ねて真相へ迫る。
私が梅壺に仕えてから後、彰子様の御前では、実にさまざまなことが起きました。
女房同士の諍い、歌詠みに隠れた争い、噂好きの暴走、そして、才ある女たちが周囲の娯楽として戦わされそうになるのを止めること。どれもこれも、宮中という雅な檻の中では、刀傷より深く人を傷つけるものばかりでした。
けれど、その中でも、いまなお思い出すたび背筋に冷たいものが走る事件があります。
のちに私は、それを心のうちで「まだらの帯」と呼ぶことになります。
あれは、彰子様がまだ梅壷の主として宮中に根を張りきる少し前――しかしすでに、物事を人の感情ではなく構造で見抜くあのお方の恐ろしさが、梅壺の内では十分に知られ始めていた頃のことでした。
人が本当に追いつめられている時は、時刻を気にしません。本当に重大な相談はだいたい雅ではない刻にやって参ります。
その朝、私はまだ寝起きのぼんやりした頭で髪を整えておりました。春浅い明け方で、几帳の向こうは青白く、灯の火がかえって寒々しく感じる刻でした。
そこへ、常ならぬ足音が響きました。澄子でも若菜でもない。もっと切迫した、小走りを押し殺した音でした。
「赤染衛門さま、お目覚めでございますか」
低くひそめた声で呼ぶのは、大輔の君でした。私はすぐに気配を改めます。
「何事です」
「お客人にございます。中宮様に、今すぐお目にかかりたいと」
「このような刻限に?」
「はい。女房でございますが、ひどく取り乱しておられて……」
私は息をつきました。嫌な予感しかありません。
急いで衣を重ね、梅壺の奥へ参ると、すでに彰子様は起きておられました。こういう時の彰子様は、寝起きでも驚くほど静かです。黒髪も衣の乱れもほとんどなく、ただ扇だけを指先で軽く持っています。
「衛門」
「はい」
「早かったですね」
「お目覚めもお早うございましたね」
「眠れぬ気がしておりました」
さらりと言われると、こちらは何も言えません。たぶん本当にそうなのでしょう。彰子様は、事件が近づくと空気で気づくところがあります。
案内されて入ってきた女房は、年の頃二十代の終わりほど。身なりはきちんとしているのに、袖口は乱れ、顔色は青く、目の下に眠れぬ影が濃い。髪もよく見れば、ところどころ白いものが混じっていました。
恐れ多くも帝のお后の御前です。平素ならもっと礼を整えるべきですが、その女房は、膝をついた途端に震えていました。
「お助けください、中宮様……」
声がかすれています。彰子様はすぐに、真正面からではなく、少し横にずれて座らせました。追いつめられた者は、正面から見られるだけで息が詰まるのだと、彰子様よく知っておられます。
「寒いのですか」
「……寒いのでは、ございません」
「では、恐ろしいのですね」
女房ははっと顔を上げた。
「どうして、それを……」
「手が冷えておりません。けれど震えています。体ではなく、心が怯えている時の震えです」
私が横で小さく息を呑むと、彰子様はこちらを見ずにおっしゃる。
「衛門、書きとめます。名を」
「承っております」
私は紙を開き、筆を取りました。
「名を申しなさい」
「中務の命婦と申します……」
「よろしい。何が起きたのですか」
そこで彼女は、一度きつく目を閉じ、絞るように言った。
「このままでは、姉と同じように、私も死にます」
部屋の空気が、一段冷えました。
事情は、こうでした。中務の命婦は、かつて地方に大きな所領を持った家の娘であったが、今はその後見を失い、姉妹で母方の縁を頼って暮らしていました。母はすでになく、二人の姉妹は継父である右京大夫兼家朝臣の邸に引き取られているといいます。
右京大夫兼家朝臣は、もとは才覚ある医道の家に学び、若い頃には大陸渡りの唐人や南海の商人とも交わったことがあるという話です。薬や毒、珍しい香や獣に詳しく、気性はひどく荒い。宮中にも顔を出すが、人づきあいは悪く、怒れば供の者を殴り、下働きの者たちは皆おびえているといいます。
さらに困ったことに、その邸には、南方から取り寄せた異様なものがいくつもいました。人に馴れぬ猿。毒虫の入った箱。夜になると離れに放される山猫。そして、諸国を巡って加持祈祷や薬売りをする放浪の法師たちを、よく敷地に泊めていたそうです。
私はそこまで書きつけながら、だんだん眉が寄ってきた。要するに、近づきたくない種類の男です。
中務の命婦は続けました。
「姉は二年前、縁談がまとまりかけておりました。相手は真面目な受領の子で、姉もやっと心穏やかになりかけていたのです。けれど婚儀を前に……ある夜、急に亡くなりました」
「病ではなく?」
「いいえ。何の徴もございませんでした。夕刻まで普通に話しておりましたのに」
その夜、姉は邸の西の対にあった自室で寝ていました。
部屋の並びは、まず継父・兼家朝臣の寝所、その隣が姉、そのさらに隣が中務の命婦の部屋。三つは廊でつながるが、部屋と部屋を直接行き来する戸はありません。
「その夜、姉は私の部屋へ参りまして、婚儀の話をしておりました。そして帰り際に、こう申したのです。
――『この頃、夜更けに妙な笛の音がする。そなたは聞かぬか』と」
「笛」
「はい。ごく低く、短く、一声だけ。夜の丑の刻あたりに……」
私の筆が止まった。彰子様は「続けて」とだけ言われる。
「私は聞いたことがないと申しました。姉は笑って帰りましたが、その夜……私は何ともいえぬ胸騒ぎで眠れずにおりました。すると、嵐の音の中で、姉の叫びが聞こえたのです」
中務の命婦の唇が震える。
「私は飛び起きて廊へ出ました。その時、確かに――あの短い笛の音を聞きました。続いて、何か硬いものの鳴る、小さな音も」
そして姉の部屋の戸が開き、姉は真っ青な顔でよろめき出てきました。苦しみ、もがき、何かを指さし、こう叫んだといいます。
「まだらの帯……!」
それだけ言って、姉は息絶えました。
私は思わず筆を置いた。ぞくり、としたのです。
「検分は?」
と、彰子様。
「ございました。けれど、傷は見つからず、毒の気配も分からず……戸は内から閉ざされ、格子も破られておらず、姉ひとりで死んだとしか」
「なるほど」
彰子様は一度扇を膝に置きました。
「そして、昨夜」
「……はい」
中務の命婦の肩が跳ねた。
「邸の古い一棟を直すと言って、私の部屋が使えなくされました。壁が崩れるからと。そこで私は、姉が死んだあの部屋へ移されたのです」
そこまで言って、彼女はとうとう顔を伏せた。
「昨夜、聞こえたのです。あの笛が。姉が死ぬ前に聞いたという、あの短い笛の音が……」
沈黙が落ちた。
几帳の向こうで、朝の気配だけが少しずつ明るくなります。私は自分の喉が乾いていることに気づきました。
「それで、夜明けとともに抜け出して参りました。もう、あの部屋には戻れませぬ。けれど逃げれば継父に追われます。どなたに申しても、女の怯えすぎだと笑われるばかりで……」
そこで初めて、彰子様は深く息をつかれた。
「笑う者は、安全な場所から話を聞いているだけです」
その声はやわらかかったが、少し冷たかった。
「命婦。あなたは『間違っていますか』と確かめに来たのではありませんね」
中務の命婦は涙のにじむ目で見上げる。
「……はい」
「助けを求めに来たのでしょう」
「はい」
「ならば、助けます」
私はいつも、この一言の速さに驚く。状況を聞き、怯えを測り、助けると決めるまでが早い。しかも、その決定に迷いがありません。
「衛門」
「はい」
「今日の昼、兼家朝臣の邸へ参ります。支度を」
「御自ら」
「こういう話は、文のやりとりで済ませると死人が出ます」
その物言いに、中務の命婦が青ざめました。彰子様はすぐ続ける。
「安心なさい。まだ死んでおりません。だから間に合います」
そして扇を軽く閉じます。
ぱちり。
「まずは、見ます」
その日の昼、私たちは目立たぬように少人数で邸へ向かいました。
とはいえ、中宮様がお出ましになる以上、完全に人目を避けることなどできません。御簾を垂らした牛車の前後には、中宮職の舎人や随身たちが静かに供をなし、弓と太刀を帯びた数名の郎党が、周囲へ絶えず鋭い視線を巡らせています。華美な行列ではありませんが、その張りつめた気配だけで、道行く人々は自然と道を譲りました。
彰子様、私、澄子殿、常盤殿、それに中務の命婦。表向きは、病を訴える女房を見舞うための外出という名目です。中宮様自らのお運びとあれば、相手もむげには扱えません。
右京大夫兼家朝臣は都に出ているということで、邸にはいませんでした。それは願ってもないことでした。
邸は古く、長く、どこか冷えた空気をまとっていました。庭の奥には手入れされぬ草、端には見慣れぬ籠、獣の気配。私は本気で帰りたくなりました。
「衛門」
「顔に出ておりましたか」
「少し」
「お恥ずかしい」
「正直でよろしいです」
よろしいのかな、と私は思いましたが、口には出しません。
中務の命婦に導かれ、問題の西の対へ向かいます。三つ並んだ部屋は話どおりだった。端が命婦の本来の部屋、真ん中が姉の死んだ部屋、奥が兼家朝臣の寝所。
「まず外から見ます」
彰子様は、廊ではなく庭側へ回られました。
格子、蔀、壁、床下の通気、軒の高さ。何を見ているのか私には分かりませんが、彰子様は一度目を走らせただけで、いくつかの箇所に視線を止めました。
「格子は堅いですね」
「はい。夜はしっかり下ろします」
「壁に新しい直しは」
「ございません」
「部屋替えの理由になった壁崩れは、どこです」
中務の命婦は自分の部屋の外壁の一部を示した。確かに少し壊されています。
しかし彰子様は、そこをじっと見てから言われました。
「……急いで修理すべきほどではありませんね」
私はその一言で、背中が冷えました。それはつまり、部屋替えが偶然ではないかもしれないということです。
次に邸の中へ入ります。姉が死んだ部屋は、質素で、整っていて、妙に狭く感じました。寝台、文机、小さな唐櫃、衣桁。何の変哲もない。むしろ、変哲がなさすぎます。
「どこで寝ているのですか」
「ここでございます」
中務の命婦が示した寝台へ、彰子様は近づきました。枕のあたりを見て、それからふと上を見る。
「衛門」
「はい」
「見えますか」
私も目を上げます。そこには、寝台のすぐ脇に、鈴を引くための細い組紐が垂れていた。
「ああ、女房を呼ぶ紐でしょうか」
「引いてみなさい」
私は命じられるままに引いた。
――動きません。
「……あれ」
もう一度引く。だめです。紐は垂れているだけで、どこにもつながっていません。
「飾り、でございますか」
「ええ。ただの飾りです」
ぞわり、としました。飾りの紐が、寝台の脇に、ちょうど枕元へ垂れています。意味があるようにしか見えない位置で。
彰子様は今度、その紐の上をたどるように視線を上げられました。
「……通気の小窓」
そこには、天井近くの壁に、小さな穴が開いていました。私は眉を寄せます。
「外へ抜けるのでしょうか」
「いいえ」
「え」
「その向こうは、兼家朝臣の寝所です」
私の手から、筆入れが落ちそうになりました。
「隣の部屋との間に通気?」
「変ですね」
「変でございますね!」
もはや私は小声を保てなかった。だが彰子様はむしろ静かになっていく。
「紐は飾り。小窓は隣室へ通じる。寝台はこの位置」
そこまで言って寝台の脚を見る。そして、しゃがみこんだ。
「……動きません」
「何がです」
「寝台です。床に固定されています」
私は一瞬、意味が分かりませんでした。でも分かった途端、背中に汗が走ります。
どうして寝台を動かせないようにする必要があるのか。
どうして枕元の真上に、飾りの紐と、小窓があるのか。
彰子様は立ち上がり、今度は兼家朝臣の寝所へ入られた。
隣室には、いかにも気難しい男の部屋らしい道具がありました。大きな長持。薬草や香木の箱。分厚い書物。そして寝台のそばに小机、その上に小さな乳の皿。
「猫でも飼っているのでしょうか」
私がそう言うと、中務の命婦は首を振った。
「この部屋には何も」
「山猫にしては小さすぎます」
彰子様はそう言って、今度は壁際に立つ丸椅子を見た。踏み台にしやすい高さです。さらに、壁に掛けられた細い革帯を取ります。先が輪になっていました。
「これは……」
「何かを吊るすには奇妙です」
「まさか」
「たぶん、その“まさか”です」
私は喉を鳴らしました。それでもまだ、はっきりとは分かりません。いいえ、分かりたくないのかもしれません。
「姫様、もしや」
「衛門」
「はい」
「人は、戸を閉め、格子を下ろし、外から入れぬ部屋なら安全だと思います」
「はい」
「けれど、危険が“内側の構造”に埋め込まれていたら?」
私は答えられませんでした。中務の命婦は蒼白のまま立ちつくしています。
「姉御の最期の言葉は、“まだらの帯”でしたね」
「はい……」
「それは、目に見えたものを、そのまま言った可能性が高い」
「帯、でございますか」
「帯に見えたのでしょう。暗がりで、細く、まだらで、するすると動くものが」
そこで私はようやく、すべてが一本につながりました。
小窓。飾りの紐。固定された寝台。乳の皿。輪のついた革帯。夜更けの短い笛。
「……蛇」
自分の声が、ひどく乾いて聞こえました。中務の命婦が震えた。彰子様はうなずかれた。
「おそらく。しかも、扱いに慣れた者が、笛で合図を送り、戻す」
「そんなことが……」
「南海や異国の毒蛇なら、ありえます」
私は思わず口を押さえました。ぞっとする。そんなものが、夜ごと、眠る女の枕元へ落ちてくるのだ。
「では、姉君は……」
「噛まれたのでしょう。毒が強く、痕が小さく、見落とされた」
中務の命婦の膝が崩れかけ、澄子が支えた。
「継父が……姉を……」
「断定は夜まで待ちます」
彰子様の声は厳しかった。
「推測で泣くと、相手に逃げられます。いま必要なのは証です」
その言い方の冷静さに、私は逆に救われました。取り乱せば終わります。ここで理を失わないのが、彰子様の強さです。
「今夜、確かめます」
「今夜……?」
「ええ」
「その部屋に、お入りになるのですか」
「私と衛門が」
「わ、私も!?」
思わず声が裏返ってしまいました。彰子様がちらりとこちらを見られる。
「嫌ですか」
「嫌か嫌でないかで申せば、非常に嫌でございます」
「正直でよろしいです」
またそれです。
「ですが、私一人では後で証言が弱い。見た者が二人必要です」
「……承りました」
私は腹を括りました。こういう時、結局はついていく以外にはありません。何より、彰子様お一人を蛇のいる部屋に置くなど論外です。
「命婦」
「は、はい」
「今夜、兼家朝臣が戻ったら、いつも通りにふるまいなさい。そして寝所に入った後、あなたは頭が痛いとでも言って、自分の元の部屋へ下がる。そこから、兼家朝臣が完全に寝所へ引いたのを確かめたら、あの部屋の格子を少しだけ開け、灯で合図を出しなさい」
「はい」
「その後は決して戻らない。朝まで、どこでもよい、安全なところへ籠もるのです」
「姫様……」
「助けると言いました」
中務の命婦は、はじめて本当に泣きました。
夜というものは、待っている時ほど長い物です。私たちは邸の近くに控え、合図を待ちました。風はぬるく、虫の声さえどこか不穏に聞こえます。
中宮様をお守りする随身や郎党たちは皆、「我らもお供を」と申し出ました。しかし、大人数で踏み込めば相手に悟られてしまいます。彰子様は静かに首を振られ、彼らには邸の外を固めるよう命じられました。
部屋へ入るのは、彰子様と私だけです。
「衛門」
「はい」
「筆は置いてきましたね」
「こんな時に記録を取れと仰せなら、本気で泣くかもしれませぬ」
「いえ、音が出ると困るので」
「よかった……よくないですが」
そんなやりとりをしているうちに、やがて闇の中、あの部屋の格子の内で灯がひとつ、かすかに揺れました。
「参ります」
私たちは音を殺して庭を横切り、格子から中へ入りました。中は真の闇です。灯はすぐに消されたのでしょう。彰子様が私の耳元で、ごく小さく囁きます。
「声を出さない。灯もつけない。あの小窓を見て」
「はい」
「何か落ちても、私が合図するまで動かない」
「……はい」
たぶん、私の返事は震えていました。私たちは寝台から少し離れた場所に座り込みました。呼吸さえ大きく聞こえます。闇の中で、隣室の気配に神経が張りつめます。
どれほど待ったのか分かりません。ときおり、廊を渡る風が鳴ります。遠くで獣のうなるような音がする。私は心の中で何度も念仏を唱えました。
その時。
隣室に、かすかな光がともったのです。小窓の向こうに、ほんの一瞬だけ、灯の揺れが見える。次いで、何か油のような匂い。獣とも薬ともつかぬ、嫌な気配。
そして。
ぴい――
低く、短い笛の音がなりました。私は全身が強ばった。本当にあったのです。あの話は、女の思い込みではありませんでした。
その直後、闇の中で、さらり、と絹ずれにも似た、ごく細い音がしました。
小窓のあたり。紐の上。何かが、するすると下りてくる気配。私は見えません。でも、確かにいます。
その次の瞬間、彰子様の手が閃きました。
火打ちが鳴り、灯心に火が移るより早く、彰子様は用意していた細い青竹で、枕元の紐を激しく打ったのです。
ぴしっ、と乾いた音。私はそこで初めて見えました。
まだらの斑を持つ、細長いもの。紐に絡むように下りてきていた、小さな蛇。私は危うく悲鳴を呑み込みました。蛇は打たれて身を翻し、信じがたい速さで小窓へ戻ります。
同時に、隣室から響きました。。それは人の声とは思えぬ叫びでした。怒り、恐怖、苦痛が一緒くたになった絶叫。一度、二度、引き裂くように上がり、やがてどさりと何かの倒れる音。
そして、静寂。
私はその場で凍りついていました。彰子様だけが、いつもの静かな声で言われます。
「灯を」
私は震える手で灯を守ります。彰子様は立ち上がって言いました。
「終わりました。たぶん」
「たぶん、とは」
「蛇が、戻る相手を間違えなければ」
「ひっ」
「参りますよ、衛門」
私はその短い言葉で、半ば引きずられるように隣室へ向かいました。
そこで兼家朝臣は、椅子に座ったまま絶命していました。片手には、例の輪のついた革帯。机には、小さな乳の皿。そして肩口から胸にかけて、あのまだらの蛇がとぐろを巻きかけていました。
私は本気で腰が抜けそうになります。
「う、動いておりますが!?」
「ええ。生きていますから」
「どうなさるのです!」
「騒がない」
彰子様は落ち着き払って、長い火箸をつかみます。そして、帯を扱うような静かな手つきで革帯の輪を蛇の首近くへかけ、一気に持ち上げます。
私は目を覆いかけた。しかし彰子様は平然と、その蛇を長持の中へ放り込み、蓋を閉められました。
あまりに手際がよすぎる。
「姫様、なぜあのようなことが……」
「衛門」
彰子様は亡骸を見下ろしながら答えられた。
「人は、自分の用意した構造に、自分が食われることがあります」
「はい……」
「彼は、夜ごとこの小窓から蛇を送り込み、笛で呼び戻していたのでしょう」
「姉君にも、命婦にも」
「ええ。婚儀が近い娘がいなくなれば、持参の財も渡さずに済む。継父にとっては都合がよい」
私は兼家朝臣の顔を見ました。死してなお凶相を残すその男に、寒気がします。
「今夜は、蛇が下りたところを私に打たれ、驚いて引き返した」
「それで」
「戻った先で、もっとも近く、もっとも脅かしていた相手に噛みついたのでしょう」
「つまり」
「自分が育てた毒で、自分が死んだのです」
何ともいえぬ沈黙が落ちます。その時でした。邸の外から、駆け寄る足音が一斉に響きました。
先ほどの絶叫を聞きつけたのでしょう。中宮様をお守りしていた随身や郎党たちが、抜き身こそ見せぬものの、太刀に手を掛けながら庭へ雪崩れ込み、たちまち邸内の出入口という出入口を押さえていきます。
「姫様、ご無事にございますか!」
「こちらです」
彰子様が静かに応じられると、護衛たちは一礼し、素早く邸内を制圧しました。逃げようとする者も、証拠を隠そうとする者も、一人として許さぬ布陣です。
彰子様は、その様子を一瞥されると、何事もなかったかのように私へ向き直られました。
「衛門、見たことを書きなさい」
「い、いまですか」
「いまです。後になると、人は余計な物語を盛ります」
私は震える手で紙を広げました。
そう。こういう時、彰子様はいつも記録へ戻ります。
怖れも怒りも、噂も憶測も、一度紙へ落として構造に変えるのです。
騒然となる邸内で中務の命婦は、継父の死を聞いて顔を失ったが、やがて泣き崩れました。悲しみだけではないのでしょう。解放の震えも、たしかにありました。
夜が明けきる前に、私たちは事の次第を整理しました。彰子様は、見たものを順に並べられた。
姉の死の前に聞こえた笛。姉の最期の言葉「まだらの帯」。外から侵入できぬ部屋。しかし隣室とつながる小窓。枕元へ垂れる飾りの紐。。動かせぬ寝台。乳の皿。
輪つきの革帯。婚儀前に娘を失うと得をする継父。命婦をわざわざ同じ部屋へ移した不自然さ。
「ひとつずつは小さいのです」
彰子様は静かに言われた。
「けれど並べると、構造になります」
私はその言葉を書きつけながら、深く息をついた。本当にその通りでした。ひとつだけなら、飾り紐。ひとつだけなら、小窓。ひとつだけなら、乳の皿。でもそれらが、寝台の位置と、笛の音と、死人の言葉と結びついた時、もう偶然ではいられません。
中務の命婦は、ようやく彰子様へ深く額づきました。
「命を、お救いくださいました」
「救われたのは、あなたが逃げてきたからです」
「え……」
「恐れを恥じず、助けを求めた。そこが最初の分かれ道でした」
私は横で、少し胸が熱くなった。彰子様は、人を救っても、自分の手柄だけにはなさらない。
「怖がることは、愚かではありません。怖がった先で、誰に助けを求めるかが大事なのです」
中務の命婦は泣きながら、何度も頭を下げました。
御殿へ戻った後、常盤はもちろん目を輝かせていました。
「つまり、蛇でございますね!? 本当にまだらの――」
「広げない」
「はい」
「流さない」
「はい」
「夢にも流さない」
「……はい」
実に分かりやすく肩を落としましたが、この件は本当に広げてはなりません。死人も出ている。面白噂にしてよい話ではありません。
春枝は青ざめ、有子は記録の写しを整え、澄子は黙って香を薄くしました。部屋の空気を少しでも落ち着かせるためでしょう。
若菜殿は私たちが無事に戻っただけで、泣きそうな顔になっています。
「姫様、お怪我は」
「ありません。心が少し死にかけましたが」
「え」
「冗談です」
実際は冗談ではありませんでしたが。
その夜のことを整理しながら、私は改めて思いました。宮中の怪談というものは、たいてい曖昧な噂とセットで広がります。呪いだ、物の怪だ、不吉だ――そう言ってしまえば、人は考えることをやめられるからです。けれど彰子様は、そこで止まらない。
怖い話を、怖いまま終わらせません。人の死に隠れた損得を見て、部屋の造りを見て、道具の位置を見て、構造に変えます。その冷たさが、私は時に恐ろしくもあります。
でも、その冷たさがなければ、救えない命がありました。私がそう書きつけていると、御簾から声がしました。
「衛門」
「はい」
「題を」
「……はい?」
「この一件、覚として残すなら、何とします」
私は少し考えました。そのままでは生々しすぎる。けれど意味は残したい。
「『寝所しつらへ見分の覚』、などいかがでしょう」
彰子様が、わずかに笑われる。
「雅に薄めましたね」
「さすがに『部屋の構造で殺すな覚』では強すぎます」
ふたたび彰子様が笑われて、しばし静けさが落ちました。そして、彰子様は扇を閉じられました。――ぱちり。
「怪異という言葉は便利です」
と、おっしゃる。
「便利すぎる。人が考えなくて済みますから。でも、怪異の顔をして近づいてくるものの中には、人の損得が衣を着たものも多い」
私は、深くうなずきました。
「帯に見えたのは、ただの帯ではなかった。けれど、恐ろしかったのは蛇そのものだけではありません。娘の婚儀を惜しみ、寝所の構造にまで手を入れて、静かに殺そうとした人の心の方です」
彰子様の言葉に、部屋の誰もが黙りました。
「だから、恐れるべきは、闇そのものではありません。
闇にまぎれて得をする仕組みです」
梅壺にはその日、また一つ増えました。女の怯えを“気のせい”で終わらせぬための、構造を見る目という、静かな刃です。
〜出典〜
The Speckled Band(まだらの紐)
作:Arthur Conan Doyle 訳:海野十三、大久保ゆう
コナンドイル青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000009/files/50717_36994.html
〜舞台背景〜
『まだらの紐』は「名探偵シャーロック・ホームズ」の著者アーサー・コナン・ドイル本人がシリーズ正典4長編+56短編の中で評価の最上位に挙げた作品(1927年の雑誌インタビュー)で、現代の「名探偵シャーロック・ホームズ」解説記事でも「最高傑作級」とされることが多い超定番作品です。




