第96話 完全試合を意識
六回の攻防が終わり、1ー0。わたしたちブラックスターズが僅かに1点リード。そしてそれ以上のことがある。わたしはまだただの一人も塁に出していない。
「あと3イニングで……完全試合だ!」
わたしが叫ぶと、ベンチは深いため息と苦笑いに満たされた。
「………あ〜あ………気がついちゃったか。意識すると終わっちゃうんだよね、そういうの」
「ランナーを出しても気落ちしちゃだめよ。大記録を逃したショックで一気に逆転、珍しい話じゃないもの」
幻のノーヒットノーランのときは悪天候やストライクゾーンが極端に狭い審判、自分が打った満塁ホームラン……他に考えることがたくさんあったから終盤までわたしも周りもわかっていなかった。今日は1ー0、鈍いわたしでもこれは気がつく。
「前回は10個以上の四死球……ランナーもたくさん出ていたからノーヒットだと思わないのも仕方ない。でも今日は……」
「私たちも緊張してきましたよ」
日本女子プロ野球で最後に完全試合が達成されたのはわたしが生まれる少し前まで遡らないといけない。そのとき現役だった選手は残らず引退しているほどだ。
「守備固めは……しない!ずっと試合に出ているほうがミスはないと思う!」
わたしの記録が続く限りは最初の9人で戦う、監督はそう決断した。七回表、先頭はわたしだ。自分を楽にする一打が欲しい。
「ふんっ!」
『空振り三振!太刀川、外角低めに手が出てしまいました』
『変に塁に出るよりはこのほうがいいかもしれませんよ』
別にわざと三振したわけでもなく、簡単にやられてしまった。続く紀子さんと中園さんも二人合わせて10球未満で凡退。パーフェクトは大事だけど試合にも勝たなくちゃいけない。そっちのほうが大事だと忘れないようにしないと。
「ふ―――っ………」
『さあ、パーフェクトまであとアウト9つ!太刀川が七回のマウンドです』
もともと今日は全力のストレート中心、いけるところまでいくピッチングだった。普段より疲れはあるけどこのまま突っ走ろう。
「………!!」
『梶田流し打ち―――!!いや、サードの柴山がよく捕った!一塁送球、アウト!』
痛烈な当たりだった。それを柴山さんが見事なグラブ捌きで処理してくれた。まずは1アウト。
『前回はこの柴山のエラーと一度は記録された打球が翌日訂正されてノーヒットノーランが取り消されました。その借りは返したか!打席には坂友が入ります』
田沼不在の打線でも一息つけるところはない。長打が狙える打者が続き、下位打線も意外性があってしかもいいところで打つ。この坂友なんかはゴーレムズの長所を全て詰めこんだ何でもできる難敵だ。
(……カーブ………)
みやこの要求は外角に逃げるカーブ。コースを間違えたら完全試合終了どころか同点ホームランだ。
(ストレートのほうが…と普通は思う。だけどみやこが選んだ球だ。これがいま投げるべき球だ!)
どんなときでも信頼は変わらない。わたしの力を最大限に引き出すリードをしてくれる。わたしはみやこが構えたところに投げるだけだ。
「………っ!」
『あ―――――っ、打ち上げた!坂友、果敢な初球打ちでしたがただのポップフライ……』
坂友の読みを外した。さすがみやこだ、なんて感心していると、思わぬ展開になった。
『いや、面白い打球だ!坂友の引っ張りを警戒してセカンドベース付近にいた石河、やや深めに守っていたライトの中園!二人の間に落ちそうだ!』
「…これは……危ない!二人とも………」
石河さんも中園さんも猛ダッシュだ。まっすぐ走ればいいぶん中園さんに任せたほうがいい気もしたけれど打球との距離が近くてしかも足が速いのは石河さんのほうだ。とはいえこのままだと……。
「衝突する!ヒットは仕方ない、スピードを緩めて………」
「いや、捕る!私じゃないとノーバンは無理!私に任せろ――――――っ!!」
石河さんが叫びながら腕を伸ばした。中園さんはぶつからないように寸前で走る向きを変え、転がった。
『追いつくか、それとも落ちるかっ!』
最後は不安定で見栄えの悪いスライディング。それでも石河さんのグラブのなかにボールが入り、滑った拍子にこぼれないようしっかり掴まれていた。
「ア…アウト!アウトッ!!」
一塁側からは大きなため息が、三塁側からは大歓声が沸き起こるプレーだった。
『と、捕りました!今度は石河のファインプレーです!衝突回避だけでなくスーパーキャッチ!木谷、柴山に続いて石河も守備で太刀川のパーフェクトを後押しします!』
「石河さ〜ん!ナイスプレー!」
「ははは……どうにか捕れた。大事なところで痛恨のミスを犯すばかりだった私が……今日はうまくやれたわ」
守備に助けられて2アウト。そして3番の四角の低いライナーも、
『ファースト奈村紀子、横っ飛び!捕っています、捕っています!抜けたらフェアかファールか際どいところ、奈村が見事に捕りました!』
一塁線上の打球を紀子さんがノーバウンドで捕ってアウト。このプレーは大きかった。
(ちっ………運がいい女だわ、太刀川みち)
ただアウトになっただけでなく、四角の卑劣な作戦が実行されずにすんだ。もしワンバウンドしてフェアになったらわたしがベースカバーに走る必要があった。四角はそれを狙ってこの打球を放っていた。
(偶然を装って太刀川の足を蹴る、交錯した瞬間に突き飛ばして転倒させる……アウトになるとしても次の回以降に繋がるはずだった)
パーフェクト阻止の手っ取り早い方法は、敵のピッチャーを負傷降板させること。完全試合なんて最大の屈辱を回避するためには何でもやる、自分たちのやることは全てが正義と信じているゴーレムズらしかった。
何かしらはやってくるだろうと試合前から警戒していたわたしたちだけど、ここで四角が仕掛けようとしていたことや、その裏にはオーナーの指示があるということなんかわかるはずもなく、紀子さんのファインプレーに拍手するだけだった。
『この回は難しい打球3連発をブラックスターズの内野が好守備!七回が終わり、いよいよ見えてきました!』
明らかにベンチの全員が緊張していた。試合に出場している選手はもちろん、控えの選手、それにコーチやスタッフさんたちまで動きがぎこちなかった。余計な発言や動作でパーフェクトの邪魔をしたらいけないと気を遣ってくれていた。
「ふーっ。ちょっとトイレに行ってきます」
張り詰めたままだとまずいから、わたしのほうから少しの間ベンチを離れて皆には一息ついてもらおうとした。わたしも一人静かな場所にいたかった。
「……みち、体力は問題ない?」
みやこがわたしの後にぴったりとついてきた。わたしと同じくトイレ目的ではなさそうで、目的はわたしか……。
「うん、普段よりは少しきついけどこれくらいならだいじょうぶかな」
「…………」
体力補給という名の試合中にいちゃつき……みやこがやりたいことはわかっていた。つい断っちゃったけどやってあげたほうがよかったかな……と思っていると、わたしの答えに関係なくみやこは抱きついてきた。でも普段とは様子が違っていた。
「……みやこ……震えてる?」
「みちが必要ないとしても私のために……いまはどうかお願い。強いあなたと違い私は不安と恐怖に襲われている。それらを耐え忍ぶための力を分けてほしい………」
みやこだって人間だ。失敗を恐れて緊張しても当然だった。配球を相手に読まれる、キャッチャーゴロや振り逃げのときの一塁悪送球……自分のせいで完全試合が終わるという不安は他の人たちと同じかそれ以上のものだったようだ。
「あなた以外の選手の記録ならここまでの気持ちにはならない。みちだからこそ、快挙達成の邪魔をしないか怖くなる」
「……だいじょうぶだよ。わたしを信じて。たとえ今日この後ランナーを出して失敗したとしても、この先何回……いや、何十回だって完全試合をしてみせる!そのうちのたった一回、何も気にしなくていいよ」
安心させるためとはいえ、そんなバカな、とツッコまれても仕方ない言葉だった。一生に一度のチャンスなのは明らかで、ここまで運が味方してくれる日はない。
「………そうだった。太刀川みちであればそれが可能……私もまだまだだった。しかしあなたの伝説を汚せないのも事実、適度な緊張感を持って残り2イニング………」
「うん、いこう」
八回表のブラックスターズは三者凡退。九回は1番からで、一人出たらわたしに回ってくる。完全試合継続中の場合は無理して打たないでいいと言われていた。当たり前の話として、その前に八回裏だ。皆の動きはやっぱりカチカチで、必要以上に緊張しているようだ。
(……わたしが野手で出ていたら……やっぱりああなっていただろうなぁ)
自分がミスしたら責められるというよりも、これまでの全てをたった一つのプレーで台無しにしてしまうというのが怖い。気にしていないよ、そう言ってもらっても立ち直るのはしばらく後になる。
(みんなを信じていないってわけじゃない。でも、わたしの試合なんかで落ち込んでほしくないな。だからここは……)
この八回が今日の大一番だ。4番から始まるここさえ抑えてしまえば最終回はどうにでもなるはず。残った体力をこの回に全て注ぎ込んで、九回は九回でまた考えたらいい。
「うおりゃ―――――――――っ!!!」
「………え!?」
ペース配分は考えずに、まるで1イニングだけ投げるセットアッパーのような気持ちでゴーレムズの中軸三人を完封した。
『さ、三者三振です!岡戸、ウィーガー、そして長崎……タイプの違う中長距離砲三人を!太刀川みち、ついに残すは九回だけ!』
ドームが普段とは違う空気で満たされている。その中心にいるのはわたしだった。
「こうなったらやるしかない!今日はゴーレムズのクソガキオーナーも介入できるような材料がない!どこかで歯ぎしりしながら見ているだけだわ!」
「みっちゃんを楽にするために最後の攻撃、なんとか追加点を……いや、1ー0が崩れると流れも変わるかもしれないから……難しいな」
なかなかスコアが動かない試合でどちらかが得点すると直後に相手も取り返す、そんな流れは確かに珍しくない。点差が広がって心に余裕が生まれるのが逆効果なのかも。
「石河さん、上里さん。わたしに遠慮してわざと凡退なんてしないでください。パーフェクトの前にまずは試合に勝つことです」
「おお……みっちゃんがでっかく見える。小さいんだけど大きかったよ、いま」
「それなら一発狙っちゃおうかな」
頼もしい笑顔で二人はベンチを出ていった。ところが九回、ゴーレムズは先発の田郷から左の小鳥遊に交代。左バッターの二人を仕留めるための投手だった。
『ストライク!バッターアウト!』
「…………」
「いや〜……打ちたくても打てないよ。遠慮なんかしなくてもアレは無理だ」
力なく上里さんが戻ってきた。あっさり二死、次はみやこというところでゴーレムズの投手コーチが、遅れて桑山監督も出てきた。
『ピッチャーが代わります……出てきたのは……石山ですか?今日一軍昇格の石山が3番手としてマウンドに上がります』
「……石山?確か田沼と同い年、同じ高校出身の……こんな接戦で?」
「………意図が理解できない」
ベンチの外でバットを持つわたしとみやこもこの継投はわからない。あと1アウトとればいいだけとはいえ、1点差ならもっと信頼できる投手を出すはずなのに。
『この石山、若大将田沼との比較かあだ名は『青大将』!コネ入団、練習嫌い、夜遊び好き……全てが田沼とは正反対の女ですがどんなピッチングを見せるのか!』
『あのヘラヘラした顔……不気味ですね』
皆が首を傾げる継投、その真実を知っているのは石山本人とゴーレムズベンチでも一部の人間だけだった。ないと思われていたオーナーの介入で登板が決まった。一つの指示が内密に与えられていた。
「太刀川みちを………潰しなさい!」
今回の話は完全試合がテーマで、結末まですでに書き終えているのですが、偶然にも昨日、現実の世界でもあと一歩で完全試合というシーンがありました。3点もリードしたことで気が緩んでしまったのでしょうか……。




