名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
舞う童の文 ―― 名探偵 藤原彰子の宮中事件簿『転生皇后・藤原彰子』スピンオフ外伝
彰子中宮に仕える赤染衛門は、子どもの落書きのような「舞う童」の絵が、ある女性を恐怖のどん底へ突き落とす不可解な事件に遭遇する。絵に隠された暗号、追いすがる過去、そして口にできない真実――。石の中宮・彰子は、鋭い観察眼と冷静な推理で、沈黙の奥に隠された人の心まで読み解いていく。
宮中にいると、人はすぐに思い込みます。
この世でいちばん恐ろしいものは、権勢であり、帝の御心であり、あるいは藤原の家同士の思惑である、と。
だが、中宮・彰子様の御前に仕えて久しい私は、もう少し別のことを知りました。本当に恐ろしいものは、言葉にならぬものです。
人が胸のうちに沈めて、誰にも話せず、けれど確かに怯えているもの。文に書けば証拠になる。声に出せば何かが壊れる。だから黙ります。
そうしているうちに沈黙の隙間から、じわじわと何かが這い出してくる。その「何か」は、ある時は噂であり、ある時は恨みであり、ある時は過去でしょう。
そして、その年の夏。私がいまなお思い出すたび、紙の上に小さな影が踊るような気がしてならぬ事件が起きました。
後に私は、それを「舞う童の文」の事件と名づけて覚え書きに残しました。
その日、彰子様は珍しく長いこと黙っておられました。
午前の御前は、いつもなら女房たちの進上した歌やら、誰それから届いた扇やら、女院さまの御所での噂やらで、ほどほどに華やぎます。けれどその日は違いました。
几帳のそばに置かれた見慣れぬ紙片を前に、彰子さまは肘をつき、じっとそれを見ておられます。私も少し離れて控えていましたが、気になって仕方がありませんでした。やがて、たまらず尋ねます。
「姫様、それは何でございましょう」
「衛門」
「はい」
「あなたには、これが何に見えますか」
差し出された紙を見て、私は思わず眉をひそめました。そこに描かれていたのは、まるで稚児の落書きのようなものでした。
人の形をしているようでもあり、していないようでもある。手足を妙に跳ね上げた、小さな童子のような影が、いくつも並んでいる。あるものは片手を上げ、あるものは袖のようなものを広げ、あるものは何やら小枝を持っているようにも見えます。
「……子どもの絵でございましょうか」
「そう見えますか」
「はい。あるいは、舞をまねた戯れ書きか」
「なるほど」
彰子さまは、それ以上は何も言わず、また紙へ視線を落とされた。私は、ああこれは何かあるな、と悟りました。
彰子さまが「なるほど」とだけ言って黙る時は、たいていもう頭の中で何歩か先へ進んでおられる時です。こちらだけが置いていかれます。
「どなたからのものでございますか」
「これを送ってきた者が、まもなくこちらへ参ります」
そう言い終えるか終えぬうち、廊の方で人の気配がした。取り次いだ女房が名前を告げる。
「下野守の甥にあたられる、藤原惟通朝臣にございます」
入ってきた男を見て、私は少し驚きました。
年は三十をいくつか越えたあたり。背が高く、日に焼け、健康そうで、いかにも都の柔な貴族とは違います。衣の着こなしはきちんとしているが、どこか地方の館に長くいる人の気配がある。気立ての良さそうな顔だが、今はそれが疲れと不安で曇っていました。
彼は御前に深く額づいたあと、ちらりと私を見た。彰子さまがすぐに言われる。
「気にせず。赤染衛門は、わたくしのそばで見聞きしたことを記し、また考える者です。隠し立てなく話しなさい」
「は……」
惟通朝臣は両手を膝に置いたまま、少しだけ迷うように息をついた。
「このようなことで御前を煩わせるのは、まことに本意ではございません。けれど、どこへ持って行っても笑われるばかりで――それでも、妻があれほど怯えているのを見ると、放ってはおけませぬ」
私は、ふと紙の上の奇妙な絵を見た。まさか、これで怯えるというのだろうか。だが、そういう“まさか”が事件の始まりであることを、私はもう知っています。
惟通朝臣の話は、こうだった。彼の家は、代々近江国に所領を持つ古い家筋で、近江の館と京の邸を行き来する暮らしをしているという。
惟通朝臣も若い頃から宮中へ出仕していたが、所領のこともあって近江へ下ることが多かった。昨年、ある縁あって妻を迎えた。
「名を、明子と申します」
「どういう縁で」
と、彰子様。
「大宰府へ下っていた折に知り合いました。妻は、もとは西の方――異国の船も寄る土地で育った者にございます」
ここで少し言いよどんだので、私は察した。つまり、都の貴族社会から見れば「素性が複雑」と見なされかねない出自なのだろう。
惟通朝臣は、まるでそれを弁明するように続けた。
「けれど、あれは誠実な女にございます。気立ては静かで、嘘をつく性ではありません。ただ、婚儀の前にただ一つ、私に申したことがございました。 ――“わたくしには、人に聞かれたくない昔がございます。けれど、恥ずべきことをしたわけではございません。ただ、その昔を忘れて生きたいのです。それでも迎えてくださるなら、どうか無理に問いたださぬでくださいませ”――と」
私は思わず、彰子様の横顔を見た。あのお方は何も言わず、ただ静かに聞いておられるます。
「私は、それを承知いたしました。人には誰しも語りたくないことがある。まして女が、男の家へ嫁ぐ前にそれを正直に打ち明けてくれたのです。ならば、それ以上は問うまいと思ったのです」
「それで一年、何事もなく」
「はい。まことに穏やかに」
そこまで言った彼の表情が、そこで初めてくっきりと曇った。
「ところが、一月ほど前。大宰府の方角から文が届きました。差出人の名はありませんでした。しかし妻はそれを見た途端、顔色を失い、読み終えると火にくべてしまいました。私は問いませんでした。約束がございましたので。けれど、それ以来、あれは何かにおびえるようになりました」
「何か、ではなく」
と、彰子様が静かに言われる。
「誰か、でしょう」
惟通朝臣は、はっとしたように顔を上げた。
「……はい。いま思えば、その通りかもしれませぬ」
そして、ある朝。邸の板戸に、白い石であの奇妙な絵が描かれていたのだという。
「最初は、下働きの童の悪戯と思いました。ところが妻に話すと、妙にこわばった顔をして、“もしまた現れたら、どうか見せてくださいませ”と申すのです」
嫌な話だ。意味の分からぬ絵を見て、普通はそうは言いません。つまり彼女には、それが何か分かる可能性があったということです。
「そして昨朝」
惟通朝臣は、例の紙片を見た。
「今度は、朝一番に門を開けた家人が見つけました。門の扉の隙に、この紙が挟まれていたのです。妻に見せると、その場で気を失いました」
私は思わず息を呑んだ。あんな落書きで気を失うとは、もはやただごとではありません。
「それからは、物音ひとつにもびくつき、夜も休めていないようで……何か言おうとしては、口をつぐむ。私は問いただしたい。しかし約束を破ってまで苦しめたくもない。ですから、せめてこの絵が何なのかだけでも知りたいのです。これが子どもの悪戯なら、それでよい。ですが、もし誰かが妻を脅しているのなら」
そこで彼は強く言った。
「私は、妻を守りたいのです」
その声音は率直で、見栄がなかった。こういう男は、都では案外貴重です。家名や体面を先に言わず、まず「守りたい」と言うのだから。
彰子様は、少しだけ目を細められた。
「あなたは良い夫ですね」
「過ぎたお言葉です」
「いいえ。そういう言葉は、言える人にしか言えません」
そして、あのお方は紙片を手元に引き寄せる。
「これは、たしかに意味のあるものです」
「お分かりになりますか」
「いまはまだ、十分には」
惟通朝臣の顔に、あからさまな落胆が浮かんだ。だが彰子さまは、すぐ続けられます。
「ただし、意味がないものではない、とは分かります」
「それだけでも……」
「今は、長さが足りません。もしこれが文を写した暗号なら、これ一つでは解けません」
暗号。私は心の中で繰り返しました。あの変な童たちが、文字の代わりだというのでしょうか。
「惟通朝臣」
「は」
「お帰りになり、邸の内外をよく見張りなさい。もしまた同じようなものが現れたなら、消さずに、まず正確に写し取りなさい。板戸でも壁でも、どこにどう置かれていたかも含めて。また、不審な人影があれば、それも」
「承りました」
「何か起きたら、すぐに知らせなさい。必要なら、わたくし自らそちらへ参ります」
惟通朝臣は深く頭を下げた。その顔に、やっとわずかな安堵が戻りました。
彼が去ったあと、私は紙片を見て首をかしげました。
「姫様、本当に、これに意味があるのでございましょうか」
「あります」
「なぜそうお思いに」
「同じ形が、何度も繰り返されているからです。まったくの落書きなら、もっと無駄に散る。これは数が整理されすぎています」
「……私には、踊っている童にしか見えません」
すると彰子さまは、ほんの少し笑われた。
「そうですね。では今のところ、舞う童と呼びましょうか」
その言い方が妙に可笑しくて、私はつられて笑いかけた。だが、この時の私はまだ知りませんでした。その“小さく舞う童”が、後には血の匂いを運んでくることを。
それから幾日か、彰子さまは折にふれてその紙を見ておられた。
御前で女房たちが和歌を披露していても。御帳の内で灯を近づけても。他家からの文を読んでいる合間にも。ふとした時に懐から取り出しては、あの妙な絵を眺めます。
私も横から見ましたが、見れば見るほど、何のことやら分かりません。同じ形がいくつかあるように見える、というくらいです。
「衛門」
「はい」
「この中で、いちばんよく出てくる形はどれですか」
「え」
改めて見ろということらしい。私は紙を受け取り、しげしげと見つめました。
「……これでしょうか。両手を上げたような童」
「私もそう見ます」
「それが何か」
「まだ分かりません。けれど、文字の中でよく使われるものが、まず最初に顔を出します」
「つまり、『の』とか『に』とか」
「ええ。あるいは、もっと単純なもの」
そういう説明を聞くと分かった気になりますが、実際にどう当てるのかはまるで見えません。こういう時、私は自分が歌は詠めても推理はまだまだだと痛感します。
やがて十日ほどした頃、惟通朝臣から再び急ぎの文が来ました。
今度は前より長い。それも一つではなく、三つ。
最初のものは、邸の板戸。二つ目は、その翌朝、同じ場所。三つ目は、庭石の上に置かれた紙切れ。
それぞれ、前より多くの「舞う童」が並んでいました。
彰子様は文を広げた途端、目の色を変えられた。彰子様があからさまに高ぶるのは珍しい。
「よろしい」
「何がでございます」
「数がそろいました」
そう言うやいなや、硯を引き寄せ、紙を何枚も広げます。そして、舞う童たちを一つ一つ写しながら、横に印をつけ始められた。
私は口をはさめず、ただ見ていた。
「まず、この形。最初の紙にもあり、今度も頻出しています」
「はい」
「これを仮に“いちばんよく使う字”と置く」
「はい」
「そしてこの短い語。前後が同じ形で、真ん中に三つ」
「たしかにございます」
「もし、これは相手の名ではないか、と考える」
私は瞬きをした。
「名、でございますか」
「ええ。脅し文を送る相手に、まず名を呼びかけるのは自然です」
「なるほど」
「惟通朝臣の妻の名は」
「明子殿」
「“あきこ”あるいは“あき”で呼ばれているかもしれません。けれど、この並びは五つある。ならば“あきこ”では足りない」
「では」
「別の名です。嫁ぐ前の名。あるいは、異国風の呼び名」
私ははっとした。そうか。明子というのは、都で名乗るための名かもしれない。幼名や元の呼び名は別にあるのでしょう。
「それだけで分かるものですか」
「全部ではありません。けれど、ここが起点になります」
それから彰子さまは、まるで歌の字余りでも数えるような速さで、童たちの形を分類していった。旗のように小枝を持つものと持たぬものを分け、並びを切り、同じ繰り返しを探す。
「衛門、これは単語の切れ目です」
「その小枝が、ですか」
「たぶん。文の区切りを示している」
「そんなことまで絵で」
「むしろ、絵だからこそです。ただの悪戯に見せるためでしょう」
私は、ぞくりとしました。ここまで来ると、もはや落書きではありません。意図的な隠し文です。数刻もせぬうちに、彰子様は筆を止められた。そして低く、しかしはっきりとおっしゃる。
「ひとまず読めました」
「えっ」
「完全ではありませんが、十分です」
「何と」
彰子様は紙を指で押さえた。
「最初のものは、おそらく――“ここにいる”」
「……は」
「そして、そのあとに続くのは人名。差出人の名です」
「誰の」
「まだ確定ではありません。けれど、明子殿がこの絵を見て気を失うほどなら、よほど昔から知る相手でしょう」
私は鳥肌が立った。“ここにいる”。そんな言葉を、自分の過去を知る誰かから告げられたら。しかも隠れた文で。
「二つ目は?」
「滞在先、あるいは潜伏先を示しているようです。そして三つ目は――」
そこで彰子様は、珍しく黙った。嫌な黙り方である。
「……脅し、でございますか」
「ええ。かなり露骨な」
「どのような」
あのお方は、私の顔を見て、それから静かに言われた。
「会え。さもなくば、取り返しのつかぬことになる。 だいたい、そのような意味です」
私は息を止めた。
「では、すぐに」
「行きます」
「近江へ」
「ええ。いまから支度を」
その時の彰子さまの決断は早かった。宮中におられながら、必要とあれば都の外へもためらわず足を運ばれる。
もっとも、それは思い立ってすぐに駆け出せるという話ではありません。中宮がお動きになる以上、しかるべき届けを出し、供奉の女房や護衛の武者を整えねばなりません。もっとも今回は大仰な行幸ではなく、事情を知る者だけを伴った内々の外出であったため、人数は最小限に抑えられました。
女房は私を含めて数人。供として近衛の武者が十名ほど、さらに惟通朝臣が手配した者が道中で加わります。
道中のことは長くなるので細かくは省きますが、私たちは急ぎ近江国にある惟通朝臣の邸へ向かいました。
都を離れ、しだいに空が広くなり、田が増え、川がゆるく曲がるのを見ていると、宮中の事件を追っていることを一瞬忘れそうになります。けれど懐には、あの舞う童の写しがあります。
邸に着いた時、惟通朝臣は門まで出て待っていました。その顔を見て、私は胸がざわつきました。
前に御前で見た時より、明らかにやつれています。目の下には寝不足の影があり、頬はこわばっていました。
「よくおいでくださいました……」
「奥方は」
と、彰子様。
「弱っております。食も細く、夜は物音のたびに目を覚まし……けれど、なお何も申しませぬ」
「新しい文は」
「また」
そう言って差し出された紙には、さらに長い舞う童の列があった。彰子様は受け取るなり、その場で目を通した。そして、はっきり顔色を変えた。
「……遅れました」
「姫様?」
「惟通朝臣。これは最後通牒です」
「最後……」
「ええ。“会わねば、神仏の前に立つ覚悟をせよ”――そう読めます」
私はぞっとした。平たく言えば、死の脅しです。
惟通朝臣も蒼ざめた。
「では、やはり誰かが妻を……」
「はい。かなり執着の強い相手です」
「その者は、いったい」
「邸の近くに潜んでいます。しかも、明子殿と昔から通じていた者」
私たちはすぐ、邸の周囲を見分することになりました。邸は広すぎず狭すぎず、地方の有力者らしい落ち着いた造りです。前庭に門。横に物置。そこから明子どのの居間が見える。そして背後には竹藪、畑、低い林。隠れる場所はいくらでもありました。
「衛門」
「はい」
「見えますか。あの物置の位置」
「はい」
「居間から、まっすぐ目に入る。文を見せつけるには、都合がよすぎます」
「たしかに」
惟通朝臣は、その夜の話もしてくれました。夜更けに居間から見張っていると、妻が化粧衣のまま起き出してきて、やめてくれ、旅に出よう、と泣くようにすがったこと。
でもその時、物置の影に人の気配を見たこと。自分が太刀をつかんで飛び出そうとしたのを、妻が必死に止めたこと。そのすきに影は消えたが、板戸にはまた舞う童が描き足されていたこと。
「妻が止めたのは、私を案じたからだと思いたい」
惟通朝臣は苦しげに言った。
「ですが、もし相手をかばったのだとしたら……」
「かばったのでしょう」
と、彰子さまはあっさり言われた。惟通朝臣が息を呑む。私は内心、もう少し言いようが、と思いましたが、続く言葉はやさしかった。
「ですが、それは恋ゆえではない。恐れと責任感からです」
「責任感」
「ええ。明子どのは、おそらく『自分の昔が夫に災いを呼ぶ』と思っています。だから、あなたを守るために一人で抱え込んでいる」
惟通朝臣は、しばらく黙っていた。それから低く言う。
「……あれらしいことだ」
その一言で、私はこの夫婦が本当に仲睦まじかったのだと分かった。疑いながらも、最後には妻の心根を信じています。
その夜、彰子様は明子殿本人にも会われました。明子殿は、病人のように青白かった。年はまだ若い。顔立ちはどこか都の女房たちとは違い、目鼻立ちがくっきりしている。元は相当に華やかな美しさを持っていたであろうに、今は怯えがその上をすっかり覆っていました。
彰子さまが穏やかに名を呼ぶと、彼女は震える唇で応じます。
「お見苦しきところを……」
「構いません」
「夫が、御前にまでご迷惑を」
「迷惑ではありません」
それから、彰子様はしばらく何も問わなかった。いきなり核心へ行けば、人は貝のように閉じる。まず息のできる空気を作る――彰子様のやり方だ。
「あなたは、ご自身の昔を問われたくないと仰ったそうですね」
「……はい」
「けれど、それが今、ご夫君の命に関わるところまで来ている」
明子どのの肩がびくりと震えた。
「あなたが黙っている理由は、恥ではないのでしょう」
「……」
「恐れですか」
「はい」
「ご自身のためではなく?」
そこまで言われて、彼女はとうとう顔を覆って泣き出した。
「違います……わたくしは、わたくしがどうなっても構いませぬ……でも、あの方にだけは……」
その泣き声を聞いて、私は胸が詰まった。惟通朝臣の読みは当たっていたのだ。彼女は夫を守ろうとしていた。
「その者は、あなたの昔の男ですか」
と、彰子様。
明子どのはしばらく泣き、ようやくかすかにうなずいた。
「名は」
「……西で、皆は“阿武礼”と呼んでおりました」
私は聞き慣れぬ名に首をかしげた。都風ではありません。異国の者か、または大宰府まわりの荒くれ者か。
「どういう男です」
「大宰府に寄る異国船や商人、博多の荒くれどもと通じる一団の者にございました。わたくしの父は、その手の者らを束ねる役をしておりました」
「賊」
「……はい」
「あなたもその中に」
「わたくし自身は、何もしておりませぬ。けれど、何も知らぬとも言えません。阿武礼は、いずれ私を妻にすると申しておりました。父もそのつもりでした。ですが、わたくしは、あの人たちのしていること――人を脅し、荷を奪い、役人を買収し、血を見るような暮らしが恐ろしくて……父が死んだ後、縁を頼って都へ逃げたのです」
部屋がしんと静まった。明子どのは涙を拭いもせず続けた。
「もう二度と見つからぬと思っておりました。けれど、文が来たのです。“見つけた”と。“おまえは俺のものだ”と」
私は、寒気がした。何年逃げても追ってくる過去。たまらない。
「舞う童の文は、あの一団で使っていた隠し符牒です」
と彼女は言った。
「子どもの絵に見えるよう作ったもので……人目についても、ただの落書きと思われるように」
彰子さまは静かにうなずかれた。
「やはり」
「阿武礼は執念深い男にございます。一度言い出したことを引くことを知りませぬ。わたくしが返事をせぬと、邸の外に文を置き始めました。そのうち、夫の耳にも入ると思い……何度も打ち明けようとしましたが」
「ご夫君が、それでもあなたを信じると分かっていたからこそ、言えなかったのですね」
明子殿は泣きながら、深くうなずいた。
「……汚したくなかったのです。あの方の家も、名も、まことも……」
その言葉に、彰子さまはしばらく黙られた。やがて低く、しかしきっぱりと言われる。
「明子殿」
「はい……」
「もう遅いかもしれません」
私はどきりとした。だが、これは脅しではない。現実の重さです。
「ですが、まだ間に合うかもしれない。ですから、これ以上は一人で抱え込まず、わたくしたちに任せなさい」
「……はい」
「もし阿武礼が呼び出しに応じるなら、どこへ現れると思います」
明子どのは震えながら答えた。
「居間の南でございます。夜半、人が寝静まった頃、そこへ出よと……以前、返事を求める文にございました」
彰子様はそこで、惟通朝臣を呼ばれた。その夜の段取りは、こうである。
明子殿の筆跡は使えぬので、彰子様が舞う童の符牒を真似て、短い返事を書く。内容は――「すぐに来い」。明子どの以外には決して書けぬと思わせるためである。
「阿武礼は、自分たちの符牒を都人が解けるとは思っておりません」
と、彰子さま。
「ですから、疑わず来るでしょう」
「もし、来なければ」
と惟通朝臣。
「来ます」
断言でした。
「執着の強い者は、相手から返答があった時、その意味を確かめずにはいられません。まして最後通牒まで送った後です」
邸の者には、最小限だけ事情を伝えました。表向きはいつも通りだが、夜半には人を潜ませます。惟通朝臣は太刀を取りたがったが、彰子さまは制された。
「あなたが前へ出れば、相手も必死になります」
「ですが」
「奥方を守りたいのでしょう」
「もちろん」
「ならば、相手の視線が邸の南向いた時に取り押さえるのが最善です」
地方の館ゆえ、武に覚えのある郎党もいた。彼ら二人を物置の陰へ、もう一人を庭木の蔭へ。惟通朝臣と私は居間の内。彰子さまは、あえて邸の南に座られた。
「姫様、それは危のうございます」
私が言うと、あのお方は平然と返される。
「文を読ませる顔が必要です。暗がりなら、向こうは気づきません」
「けれど」
「衛門」
「はい」
「いざとなったら、衛門はすぐ伏せなさい」
「私にばかりご指示を」
「衛門はすぐ立ち上がってしまいそうですから」
まったくもって心外ですが、否定できないのが悔しい。
夜が更けるにつれ、邸の中はしんとした。灯を落とし、窓辺にだけほのかな明かりを残す。外には月。物置の黒い影が庭へ長く伸びています。
私は心臓がうるさくて仕方がありませんでした。隣を見ると、惟通朝臣は奥歯を食いしばり、じっと邸の外を見ています。彰子さまだけが、異様なほど静かでした。
「姫様」
私はごく小さく囁いた。
「解けた文は、どこまで」
「ほとんど」
「最初のものは」
「“ここにいる”と名乗る文」
「次は」
「滞在先を示すもの。おそらく近隣の荒れた荘」
「それで、最後の長い文は」
彰子様は窓の外を見たまま、答えられた。
「“明子。会わねば、神仏の前に立つ覚悟をせよ”」
私は息をのんだ。これほど露骨な脅しなら、彼女が蒼ざめるのも当然です。
「なぜ、そこまで」
「昔の女を“自分のもの”と思う者は、断られると相手を人ではなく奪われた品のように見ます。そういう執着です」
その声には、少し冷たい軽蔑があった。
その時でした。庭の奥、物置の影が、ほんのわずか動きました。
惟通朝臣の肩がぴくりとした。私は思わず息を止める。黒い影が、低く身をかがめ、窓の方へ近づいてくる。
男でした。背は高く、体つきは引き締まり、歩き方に油断がない。月の光の中で顔までは分かりませぬが、ただそこにいるだけで、人に危険を感じさせる種類の男です。
影は窓下で止まった。そして、ひそめた声がしました。
「……おい。来たぞ、明子」
その瞬間、惟通朝臣が立ち上がりかけたのを、彰子様が袖で制した。まだだ、の合図です。
「姿を見せろ。文を出したのはお前だろう」
男はさらに近づいた。明かりの届くところへ、半ば顔が入る。
鋭い目。黒く焼けた肌。口もとには、歪んだ確信があった。“相手は必ず来る”と信じている者の顔です。
「金を持ってきたか」
と男は囁いた。
「それとも、今度こそ俺と来る気になったか」
彰子様はそこで、静かに口を開かれた。
「どちらでもありません」
男の顔が、凍った。
「……誰だ」
「その答えは、これから知ることになります」
次の瞬間、惟通朝臣が叫んだ。
「いまだ!」
物置の陰と木の蔭から郎党が飛び出す。男――阿武礼は、さすがに素早かった。すぐ腰から小さな弩のような武器を抜き、窓へ向ける。惟通朝臣も同時に立ち上がり、脇差を抜いた。
私は、まさにその一瞬を、ひどく長く感じました。
何かが弾ける音。男の腕が跳ねる。惟通朝臣が窓へ駆け寄る。彰子さまが、私の肩を押して伏せさせる。
次いで、郎党たちが庭へもつれ込むように組みついた。私は顔を上げました。窓の桟に、小さな矢が一本食い込んでいます。外では激しい息遣いと、土を蹴る音。やがて一人が「取った!」と叫んだ。
阿武礼は、地に押さえつけられていた。なお暴れようとしていたが、惟通朝臣が窓から飛び出し、その喉元へ脇差を突きつけます。
「動くな」
その声は、これまで聞いたどの時より低かった。阿武礼は、そこで初めて、うすく笑った。
「……なるほど。そう来たか」
「明子に何をした」
「何も。まだ、な」
その“まだ”に、私は吐き気を覚えました。
幸い、その夜は誰も死ななかった。矢は窓桟に当たり、室内へは届かなかった。阿武礼は郎党たちに取り押さえられ、縄を打たれた。邸の中へ引き立てられた時も、妙に落ち着いていた。
むしろ、明子どのが奥から姿を見せた時の方が、彼の目つきは変わった。
「よお、やっと顔を見せたな」
その言い方に、惟通朝臣が再び前へ出ようとしたが、彰子さまが制される。
「阿武礼」
と、彰子様は静かに呼ばれた。
「その符牒は、おまえの一味だけのものと思っていましたか」
阿武礼は、縛られたまま、初めてはっきり彰子さまを見た。
「……女か」
「ええ」
「女に解かれたってわけか」
「見くびりすぎです」
その声は淡々としているのに、妙にこたえるものがある。
「最初の文は、“ここにいる”。次は潜み場所。次は明子どのへの呼びかけ。最後は脅し。十分でした」
阿武礼は、数瞬の後、低く笑った。
「大したもんだ」
「ほめ言葉はいりません。なぜ追ってきたのです」
「決まってる。俺の女だからだ」
その答えに、明子どのがはっきり身をこわばらせた。
「おまえは昔、俺と夫婦になるはずだった。逃げたから迎えに来た」
「迎えに、ですって」
明子どのの声が、思いのほか強く響いた。
「わたくしは、あなたから逃げたのです。あの暮らしから、血と脅しと嘘から。あなたの元へ行くために残ったのではありませぬ」
阿武礼の目が細くなる。
「だが、おまえは俺を裏切った」
「違います。わたくしは、自分の命を取り戻したのです」
その言葉は見事だった。私は胸の奥で、明子どのに拍手を送りたいくらいだった。
けれど阿武礼は、そういう理屈で退く男ではない。
「だからって、こんな田舎貴族にくれてやる筋合いはねえ」
「その人を侮るな」
と、惟通朝臣が言った。
「おまえには分かるまいが、明子は私の妻だ。家の名でなく、私自身が迎え、今もそのつもりだ」
私は横で、なんというまっすぐな男だろうと思った。都なら、まず「わが家の面目が」と来る場面である。
阿武礼はしばらく黙っていたが、やがて吐き捨てるように笑った。
「なら、そのまっすぐさで死ぬとこだったな」
「黙りなさい」
と、彰子様。
「おまえはもう、自分が追いつめられていることを理解した方がよい」
そこで彰子さまは、阿武礼の過去をほとんど言い当てられた。博多や大宰府で異国商人と結び、積荷の横流し、役人への脅迫、裏の符牒を用いた連絡。明子どのの父がその一団の頭目だったこと。明子どの自身は手を汚してはいないが、内情を知っているがゆえに逃げたこと。
阿武礼は、しまいには舌打ちして言った。
「どうせ、隠しても仕方ねえか」
「では、話しなさい」
「明子の親父は賢い男だった。あの踊るみてえな童の符牒を作ったのも親父だ。子どもの落書きにしか見えねえからな。明子は元々、俺がもらうはずだった。だが、親父が死んだあと、こいつは金を持って逃げやがった」
「金」
と、惟通朝臣。
「自分の身を隠すための、わずかなものです」
と、明子どのがすぐに言う。
「盗んだのではありませぬ。父が、もしもの時のために持たせていた分にございます」
阿武礼は肩をすくめた。
「まあ、そうだ。俺はずっと探してた。やっと見つけたら、もうこの男の妻だ。手紙を出しても返さねえ。だから符牒を置いた。一度だけ返事が来たが、それも“去ってくれ”だ。だったら、怖がらせてでも会わせるしかねえだろ」
「その理屈が、すでに賊です」
私が思わず言うと、阿武礼はちらりとこちらを見た。
「女房が口を出すな」
「出します」
私は言い返した。すると彰子さまが、ほんの少しだけ口元をゆるめられた。たぶん笑ったのだと思う。
阿武礼は、最後にはこうも言った。
「昨夜、もし明子が金を持って窓へ出ていれば、そのまま連れて行くつもりだった」
「では夫君は」
「邪魔なら斬る」
その一言で、惟通朝臣の郎党が一斉に殺気立った。私は、本当に今夜死なずに済んでよかったと思いました。この男は、ためらいなくやったでしょう。
事件がひとまず収まった後、私はどうしても知りたくて、彰子様に尋ねました。
「姫様。あの舞う童は、どうやって解かれたのでございますか」
阿武礼が縛られたまま奥へ送られ、明子どのがようやく休み、惟通朝臣も少し落ち着いた頃です。彰子さまは居間の机に、件の写しを並べられた。
「基本は、どの暗号でも同じです」
「はい」
「まず、よく出る形を探す。次に、繰り返しの位置。そして短い語から攻める」
「短い語」
「ええ。たとえば、二つ同じ形に挟まれた五字の語。これは呼び名の可能性が高い。明子殿が元の土地で何と呼ばれていたかは分かりませんでしたが、文脈から“呼びかけ”と見て差し支えありませんでした」
「なるほど」
「さらに、この小枝を持つ童。これは文の切れ目だと見ました」
「単語を分ける印」
「ええ。そうでなければ、この短さでここまで整って並びません」
私は紙を見ながら、うんうんとうなずく。分かったような、分からないような顔をしていたのだろう。彰子さまが続けてくださった。
「一番多い形は、たいてい最もよく使う文字です。そこから、名によく現れる字を仮に置く。次に、“会え”“ここ”“いる”のような、脅し文で使いそうな短い語を当てていく。そして最後に、明子どのが阿武礼からの文を見て卒倒したこと。これは、中身を読めた証です。つまり、昔から使っていた符牒である可能性が高かった」
「全部、つながっていたのですね」
「ええ。ただし、最後の長い文が来なければ、ここまで確定はできませんでした」
つまり、ぎりぎりのところだったのです。
「それで、阿武礼をおびき寄せる文まで同じ符牒で」
「一度解いてしまえば、逆に書くこともできます」
「恐ろしいことでございます」
「便利、と言ってください」
「では便利ということで」
私がそう言うと、彰子様は静かに笑われた。
翌朝、明子殿は少しだけ顔色を取り戻していました。完全に安堵したわけではありません。けれど、怯えだけで凝り固まっていた前夜よりは、明らかに人の顔に戻っています。
惟通朝臣がそのそばに座り、何やら小さく話しているのを私は見ました。聞くつもりはなかったが、聞こえてしまいました。
「どうして、私にもっと早く言わなかった」
「……嫌われるのが怖かったのです」
「私は、昔のあなたでなく、今のあなたを妻にした」
明子殿が泣く。惟通朝臣が、その手を取る。
「だから、次は一人で抱え込むな」
私は、なんだかこちらが泣きそうになってしまい、慌てて庭へ出ました。朝の光が、昨夜の物置や窓を照らしています。あれほど不穏だった場所が、今はただの庭に見えるのが不思議でした。しばらくして、惟通朝臣が私のところへ来ました。
「赤染殿」
「はい」
「中宮さまには、どう礼を申してよいか」
「言葉は直接お伝えくださいまし。私は書く係ですので」
すると彼は少し笑った。久しぶりに見た、まともな笑顔でした。
「あなたにも礼を。昨夜、あの男が矢を放った時、すぐ伏せられたのはお見事でした」
「いえ、それは中宮さまのご命令どおりにしただけで」
「それでもです」
私は、なんとも気恥ずかしかった。褒められるような働きはしていない。主に驚いていただけです。そのあと、彰子さまは明子どのに向かって言われた。
「あなたが逃げたのは、恥からではありません」
「……はい」
「生きるためです。そのことを、今後はご自分で恥じてはなりません」
明子どのは、涙ぐみながら深く頭を下げた。
都へ戻る道すがら、私は長いこと考えていました。結局のところ、今回の事件は“暗号を解いた”というだけではない。もっと別のものが核心にあった気がします。
「姫様」
「何です」
「この一件、恐ろしかったのは、舞う童の符牒でございましょうか」
「いいえ」
「では、阿武礼の執念」
「それもあります。ですが一番恐ろしいのは、明子どのが『話せない』ところまで追い込まれていたことです」
私は黙った。
「人は、恥と恐れを握られると、正しい助けを求めるのが遅れます。それが一番危うい」
「たしかに」
「惟通朝臣は、良い夫でした。明子どのも、悪い妻ではない。それでも、間に“言えない昔”があるだけで、あれほど追いつめられる」
私は、あの青ざめた明子どのの顔を思い出しました。気の毒でならなりません。
「だから」
と、彰子さま。
「今回、解いたのは符牒だけではありません。“黙っていた理由”も、見なければならなかった」
「……はい」
「人は時に、嘘をつくから黙るのではありません。むしろ、真実が重すぎるから黙ります」
その言葉に、私は深くうなずいた。宮中でも同じです。言い逃れのための沈黙もある。けれど、それ以上に、真実を口にした瞬間にすべてが崩れるのが怖くて沈黙する人がいる。
「では、姫様」
「何です」
「舞う童の文は、悪人の道具でございましたが」
「ええ」
「最後には、あれで賊をおびき寄せられた」
「そうですね」
「悪の符牒も、使いようによっては人を救うのですね」
すると、彰子さまは少しだけ笑われた。
「人が作ったものですから。人を害するためにも使えるし、人を守るためにも使える」
「では、歌も同じでございましょうか」
「むろんです」
「文も」
「ええ」
「私の筆も」
「使いよう次第です」
それは、妙に胸へ残る言葉でした。
〜出典〜
The Dancing Men(踊る人形)
作:Arthur Conan Doyle 訳:三上於菟吉、大久保ゆう
コナンドイル青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000009/files/50713_68371.html
〜舞台背景〜
『踊る人形』は「名探偵シャーロック・ホームズ」の著者アーサー・コナン・ドイル本人がシリーズ正典4長編+56短編の中で『赤毛連盟』と並べて、独創的なプロットゆえに高く評価すると明言しています。ドイルの最終評価リストでは3番目です(1927年の雑誌インタビュー)。現代の「名探偵シャーロック・ホームズ」解説記事では暗号ものとしての完成度が高く、ホームズの“頭脳戦”を味わいたい人に特に向いているとされてます。




