プロローグ
春うらら。花の香りを連れた風が、穏やかに若葉を揺らす。暖かな陽射しは、これから始まる新しい生活に胸を膨らませた新入生たちの顔を、朗らかに照らしていた。
明るく弾む人々の声で満たされたローゼン学園。
そのとある一室で、ひとり。
クロードは机の上に突っ伏していた。
「信じられない……嘘だ、ありえない、これは夢、あれは錯覚、いや、幻覚に違いない……」
俯いてぶつぶつ呟くその姿は、この学園内で彼を知る者が見れば、目を疑う姿。
「きっと、何かの間違いだ。気の迷い、そうだ、そう、疲れてるんだ、私は」
つい先程味わった、脳天から爪先までをかけ巡った衝動を、クロードは必死に否定する。
いまだ高鳴り続けている鼓動なんて無視だ。
ほんの数刻前のこと。
新入生を歓迎する式で、生徒の代表として壇上にて挨拶を行ったクロード。多様な種族が一堂に会する壮観な場で、普段通り、堂々たる振る舞いを見せた。
が、その途中。
一族の中でも抜きん出て整っている己の容貌を、完璧な微笑みの形にして披露してみせている、その最中。
こちらを見上げる一人の女子生徒を目にして、衝撃を受けた。
それはもう、ぐわっし! と心臓を鷲掴みされたかのように。
最後まで笑顔を保っていた自分を褒めてやりたい。
「忘れろ、忘れろ、忘れろ」
これといった特徴のない、ごくごく平凡な人族の少女だった。
だというのに、その顔が脳裏に焼き付いて離れない。
あまつさえ、声を想像し、笑顔を思い浮かべ、自分の名前を呼ばせる姿まで勝手に思い描いてしまう。
クロードは奥歯を噛み締めた。
制御できない感情が気持ち悪い。
本能が、体を勝手に悦びで震わせるのだ。
「番なんて、私には必要ないのに……!」
生命体の頂点に君臨する種族、竜人族であるクロード・ドラクヴァル。
大国の王太子でもある彼には、当然、婚約者がいる。
運命の番。
それは神が定めた、絶対の伴侶。
異種族であっても生殖が可能になる、奇跡の相手。
命を繋ぐ生き物にとって、番は神からの祝福である。
クロードは手にしていた古書を静かに閉じ、重いため息を吐いた。
ざあざあと降る雨の音が窓越しに響く中、ひと目がつかないように訪れたこの場所で、ひっそりと考え込む。
ここは世界一の蔵書数を誇るローゼン学園図書館。
美しく装飾された閲覧室の書架の間で、『番』と記された本を読み込んでいたクロードは、眉間をぐにぐにと揉んだ。
「神よ、なぜ種族を超えて子を成す必要があるのですか……政治的にも倫理的にも問題だらけではないですか」
運命だの奇跡だの祝福だの。
耳当たりの良い言葉で飾られてはいるが、理性も感情も飛び越えて本能だけで誰かを愛するなど、不健全かつ不道徳にもほどがある。
クロードは、番、をそう結論づけていた。
放課後。
充実した学園生活の中で、稀に生じる空白の時間を、クロードはひとり静かに過ごすのが好きだ。
よって、この図書館には昔からよく通っていた。
つまり、番について調べるために初めて来たわけではないし、ましてや特定の誰かに会うためでもない。
ただ普段から利用している場所に、たまたま、偶然、自分の、番かもしれない少女、が居合わせているだけだ。
運命とはかくも恐ろしい。
クロードは閲覧室のいつもの席に座る女子生徒を盗み見た。
今日、机の上に積まれた本は三冊。
彼女はまず全て軽く流し読みし、その中で気になるものを選んでから、じっくりと読み直す。
何かに書き写す様子はない。純粋に読書を楽しんでいるのだろう。
読み進める間は真剣そのものだが、読了後には本の内容でも考察しているのか、ころころとよく表情が変わる。
柔らかなミルクティー色の髪はいつも後ろにまとめられていて、いや、待て。
クロードは顔を覆った。
これは観察だ。
そうだ、確信を得るための観察だ。他意はない。
敵を知らずして勝利はないと言うではないか。何と戦っているのかは分からないが。
そして仮に番であったとしても、関わりさえしなければ問題はない。
卒業して国に戻れば接点も消える。人族の寿命はあっというまだ。
これまで築いてきた婚約者との信頼関係を、クロードは壊したくはない。
というか、こちらは姿を見るたび動悸息切れを起こしているというのに、向こうは何の反応もないとはどういう了見だろう。
やはり番ではないのではないか。
ならばこの胸のときめきは何だ。
いや、ときめきとはなんだ。
クロードは静かに項垂れた。




