@授業の前:中野先生ってどんな人?
そんな風に俺たちは、しばらく他愛のない話を続けていた。この四日間、二人きりでどれだけ持ち堪えられるか不安だったが、こうして話していると案外楽しいかもしれない。芦川の言うように、お互いに気を遣わなくていいというのは大きい。
「そういえば、今回の補習担当の、中野先生ってどんな人なんだろう?」
とりあえず、俺としては、今回の補習が岩山でなくてよかった。あの口うるさいだけのオッサンは勘弁願いたい。俺が水泳の授業をさぼった原因の一つも、岩山のせいだ。
「女性の体育の先生よ。20代の若い先生で、今年度は、高3の担任をしていたそうよ。私も、一度、ちらっと見かけたことがあったけど、穏やかで優しそうな先生だったわ」
芦川が教えてくれた。
「へえ、そうなんだ」
「うん。だから、中野先生が今回の補習担当だって聞いたとき、すごく嬉しかったの」
芦川はそう言って、にっこりと笑った。その笑顔を見て、俺は少しドキッとした。いや、別に、惚れたとかそういうのではない。ただ、いつもクールな芦川が、こんなふうに誰かのことを褒めて笑うのは、少し意外だったからだ。それに、その中野先生という人が、高3の担任をしていたということに、純粋に凄いと思った。俺の中では、高3の担任と言えば進路指導などで大変そうで、ベテランの英語とか数学の先生、というイメージがあったからだ。それが体育の先生というのは、かなり異例ではないか。そんな有能な先生が、わざわざ高1の俺たちの補習を担当してくれるなんて。しかも穏やかで優しそうな女性の先生というし。これは期待できそうだ。少なくとも、あの岩山みたいに怒鳴り声で追い回されることはないだろう。
「それより、佐藤」
「ん?」
「今日からの補習、頑張ろうね」
芦川がそう言って微笑んだ瞬間、また、心臓が小さく跳ねるのを感じた。そんな自分の反応に戸惑いながらも、「おう」とぶっきらぼうに返事をした。
その後もしばらく話を続けていると、不意に教室の扉が静かに開いた。
「みなさん、おはようございます」
穏やかで透明感のある女性の声が教室に響いた。
そこに立っていたのは、濃い紺色のジャージ上下を着た先生だった。その上に、淡い紫色の緩めのブラウスシャツを着用しており、袖口は肘のあたりまで折り返されている。そのため、折り返された袖の下からはジャージの袖が見え隠れしている。また、ブラウスの襟元からは、ファスナーをしっかり首元まで上げたジャージの襟元が僅かに覗いているのが見えた。ショートボブの黒髪と相まって、清潔感のある印象を与える先生だった。全体的に優しい雰囲気を纏っている。
(これが、中野先生……)
教室の空気が、ふわりと変わった気がした。先生の纏う清潔感のある香りと、自信に満ちた佇まいがそうさせるのだろうか。
芦川は先生の姿を一瞬見つめた後、静かに頷いた。彼女の表情はいつもの通り落ち着いていたが、どこか安堵感のようなものが漂っているように感じられた。芦川が言っていた通りだ。本当に穏やかで優しそうな先生だった。背が高く、すらりとした体型は、ジャージを着ていながらもモデルのようなオーラを放っている。
中野先生は、教卓の前にゆっくりと進むと、俺たちの方に向き直った。
「はじめまして。1年生の水泳補習を担当することになりました、中野です。よろしくお願いしますね」
先生はそう言って、にっこりと微笑んだ。その笑顔は、まさに「太陽みたいだ」と表現するのがぴったりくるような、屈託のないものだった。
「芦川歩美です。よろしくお願いします」
俺が口を開く前に、芦川が真っ先に挨拶をした。いつも通りの落ち着いたトーンだが、どこか嬉しそうな響きも含まれているように聞こえた。それほどまでに、中野先生に対する期待が高かったのだろうか。そして、その芦川の隣で、俺は少し出遅れてしまった形になる。
「あ……佐藤拓哉です。よろしくお願いします」
慌てて挨拶すると、中野先生は俺にも優しい眼差しを向けた。
「佐藤拓哉くん、芦川歩美さんですね。今回、短期間ではありますが、二人の指導を務めさせてもらいます。改めて、よろしくお願いしますね」
先生は穏やかな口調でそう言うと、教壇の上に手に持っていたファイルを置いた。その姿は、若くして高3担任を任されるだけあって、非常に落ち着いていて頼もしい。
中野先生のジャージは、全体的にシンプルなデザインだ。それに薄紫のブラウスという組み合わせが、なんだか大人っぽくておしゃれに見える。特に、先生のブラウスの襟元から、ファスナーを首元までしっかり上げたジャージの襟が、ほんの少しだけ見えているのが、妙に目を惹く。袖口も少し捲られていて、そこからも紺色のジャージの袖が覗いている。スポーツインストラクターっぽさと、知的な雰囲気が混ざり合っていて、なんだかドキドキしてしまう。
(いやいや、何考えてんだ俺は! 相手は先生だぞ!)
慌てて邪念を振り払う。先生はそんな俺の心中など知る由もなく、淡々と説明を続ける。
「それでは最初に、簡単な自己紹介からしましょうか」
「え?」
思わず声が出た。自己紹介? そんなの必要なのか?
「二人はお互い知っているかもしれないけど、私とはあまり話したことがないでしょう? この補習の期間は、私にとってもあなたたちにとっても新しい経験になると思うの。だから、お互いを知るために、少しだけ時間をもらいたいのよ」
先生はそう言うと、にこりと微笑んだ。その笑顔は、なんだか拒否できない力を持っているように感じる。確かに、芦川とは幼馴染だが、中野先生とはこれがほぼ初対面だ。ここで自己紹介というのも、あながち悪いことではないのかもしれない。
「それじゃあ、まず、先生から」
そう言って、中野先生は教壇に立ったまま、少しだけ身体を前に傾けた。その動きに合わせて、ジャージの袖が少しずり上がり、ほっそりとした手首が覗く。ブラウスの襟元からのぞくジャージの襟も、角度によってはきれいに首筋を覆っているのが見える。
「改めまして、中野紗耶香です。生まれは東京の郊外。大学卒業後すぐに教員になり、数年前からこの高校で働いています。今年度は高3のクラスを担任していて、主に体育を教えています。趣味は料理とジョギング。週末は、近くの公園を走ったりしていますよ。皆さんより年は少し上ですが、まだまだ元気いっぱいです!」
先生は最後に軽くウインクをして見せた。その仕草がなんともチャーミングで、俺は思わずどきりとする。
次に、芦川の番になった。
「芦川歩美です。特技は……強いて言えば、天体観測でしょうか。天文部に所属しています。水泳は中学では部活でしていたので、苦手というわけではありません。よろしくお願いします」
相変わらず芦川は冷静沈着だ。ただ、中野先生の前だからか、あるいは俺が隣にいるからか、いつもより少しだけリラックスしているように見える。
最後に俺の番だ。
「佐藤拓哉です。好きなものは甘い物……ですかね。特技と言えるものは特にありません。最近、漫画を読むのにハマってます。よろしくお願いします」
我ながら平凡な自己紹介だ。だけど、嘘はついていない。
中野先生は、俺たちの自己紹介を聞き終えると、満足そうに頷いた。
「ありがとう。みんなのこと、少しだけ知ることができたわ。これから四日間、一緒に頑張りましょうね」
その優しい声に、俺と芦川は揃って頷いた。
(なんだか、いい先生みたいだな)
初日の段階で、すでにそう確信していた。
少なくとも、今まで出会ったどの先生とも違う。穏やかで、優しくて、そして何よりも、人間味がある。俺は中野先生の紺色のジャージ姿を見ながら、これから始まる補習生活に、ほんの少しだけ期待を抱いていた。




