登校:春休みになって
3月を半ばは過ぎとは言っても、朝の空気はまだ冷たさを残していた。しかし、春の兆しは確実に感じられる。数日前まで頑なに咲こうとしなかった桜の蕾が、今朝は少しだけふっくらとしているような気がした。
今日から四日間の水泳補習授業が始まる。正直、憂鬱だ。なんでこの時期に水泳なんだよ、しかも補習で。他の連中は今日から春休みだというのに。まあ、面倒くさいからと、7月に授業をさぼった自分が悪いのだが。
俺が着ているのは、学校指定の青色のジャージだ。袖の部分とパンツの両脇には、二本の白いラインが走っている、至って普通のデザインのやつ。その上から、学ランの上着を羽織り、ボタンをきっちりと留めている。補習の案内のプリントに、「当日はジャージの着用をお願いします。その上に制服を着てください」という指示があったからだ。まあ、運動部の連中が時々こんな格好で部活帰りに歩いているのを見かけるから、珍しくはないのかもしれないけど、そうではない俺としては、慣れないことこの上ない。ただ、今日の補習にはもう一人、俺以外に女子が一人参加すると聞いていた。俺とその女子だけ、つまり二人きりで授業を受けることになるらしい。一体どんな奴なんだろうか。女子と二人きりで授業なんて、緊張するじゃないか。まあ、補習なんだから、真面目にやるだけだろうけど。
いつもの通学路。普段なら自転車通学が多いこの時間帯だが、今日はひどく静かだ。終業式が終わった後だからだろうか。時折すれ違う生徒たちも、どこか解放感に満ちた表情で、俺とは違う春休みの空気を纏っている。みんな、私服だったり、部活のユニフォームだったり。そんな中で、なんで俺はジャージに制服で、終業式後の学校になんか行かなければならないのだ。そんなことを考えながら歩いていると、不意に冷たい風が吹いてきた。
「寒っ」
思わず身震いする。学ランの上着があってよかったと思った。ポケットに手を入れて、少しでも暖を取ろうとする。
校門が見えてきた。普段なら朝練中の部活動の声が聞こえてくるものだが、今日はそれもまばらだ。グラウンドでは、おそらくサッカー部か陸上部だろうか、数人の生徒がランニングをしているのが見えた。
校舎の前に立つと、そこには既に一人の人影があった。ロングボブの髪と細身のシルエットの女子。
こちらに気づいたようで、ゆっくりと振り返る。
「……よう」
声をかけると、少し驚いたような顔をした後、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻った。
「あら、佐藤。早いわね」
芦川だった。
「いや、お前もな。いつからここにいたんだ?」
「ついさっきよ」
芦川はそう言って、軽く肩をすくめた。彼女も俺と同じように、学校指定のジャージを着ている。ただし、色は俺の青色とは違い、臙脂色。そのジャージの上には、黒色の冬用のセーラー服の上着を着ていた。ジャージの首元までファスナーが上げられ、セーラー服の襟からはそのファスナーが見えている。俺と同じような格好だが、女子の場合はこういう組み合わせになるのか。男子と違ってセーラー服の上着を着るので、少し違った印象を受ける。
「補習って、俺のほかに女子が一人受けるって聞いていたけど、まさかお前だったとはな」
俺は素直に驚いた。
「ええ、まあね」
芦川は特に動じた様子もなく、さらりと言った。
「佐藤こそ、珍しく早いじゃない。こういうのは、いつも遅れるタイプだと思っていたけど」
「うるせえな。たまたまだよ」
芦川の皮肉っぽい言葉に、俺はいつものように軽口で返す。そうだ、こいつはこういう奴だ。小さい頃から知っている幼馴染だが、妙に冷静で大人びたところがあって、昔から掴みどころがない。ただ、こうして話してみると、懐かしい感覚がよみがえってくるのを感じた。
俺たちは並んで昇降口でシューズを履き替え、階段を上がって補習教室へと向かった。
芦川歩美。俺の幼馴染だ。小学生の頃は近所に住んでいて、小学校6年生まで一緒のスイミングスクールに通っていた。芦川は昔から水泳が好きで、才能もあった。俺も一緒に泳いでいたけど、どちらかというと遊びの延長みたいなもので、芦川ほど本気ではなかった。
中学に入ると、芦川は親の勧めもあって、水泳部の強豪として有名な県外の全寮制の女子校へ進学することになった。俺は地元の公立中学へ。そこからはほとんど会うこともなかった。たまに母親同士が電話で話す時に近況を聞かされたりはしたが、芦川がどんな中学生活を送っているのか、詳しくは知らない。
去年の春、芦川はまた地元に戻ってきて、俺と同じ高校に入学してきた。久しぶりに会った芦川は、どこか疲れきったたような、周囲を警戒しているような雰囲気をまとっていた。入学式の日に「久しぶり」と声をかけたら、一瞬驚いた顔をした後、「佐藤? 結構大きくなったじゃない」と、昔と変わらない、少し生意気な口調で返してきた。それ以来、隣のクラス同士だが、廊下ですれ違ったら話をするし、たまに昼飯を一緒に食べたりもする。
この学校には立派な地下プールがあって、水泳部もある。芦川は昔から水泳が得意だし、もしかしたら入るんじゃないかと思っていた。だが、芦川が選んだのは天文部だった。部活動紹介で見た限りでは、ゆったりとした雰囲気の部活だった。
芦川が天文部に入ったと聞いたとき、俺が「ずっと水の中ばかり見ているのも飽きるだろうしな」と言ったら、
「佐藤も面白いこと言うわね。確かに宇宙は深くて広いわよ。……うん、深くて広い方がいいのよね」と、いつもの調子で答えていた。
芦川が中学の頃のことや水泳について話すことはほとんどなかったし、俺も特に聞きたいとは思わなかった。入学式の時に感じた違和感もすぐに消えて、いつもの芦川に戻っていたからだ。クラス内をはじめ学年の生徒ともうまくやっているようだったし、親友も何人かいるみたいだ。ただ、たまに芦川が遠い目をしている時がある。例えば、中庭で友達と談笑しているとき、ふと何かを思い出したように一瞬だけ表情が曇ることがある。恐らく、他の人は気づかないような些細な変化だが、幼馴染だからか、俺にはそれがわかった。でも、高校生なのだからいろいろな悩みや思い出もあるのだろうと思っていた。特に気には留めていなかったし、詮索するのもどうかと思い、俺からは何も聞いていない。




