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熱帯夜  作者: 一色靖
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熱帯夜 - 後編

南海の日系企業、シーバース社の小さな事故による保険金請求に調査に向かった調査員のおれたちは、同社プラントの蒸留塔爆発という事態に出遭う。これは偶然か?それとも……


   熱帯夜 - 後編


      一色靖



  第三章 蒸留塔爆発



 シーバース社マイネシア支社石油精製プラントは、蒸留塔の火災により操業を停止した。

 これが三十日以上続くと、オールドストーンは、シーバースに保険金を支払うことになる。だが、明らかに蒸留塔を修理するのは無理で、一度撤去して新たに建設しなければならない。どう見ても三十日以内に操業再開とはいかない。

 オールドストーン社は、おれたちに、直ちに調査をおこなうよう命じた。いつもなら、調査員を派遣するのだが、今回はちょうどおれとハーシュが現地にいるために、スムーズに事が運んだ。

 鎮火したあと、再発火の恐れがない事を確認し、危険な塔壁の端くれを叩き落としたりする安全確保の作業に二日を要した。おれたちはそれまで待たなくてはならなかった。だが、決して暇なわけではなく、会社から矢継ぎ早に指示が次々と舞い込んできて、各種の書類仕事に忙殺された。

 二日後、調査の許可が下りて月形部長がおれたちを現場に案内した。木戸支社長も姿を現した。

「今度も同じ連中の仕業に違いありません。爆薬をしかけられたんですよ」月形部長は興奮気味におれたちに話した。蒸留塔の最下部に巨大な穴が開いている。穴の縁は内側にめくれていて、外から爆圧がかかったことは明らかだ。月形部長のいうとおり、これは間違いなく爆発物によるものだ。それにしても、あたりは精製油や重油、消化剤が混ざって、吐き気を催すような臭いで飽和していた。おれは頭痛がしてきた。

「爆薬はなんだと思う?」ハーシュがおれにたずねた。おれには、これまで手がけた仕事を通じて武器や火薬の知識があった。

 おれは臭気の中に混じるRDXの臭いに気づいた。ホルムアルデヒド、アンモニア、硝酸を原料とする爆薬で、原価が安いために、その道の世界では比較的普及している。

「RDXの臭いがする」

 だがRDX爆薬をただ蒸留塔の壁に貼り付けて爆破しても、爆圧は外に向かい、穴を開けることは無理だ。

 おれたちは破断面や裂けてめくれた壁の写真を撮った。こううまく内側に爆圧を向けるためには、RDX爆薬を塔壁に取り付けた後、頑丈な金属板で覆ってしっかりと封印しなければならない。これまで起こったような幼稚なぼやとは違い、相当に手の込んだ所業だ。

「蒸留塔についてはご存じですか?」月形部長がたずねた。

「ええ、プラントの仕事は何度か手がけたことがありますから」おれは答えた。

「これは加圧式の一般的なタイプの原油蒸留塔で、ナフサ、ガソリン、軽油などを生産していました」

「そうですか。加圧時運転の塔内圧力は?」

「二百~四百キロパスカルほどです」

 蒸留塔内部は、非常階段のように何段にも分かれた構造になっている。そこに原油を注入して加熱器で加熱すると、蒸発温度が低いものは揮発して上の段に登り凝縮する。蒸発温度が高いものは蒸発せずに下の段に流れ落ちる。これをくり返すと、原油を様々な成分に分離することができる。段によって、ガソリンが溜まったり、軽油が溜まったりするわけだ。これを段ごとに抜き出すことで各種精製油を得ることができる。

 下部の調査は終わり、次は上の五カ所の裂け目を調べなければならない。だが、階段が焼け落ちているため、上には登れない。すると月形部長が、ゴンドラ付きクレーン車を手配してくれるという。

「そんなものが急に用意できるんですか?」

 おれの問いに月形部長が答えた。

「もちろんわたくしどもでは持っていませんが、コルサ建設という会社が持っています。うちのプラントを手がけた会社ですので、話は通しやすい。二時間ほどでやってくると思います」

「ところで、爆薬をしかけた犯人の捜査はどうなっていますか?」おれは月形部長にたずねた。

「おとといから警察が来て、関係者から事情聴取をしています。さっきも言いましたが、例のぼや事件と同じ連中でしょう」月形部長は言った。どうせたんまりと袖の下を渡して都合の良いように捜査を進めさせているはずだ。

 やがて、大きな車体を揺すりながら、コルサ建設のクレーン車が到着した。その図体を入り組んだ蒸留塔のそばに寄せるのに、かなり苦労していたが、なんとか横付けすることに成功した。

 地上六十メートルのゴンドラの中で、おれは深呼吸した。この高さまで上ると吹き渡る風で臭いが気にならない。

 ここからならアケラの地形がよく分かる。濃紺色の海に、ちょうど角笛のような形で陸地が食い込んでいて、シーバース社は、その三角形の陸の上にプラントを展開していた。海岸線は岩場で、白く波が砕けている。おれたちは角笛の先端に向いているが、左手の海岸線の後方に、おそらくアケラの漁港らしき港があり、漁船が何隻も停泊していた。

 おれたちは、ゴンドラに乗って上昇し、蒸留塔の各所の裂け目を念入りに調べた。蒸留塔は、いたるところ真っ黒に焦げ付いて、火災の激しさを物語っていた。

 おれとハーシュは言葉を交わした。ここなら誰にも話を聞かれない。

「どう思う? 健吾」

「爆薬が使われたのは事実だ。たぶん外部の、それも反対派である漁業組合の連中がやったんだろう。ゲート警備員は今回もぐるだ。だがな……」

 途切れたおれの言葉をうながすようにハーシュがたずねた。

「だが、なんだ?」

 おれは、マーナのこと、漁業組合が実態はマーナの下部組織であること、月形部長がマーナとつながりがあるらしいこと、三年前の立花変死事件など、ソムニから聞いたことをハーシュに伝えた。

「つまり漁業組合はマーナの手先だから、このプラントを破壊する必要なんかないんだ。

 反対派を標榜するのも、シーバース社から時々和解金を引き出すための方便だと思う。そしてそれはそっくりマーナに納まる。その和解金の支払いを管理しているのは月形部長だ。会社の公金だから、部長のふところは痛まない」

「だが、現実に、反対派による四回のぼや騒ぎがあったじゃないか」

「それだ。おれは三日前のこの火災が起きたとき、この耳で爆発音を聞き、この目で燃え方の様子も目撃し、そしていまこうして調査をしている。普通なら、外部の者の故意の爆破という報告をこのあと上に上げるだろう。疑念をはさむ余地がない。つまりすんなりと保険金を受け取るのにこんな確実な方法はない」

 ハーシュはおれの言葉にうなずいた。おれは続けた。

「だが、できすぎてると思わないか?

 シーバースは爆発が起こるときにわれわれにいてほしかったんだよ。それで前もって呼び寄せるために、四回のぼやが必要だったんだ。おそらく月形部長の指示で、数名の総務部社員が関わって起こしたのだろう。だから治安省次官にわいろを贈ってぼやの犯人たちを釈放させたのはたぶん月形部長だ」

「するとこの蒸留塔火災は……」

「そう。偽装災害だ。月形部長たちは、保険金をだまし取ろうとしているとおれは見た」

「だが月形部長にしても保険金は会社の公金だろう。そう簡単に手を付けることはできないはずだ」

「そこだ。月形部長が会社のためにこんなことをやっているとは考えにくい。何らかの形で自分のふところが潤うようにしているはずだ。そのためには、公金である保険金を洗浄する必要がある。金の洗浄方法を突き止めなければならない。だがハーシュ、このことはまだ会社には伝えるなよ」

 そのときおれは、もうひとつ別のことを考えていた。それは、保険金が下りるか下りないか、いまが正念場だということだ。月形部長にしてみれば、おれたちがどんな報告を会社にあげるか、きわめて興味があるはずだ。そこで、あることに思い至った。

「月形部長がおれたちをゲストハウスに泊めたのはわけがあるんじゃないか」

「ぼくもそれが気になっていたよ」とハーシュ。

「これはなにか仕掛けがあるな」

 おれたちは夕刻にはひと通りの調査を終えることができた。

 月形部長がゴンドラから降りてきたおれに言った。

「どうです? 誰かが意図的に蒸留塔を爆破したに違いありません。石崎さんもあのとき爆破音を聞いたでしょう?」

「ええ。あの音は明らかに爆薬によるものでしょうね」この狸め、と思いながらおれは答えた。

 月形部長は大きくうなずいた。

 木戸支社長が、おれたちに確かめた。

「保険金の支払いは間違いありませんね」

 難しい質問だ。おれは今回の件では安請け合いはしたくなかった。だが、観察した限り爆発物が使われたことは確かなようだ。

「まだわたしの口からはっきりしたことをお約束することはできませんが、できるだけ迅速に調査を進めます」

 木戸支社長はほっとしたように言った。

「助かります」

 この人物の実像を、おれは計りかねていた。月形部長とマーナの癒着はほぼ間違いないだろう。だがそれに木戸支社長も一枚かんでいるのかは、まったく分からない。とはいえ月形部長が単独で行うには、一連の行動は大胆すぎるという気がする。後ろ盾がなければここまでできないのではないだろうか。

 われわれの調査の一方で、警察はゲート警備員のマイネシア人三名を参考人として連行していった。


 ろくなホテルはないと嘘をついてまで泊まらせたかったゲストハウスだ。必ず理由があるはずだ。おそらく電話、電子メールなどは監視されているのだろう。盗聴も充分ありうる。

 おれたちはゲストハウスでは重要な話はできなくなってしまった。おれは浅野真子が、安心して飲める店があると言っていたのを思い出した。だが浅野を交えて話すには、浅野が月形部長の一味なのかどうかを知らねばならない。

 おれはシャワーで油臭い体を洗い流すと、社屋に向かい、総務部の部屋をたずねた。定時は過ぎていたが浅野は残っていた。

「浅野さん」

「あら石崎さん」浅野はデスクから顔を上げて出迎えた。

「しばらくぶりですね」

「そうですね。どうです、飲みに行きませんか? 浅野さんが言っていた店に連れて行ってくださいよ。もっとも先日のわいろの一件で、浅野さんがわたしを嫌いになっていなければの話ですが」

 浅野はこぼれるように笑った。

「嫌いになんかなりませんよ。ちょっとびっくりしましたけど。

 目的のために手段を選ばないっていうのは、わたし、けっこう好きなんです。わたし自身はそう大胆にはなれませんが」

 人気が少なくなって、遠くまで見通せる総務部の部屋を見回しながら、おれは言った。

「ソムニは? もう帰りましたか?」

「アリスタ? ええ、きょうはもう」

「そうですか。いれば、ソムニも誘おうかと思ったんですが」

「じゃあソムニはまた今度ということで。わたし支度します。ゲストハウスの前に十五分後に行きますね」

 それを聞き、おれはゲストハウスに戻った。

 ハーシュにはノートパソコンなど、大事なものはゲストハウスに置かずに、すべて身につけていくように言った。おれもグロックをベルトの下にはさんだ。

 ハーシュとともにゲストハウスの前で待っていると、浅野がやってきた。

「いきましょうか。歩いて二十分ほどです」

 おれたちは浅野に続いた。

 入口ゲートにさしかかったが、ゲート警備員は日本人になっていた。

 シーバースをあとにして、道すがら、黙って歩くのも不自然なので、軽い会話を交えた。自然ときょうの調査のことに触れないわけにはいかなかった。おれは慎重に言葉を選びながら、きょう調べて分かったこと、いまのところ火災が爆破によるものとみていることを話した。

 足もとがはっきり分かるくらい明るい月が出ていたが、おれが一番知りたい、浅野の表情までは髪で隠れて分からなかった。

 ハーシュは終始口を開かなかった。ハーシュは、きわどい言葉のやり取りで相手の腹を探るようなことは苦手だ。それを自分でよく知っている。

 アケラの繁華街から少し外れたところに、その店はあった。驚いたことに店の名は日本語で「信玄」となっている。日本でよくある居酒屋の体をなしていた。

 中に入ると、けっこう混んでいた。日本人が多い。おそらくシーバースの社員がかなり混じっているだろう。串鳥や魚の焼ける香ばしい匂いが満ちていた。もう長いこと嗅いでいない懐かしい匂いだが、こんな南の島でそれを堪能できるとは思わなかった。

「いらっしゃい! 何名様?」女将さん、といっても年の頃はおれと同じくらいだと思うが、その女将さんが、おれたちに日本語で声をかけた。

「三人だけど小上がり、いい?」浅野が慣れた口調で答えた。おれはすこし心が浮き立っていた。というのも、どうやら今夜は久しぶりに日本酒が飲めそうだからだ。マイネシアのビールも悪くはないが、こう毎日だと飽きてくる。

「あら真子ちゃん。お客さん連れ? 一番奥の小上がり使って」

 女将さんは言った。カウンターの中ではやたらと体格の良い二人の日本人がねじりはちまきで料理を作っていた。

 おれたちは小上がりに通された。

 まずはビールで乾杯をした。日本語で、

「お疲れ様」と言ってジョッキをぶつけた。ハーシュも片言で同じ言葉を言った。

 さて、とおれは、ひそかに面接試験を開始した。

「浅野さん、先日、首都リバラの警察にいく途中、わたしがバーを見つけると、あそこは柄の悪い連中が集まるからよした方がいいと言いましたね?」

「ええ」

「その柄の悪い連中というのはマーナでしょう」

 浅野は驚いた顔をした。

「よくご存知で」

「ソムニにいろいろ聞いたんですよ」

「アリスタと話したんですか?」

「ええ。ちょうど爆発が起こる前に話していたんです」

「わたしもマーナのことは、同僚に聞いただけで、くわしくは知らないんです」

 おれはストライク・ゾーンど真ん中にストレートを放り込むことにした。

「浅野さん、あなたは月形部長がマーナと癒着していることを知っていますか? もしくはあなた自身も関わっていますか?」

 浅野の、ジョッキを持ち上げた手が止まった。

「なんですって?」

 おれはビールを飲み干すと、日本酒を注文しそれを飲みながら、ここまで推理した月形部長をめぐる相関図を、順を追って話した。

「四件のぼや騒ぎは、われわれをマイネシアに呼び寄せるために、月形部長が漁業組合の反対派に金をわたして起こしたものです。そして警察に逮捕された容疑者たちは、おそらく月形部長が治安省次官にわいろを贈って釈放させました」

 浅野は眉を寄せて聞いていた。

 これは危険な行為といえる。浅野が月形部長側の人間なら、おれたちが既にそこまで分かってしまっているということを明かすことになり、おれたちの身が危なくなる。

 だがそうでないなら、浅野が目を覚ますよい薬になるだろう。おれには浅野と月形部長が関係しているとはどうしても思えなかった。

「反対派といっても本気で反対しているわけではなく、時々、シーバースから流れる和解金を目当てに活動しているだけです。その和解金も月形部長の決裁で支払われています。そうすることで、裏では太いパイプができあがっているわけです」

 浅野は首を振った。

「わたしはなにも知りません。まだ赴任したばかりで、大きな仕事をまかされることもありませんし、月形部長とも正規の業務以上の関わりはありません」

 どうやら本当らしい。

「ただ、なんとなく会社に裏表があるのは感じていました」

「あまり長居する会社には思えませんね。たとえば三年前に総務部の社員が水死体で発見された事故はご存じですか?」

 浅野の反応は唐突で意外なものだった。ジョッキをがたんとテーブルに置くと、横を向いて唇をかんだ。おれは、浅野にプライベートな質問をしたときの反応を思い出した。

「浅野さん、この件についてなにかご存じなんですね? 立花さんの水死について」

 立花、という名前が出たとたん、浅野の体がびくんとかすかに脈打ったのをおれは見逃さなかった。

「浅野さん、われわれは今回の蒸留塔の火災を、偽装災害だとみています。首謀者はおそらく月形部長です。ただ、動機が分からない。保険金をだまし取ったとしても、それは会社の金です。月形部長が自由にできるものでもない。それなら、なぜ月形部長はそんなことをしたのか。私腹を肥やすため、と考えなければ、説明が付かないんですよ。

 こういう紐付きの金を、自分のポケットに入れられるフリーな金に換えることを、洗浄する、といいます。考えられるのは月形部長は、保険金の洗浄方法も準備しているだろうということです。

 それに立花さんの水死が関係しているように思うんです」

 浅野はうなだれた。前髪が垂れて顔が隠れた。

「立花は……わたしの六歳上の兄です」

 意外な事実に、おれは一瞬言葉を失った。疑問が百出してくる。

「そんな……でも、どうして名字が違うんです?」

「立花努とわたしの両親は早くに離婚し、兄は父方へ、わたしは母方へと別れて暮らすようになりました。しかし、わたしは兄さんと頻繁に連絡を取り合い、親しく通じてきました。大学を出た兄さんは、シーバース社に入社し、このマイネシアに配属になったんです。

 それが、ある日突然、水泳中に水死したと連絡があって……。兄さんは泳げないんです。水泳なんてするわけがないじゃないですか。

 わたしは、これは絶対事故じゃないと思いました。なにかあったんです。隠されたなにかが。こんな南の島でひとりで亡くなるなんて、兄はあまりにもかわいそうです。しかし当時のわたしにはどうすることもできず、ただ時の過ぎるのを待ちました。

 大学を出たわたしは、兄と同じシーバースに入社し、自分の手で当時の真相を明らかにしようと思ったんです」

 なるほど、だからわざわざマイネシアを自ら希望して赴任したのだ。おれは浅野の一途な思いに、心から同情した。だが、これは浅野が考えているより、ずっと邪悪で、巨大な敵が相手なのだ。おれは、浅野がなにか行動を起こす前に、おれたちがやってきたことに今さらながらほっとしていた。

「力になりましょう。おそらくお兄さんは、大事なことを知って消されたんです。マーナの仕業でしょう。しかし裏で糸を引いているのは……」

 浅野は顔を上げた。その目は涙をたたえていた。その涙におれは心を揺すぶられた。

「あなたはきょうここで聞いたことを、誰にも話してはいけませんよ。わたしたちとよく会っているという事ですでに月形部長はあなたに警戒心を持っているはずです」

 浅野はおびえた色をなした。

「大丈夫。あなたはわたしが守ります」おれは言った。こんなことはおれの仕事ではない。おれは自分でどうかしていると思った。

 浅野真子に恋をしている、そんな簡単な事実に初めて気がついた。同時に少年のようにうろたえていた。なぜ浅野に惹かれるのか? 若いから? 日本人だから?……いつの間にか必死に理由を探している自分が可笑しくなった。恋愛になぜ理由が必要なのだ? だがそんなものをあわてて探すくらい、こういう感情にはご無沙汰だった。

「実は、立花さんのデスクの中から、唯一持ち出せたものがあるんです。これがなにかのヒントかもしれない」

 そういっておれはポケットから鍵を出した。

「兄が残した鍵?」

「ええ、アリスタが見つけてくれたんです。その他は一切合切、会社が持って行ってしまった。これは会社のデスクの鍵でもないし、ドアの鍵でもありません」

「どれ」ハーシュが手を伸ばして、おれから鍵を受け取った。

 しばらく注意深く観察していたが、

「これは銀行の貸金庫の鍵じゃないか? だとしたらこの4923というのが金庫の番号だ」と言った。相変わらずハーシュは鋭い。

「マイネシアに銀行は?」おれは淺野にたずねた。

「シティ・バンクが首都リバラに支店をもっています。わたしもそこに預金を預けています」浅野が涙を手でぬぐいながら答えた。

「そこだ。そこにいってみましょう」

 ハーシュが口をはさんだ。

「本人か、本人の委任状を持った人間じゃないと開けさせてくれないはずだ」

 おれは考え込んだ。言われてみればそうだろう。鍵を持っているからといって、誰にでもほいほいと公開してくれるはずがない。

「だが本人は死んでいる」おれは言った。

 みんな黙り込んだが、おれは付け加えた。

「どうってことはない。おれがなんとかするよ」

 二人の視線が集まったが、おおかた考えていることは想像できる。チョコレートを使うんだろうと。果たして、おれの腹づもりはその通りだった。



  第四章 鍵



 翌日、ソムニの運転する車で、おれとハーシュと浅野真子は、再び首都リバラに出向いた。例によって太陽にじりじりと炙られながら、げんなりする悪路を通り、車はリバラに乗り込んだ。

 シティ・バンク・マイネシア支店はリバラの中心街にあった。銀行のドアをくぐって、おれたちはようやく冷房の恩恵に浴した。

 貸金庫担当の受付嬢に立花の鍵について事情を話した。彼女は言った。

「ご本人がお亡くなりの場合は、ご遺族のかたであれば開けることができます」

 浅野は遺族だが、それを証明するものを持っていない。

「これでなんとかなりませんか?」おれは百ドル紙幣を小さくたたんでカウンターの内側にそっと置いた。

 規律の厳しい会社では、通常、これに対して「こういうものは受け取れません」厳として突っぱねる。ところが彼女は、

「無理です」と答えた。その意味するところは足りないということだ。もう百ドルたたんで差し出した。彼女はさりげなく左右に目をやると金を手で隠した。そして言った。

「難しいですね」

 おれはさらに二百ドル、レイズした。彼女はそれらを集めて、手元にあった封筒に入れた。おもむろに振り向くと、片手をあげた。

「カピ! こちらを貸金庫室にご案内して」

 カピと呼ばれた行員がカウンターを廻って歩み寄ってきて、「こちらへ」と招いた。おれたちはあとに続いたが、おれはちょっと受付嬢を振り向いてみた。彼女はちらりとおれを見て、唇の端に微笑を浮かべた。おれも微笑んだが、少々あきれてもいた。たかだか四百ドルの袖の下で、他人が持ってきた貸金庫の鍵を認めてしまうのだ。シティ・バンクも落ちたものだ。もっともそのおかげで、おれたちは金庫の中身を拝めるわけだが。

 カピは長い廊下をたどって、電子錠でロックされたドアについた。電子錠のキーを叩くと、軽い油圧の音とともに分厚いドアが開いた。真ん中にテーブルがあり、四方の壁はびっしりと貸金庫の扉が並んでいる。金庫はOAデスクの引き出しほどの大きさだ。

「では、ごゆっくりどうぞ」カピは出て行った。

 おれたちは4923の番号をさがした。浅野が見つけた。

「これですね」

 おれは、そこに鍵を差し込んでひねった。金庫の取っ手に手をかけると、それは滑らかに引き出された。手に持ってみると、意外なほど軽かった。ふたに手をかけると、おれは言った。

「ソムニ。部屋から出てもらいましょうか」

 ソムニをはじめ、みんな驚いておれを見た。

「なぜです? 健吾」ソムニが悲しそうに言った。

「きみは月形部長から、鍵からたどり着くものを調べてくるようにいわれているだろう?」

「そんな……そんなことはありません。なぜそんなことをいうのですか」浅黒い顔からうかがい知ることはできなかったが、おそらくソムニは青ざめていただろう。

「われわれの滞在するゲストハウスは、十中八九、盗聴されている。あの火災のあった晩、きみはわたしをたずねてきた。そのときのきみは盗聴のことなど知るはずもないし、あのとき示したわたしへの親しみは本物だったと思う。

 だが、あそこできみは、ひそかに立花さんのデスクから持ち出したこの鍵のことを話してしまった」

 おれも話しながら悲しかった。

「会社が公私ふくめて立花さんの遺品を徹底的に調べたのは、きみの話からもうかがえた。だが、欲しいものは手に入らなかったんだ。そこへきみが鍵を持ち出したことを打ち明けた。

 会社としては、きみが立花さんの死に不信感を抱いていることが分かったわけだから、きみを立花さんのように消してしまうこともしかねないはずだ。だがきみは普通に生活している。

 考えられる理由はひとつ。きみを泳がせる代わりに、鍵にまつわる情報収集を命じたということだ。ハーシュが「信玄」で貸金庫の鍵だと見抜くまで、われわれにはそれがなにか分からなかった。ましてや同席していないきみは知るよしもない。だから今朝、浅野さんにリバラ行きに同行するようにいわれて、あわてて月形部長に報告にいったのだろう。当然、月形部長は貸金庫の中身を見届けるように命じたはずだ。違うか?」

 ソムニは顔中に脂汗を浮かべていた。他の二人も青ざめている。

「ソムニ。事態はきみが思っているよりはるかに深刻だぞ。われわれはきみに金庫の中身を見せるつもりも、ましてや、わたすつもりもない。そんなことをすれば、きみはそれを月形部長に知らせるからだ。

 だが、きみは手ぶらで会社に帰るわけにはいかない。きみはいわば執行猶予中の身なんだ。生かしておく価値がないと分かったとたん、きみは消されるだろう」

 おれは懐中から札束を出すと、ソムニの手に握らせた。

「だからきみはこのまま身を隠すんだ。これは当座の金だ。わたしはきみに死んで欲しくない。友人からのたっての願いだと思って聞いてくれ。大丈夫、もうすぐこの一連の事件のすべてがはっきりする。そうしたらうちの社としても、すべてを明らかにして、シーバースの本社にも報告書を送ることになるだろう。そうすれば、月形部長一派はおしまいだ。きみも会社に戻れる」

 ソムニは真剣な顔で、おれの手を取った。

「健吾。あなたはやはり本当の友人です。話は分かりました。わたしは黙って消えます。この恩は忘れません」

 そういうと、ソムニは部屋を出て行った。

 ひとときの静寂が流れた。他の二人がどう思ってるのかは分からない。だが、おれはこれがベストの策だと思っていた。

「さあ、金庫をあけよう」

 おれは金庫のふたを外した。

 なかには一枚の紙が入っているだけだった。

「ファックスだ」ハーシュが言った。

 おれはそれを取り上げると書かれていることを読んだ。

 差出人欄は無し。受取人欄も無し。

 本文のところには、こう書かれてあった。


   20000→TSUKIGATA

   50000→KIDO


 浅野がヘッダ部分に目をこらした。

「CORSA Co.Ltd.……コルサ社です。あ、宛先FAX番号が×××××00です。総務部の大部屋のファックス機の番号です」

「月形部長は自分の部屋にファックスを持っていますか?」おれはたずねた。

「はい」

「番号は?」

「×××××01です」

「時間は午後十時過ぎですね。夜遅くだ」おれはつぶやいた。

「コルサ建設は、ゴンドラ車を貸してくれた会社だな」ハーシュがおれを見て言った。

「ああ、たしかあのプラントを建設した会社だといってたな」

「ぼくはあのあと、気になって調べてみたんだ。マイネシアの法律では、外資系企業が建設工事を行う際には、国内企業に請け負わせることになっている。その方法は競争入札だ。ところが最初のプラント建設をはじめ、補修工事など、これまでシーバース社が行ってきた工事の約八割をコルサ建設が落札している」

 ハーシュもよくそこまで調べたものだ。おれは思わず言った。

「明らかに落札予定価格をリークしているな」

 おれはファックス紙をテーブルに置き、指で数字のところを軽く叩いた。

「これは、おそらくコルサ社が、月形部長と木戸支社長の口座に二万ドルと五万ドル、わいろを振り込むという意味だ。ソムニの話では、そのころ三号発電機の立ち上げ工事があったということだ。おそらくそこでもコルサ社は落札して工事を請け負った。その見返りがこの金だ。

 これは本来、部長室に送られるべきものだったんだ。だがファックス番号を間違えて、総務部の共同ファックスに送ってしまった。そして、たまたまその時、残業で残っていた立花さんが、これを見てしまった。

 送り間違いに気づいた月形部長は、焦ったに違いない。立花さんは、三号発電機の工事を担当していたから、このファックスを見れば、なにを意味するかすぐに分かる。だから漁業組合のマーナに依頼して、立花さんを消した」

 浅野が顔を曇らせた。そのとき残業をしていなければ、立花は死なずに済んだのだ。なんという不運だろう。

 おれは続けた。

「これで金の洗浄方法が分かったぞ。シーバース社は損壊した蒸留塔を新たに建設することになる。保険金はそれにあてられるだろう。そして不正な競争入札が行われ、コルサ社に仕事は落ちる。その見返りに月形部長たちは多額のリベートをコルサ社から受け取るというわけだ。それにしても木戸支社長まで一味だったとはな」


 ソムニがいなくなったので、帰りはおれが運転してシーバース社まで帰った。

 おれは考え込んでいた。オールドストーンとしては、実際のところ、月形部長が誰と結託していようとあまり重要ではないのだ。蒸留塔が破壊されたのは事実だし、そのために操業が三十日停止するのは確実だ。二千万ドルの保険金は支払うよりほかない。だがおれ個人はそれが癪だった。

 おれは保険屋だ。保険屋は払った保険金の使い道など気にする必要はないし、すべきでもないのかもしれない。

 だがおれは、不正を隠し通すために立花を消したやり口が、どうしても許せなかった。殺したということも許せないが、それにより浅野真子を深い悲しみの淵に追いやったことが許せなかった。言い方を変えれば、おれの気持ちはそれくらい浅野に傾いていた。


 数日後、蒸留塔の撤去工事を始めるというので、おれとハーシュは最後にもう一度だけ、現場の調査をした。日にちが経っているせいか、もう異臭はしなかった。

 丹念に調べたが、なにも新しいことは見つけられなかった。爆発で口を開いた蒸留塔の壁は、もううっすらと錆び始めていて、すべては終わったことだ、と告げているかのようだった。

 おれはマイネシアの暑さもさほど苦にならなくなっていた。部屋に戻るとシャワーを浴びて着替えた。午後のオレンジ色の太陽が、部屋を照らし出している。

 ビールを片手に、窓辺に立った。すると丘と丘の間に海が見えることに気づいた。毎日、同じ景色を見ていたのに全然気がつかなかった。立花はどんな殺され方をしたのだろう? 大勢で押さえつけて無理矢理頭を海に沈め、動かなくなり力が無くなるまで……そんなところだろう。

 おれはソムニが同じ目に遭わないことを祈った。彼はいい人間だ。

 おれはソファにかけた。あの晩、ソムニは向かいの椅子に座り、言った。

「わたしたちは友人でしょう。違いますか?」

 そしておれに貴重な情報を伝えてくれた。

 おれはその友人に金をわたして追い払った。彼を守るためとはいえ、乱暴な別れ方だったと思う。

 月形部長一派を追い払わなければソムニは会社には戻れない。ソムニの前では大見得を切ったが、その目算は立っていない。たとえ裏金を払っていたにしても、外部からの侵入者が蒸留塔を爆破したという事実は動かせない。

 それにしても見事に蒸留塔を損壊させたものだ。蒸留塔を。

 ソムニと話していたときの様子がよみがえってきた。あのとき、この部屋で爆発音を耳にしたのだ。二回。

「?」

 二回……それがおれの心にとまった。そう、あのとき爆発音は二回起こり、二つの間にはわずかだが時間があった。そして二つの音質は違っていた。最初はこもったような爆発音。二つ目ははっきりとした爆発音。

 なぜ二回起こったのだろう?

 蒸留塔最下部にあった爆発痕。念を入れてあそこを二回爆破したのか?

 いや、それはあり得ない。一回目の爆発で、二つ目の爆薬も誘爆してしまう。

 それではなぜか。二回の爆発は、なにか意味があるように思える。

「あ」おれは重大な事実を見逃していることに気づいた。そうだ。そういうことだったのだ。爆発は二回とも必要だった。

 おれはハーシュの部屋をたずねて告げた。

「大事な話がある。六時に『信玄』だ」

 ハーシュは怪訝そうな顔をしたが、うなずいた。

 おれはそのまま社屋に向かい浅野真子をたずねた。大勢の社員が働いている。

「あら石崎さん」浅野は笑顔を見せた。

 おれは無言で『六時に信玄で』というメモを机に置いた。おれのただならぬ様子になにかを感じ取った浅野はだまって小さくうなずいた。


 「信玄」にやってきた二人は、おれがなにを話すのか、知りたくてうずうずしているようだった。

 おれはぐい飲みの日本酒をひと口飲むと、切り出した。

「わたしはとんでもないミスをしていました」

「なんです?」

 深呼吸した。

「あの火災は、爆薬だけのせいではない」

「えっ?」「なぜ?」二人とも口々に驚きの声をあげた。

 おれは説明した。

「あのとき爆発音は二回あって、一回目はこもったような音、二回目は鮮明な爆発音。それが気になっていた。ハーシュも聞いたろう?」

「ああ、たしか、そうだった」

「なぜ二回なのか、それが気になっていた。そこで気がつくのは被害が蒸留塔だけだったということだ」

「ぼくもそれはちょっと気になったよ。どういうことなんだ?」

「被害規模と範囲があまりにアンバランスなんだ。隣接する他の設備に被害はなかった。ということは爆薬の量はごく少量だったということだ。それなのに蒸留塔は五カ所に裂け目ができ、火災でほぼ全壊した。おかしいと思わないか?」

「たしかに」

 おれは二人の顔を見て、それから言った。

「プラントは停止したい。だが他の施設は破壊せずに、被害は最小規模にしたかった。つまり蒸留塔最下部の爆薬は少量で、単に蒸留塔に穴を開けるにとどまったんだ。それでは蒸留塔を損壊させることなどできない」

 ハーシュが反論した。

「だが現実に蒸留塔は燃えたじゃないか」

「そう。そこで一回目の爆発が重要になってくる。あの音は、こもって聞こえた。周りを遮蔽された状態で爆発した音だ」

「すると……」

「そう、蒸留塔内部で爆発が起こったんだ。それが蒸留塔全体を燃やし尽くす引き金になった」

 ハーシュが信じられないという顔で、おれに言った。

「蒸留塔は密閉構造だ。内部に爆薬をしかけることなんてできるはずがない」

 常識ではそうだ。

「そうだ。爆薬を使うのは不可能だ。だが内部爆発を起こす方法がひとつだけある。蒸留塔には加熱器という熱源がある。こいつを暴走させて、中段の揮発成分の着火温度まで上げてやれば、蒸留塔は加熱器のところで爆発する」

 ハーシュが、

「加熱器には安全装置がついているはずだ。着火温度まで上昇させることはできないだろう」

「安全装置を外して無制限に加熱できるようにしたんだろうな。すなわちプラント制御室の運転要員もぐるだ」

「そんな……」浅野は驚きを隠せない様子だった。人殺しに盗聴、プラントの細工、なんともひどい会社があったものだ。

 おれは続けた。

「ここで二つの爆発の順番が大切になってくる。なぜ内部爆発を起こしたあと、最下部の爆薬を爆破させたのか。これには理由がある。逆ではだめなんだ」

「どういうことだ?」ハーシュがたずねた。

「月形部長が教えてくれたが、あの蒸留塔は加圧式なんだ。内部は高圧になっている。つまり先に下部を破壊して穴を開けてしまうと、風船の空気が抜けるように、蒸留塔内の可燃ガスが全部抜け出てしまう。しかし外部からの爆破に見せかけるカモフラージュとして下部の爆薬は必要だった。そこで、まず内部爆発で火災を起こし、それから蒸留塔下部の爆薬を爆発させたんだ」

 おれは日本酒をあおった。

「以上が蒸留塔火災の真相だ。保険金詐欺の片棒を担がせようと、おれたちを呼び寄せたことが、かえってあだになったな。おれとハーシュが証人だ。これは内部の者の意図的な爆破だから、これをうちの社に報告すれば契約違反で保険金は下りない」

 ハーシュがふっとため息をついた。

「この様子だとメールも検閲されているな。会社に報告するのは難しい」

「リバラまで行けば国際電話やインターネットが使える。明日にでもリバラに行こう。いずれにせよ、これで月形部長たちは運の尽きだ」

 おれは酒を飲み干した。



  第五章 決闘



 「信玄」を出たおれたちは帰路についた。月が出ている。狭い一本道で、道路のわきはヤシの林が広がっていた。時折、潮の香りのする突風が吹いて、酔って火照った顔に心地良かった。

「おや」おれは思わずつぶやいた。道の先に十人ほどの人々が立っている。おれたちの姿を認めると、彼らは近づいてきた。歩き方、素振り、そういうものからおれたちに用があるのは明らかだった。それも良からぬ用だ。

 タイミングが良すぎる。調査内容を会社に報告する前におれたちを殺すには、今しかない。おれは自分の浅はかさを呪った。ゲストハウスで着替えたシャツのボタンかなにかに盗聴器が仕込まれていたに違いない。「信玄」での会話はすべて聞かれていたのだろう。それくらいやりかねない連中だということは、充分に知っていたはずなのだが……。

 表情が見て取れるほど近づいたとき、彼らは立ち止まった。みな、手に軽機関銃を提げている。彼らは明らかにおれたちをなめていたか、もしくは素人だった。ぶら下げた軽機関銃は構えて発射するまでに時間がかかる。確実に殺したいなら、銃を構えたまま近づいてくるべきだった。

 おれは浅野真子を後ろに隠した。

「オールドストーンの調査員だな」

 代表格の男が英語で言った。

「しらばっくれても面は割れてるんだろう。おまえらはマーナだな」おれは連中の銃口の動きをにらみながら返した。

「悪いな。死んでもらう。だが自業自得だぞ」

 その言葉が終わらないうちに、おれは浅野とハーシュを引っつかんで、道路脇のヤシの林に飛び込んだ。

 連続する軽機関銃の乾いた発射音がして、まわりの木々がはぜた。

 林の中は暗がりで、道路上の男たちが月明かりではっきり見える。

 おれは心の中でため息をついた。結局これだ。おれの仕事の多くはこうだ。ビジネスライクに終わったためしがない。

 敵は、いったん撃つのをやめた。

「奥へ行くんだ」

 おれは小声で浅野とハーシュに言った。ハーシュは浅野の手を引いて、そろそろと林の奥に進んでいった。

 おれは頭の中で計算していた。酔いはすっかり醒めていた。おれが持っているのはグロック二〇。予備弾倉をいれて二十二発だ。相手は軽機関銃。こちらが月の光を遮った暗がりにいるからといって、おれの圧倒的な不利は変わらない。所詮グロック二〇は護身用の小型拳銃だ。本格的な戦闘には向いていない。なんとか充分近寄って、ひとりずつ片付けていくよりほかない。死ぬかもしれない。そのことへの恐怖が、満ち潮のように心を冷たく浸し始めていた。

 おれはブッシュに身を隠し、男たちが林に入ってくるのを待った。こちらは目が闇に慣れている。

 充分距離を見切って、男を一人、グロックで仕留めた。男が胸を撃たれて崩れ落ちた瞬間、残りの連中から猛烈な弾の雨が降り注いだ。おれは身をかがめた。やつらは発射位置を特定できていない。やみくもに撃ち返しているだけだ。おれが武器を持っているとは思わなかったので、慌てふためいたのだろう。

 おれはゆっくりと細心の注意を払って、移動を始めた。連中の横に回りこんだ。

 そろそろと頭を上げると、見える、連中の姿がはっきり見える。おれはよく狙いを定め、もう一人、撃った。弾は頭に当たり、男は倒れた。おれは身をすくめ、素早く林の中を駆け抜けた。猛然と反撃の銃弾が降り注いだ。その頃にはおれは離れた場所にいた。

 ここまではうまくいったが、そう何度も通用はしない。依然、おれは不利だ。いずれ、除虫剤をまかれたアリのようにあぶりだされるだろう。おれはあと何分、生きていられるのだろう?

 そのとき、遠くから、かん高いエンジン音が聞こえてきた。遠くにヘッドライトが見え、みるみるうちに近づいてきた。車だ。

 車はおれたちのいるところにまっすぐ突っ込んでくる。男たちが飛び退くと、車はハンドルを切って、おれがひそんでいる藪の中に入り込み、そのまま一本の太いヤシの幹に衝突して停まった。おれが這っていって運転席を開けると、そこには血まみれのソムニがいた。

「ソムニ! どうして?」

「もらったお金で盗聴器を買い、マーナ本部の電話線に仕掛けたんです。電気工に化けましたよ」暗くてはっきりとは見えないが、喋るたびに、口から血があふれている。

「ソムニ、何も言わなくていい」

 だが、おれの言うことを聞かず、ソムニは続けた。

「すると、いまから二時間ほど前に月形部長からマーナに連絡があり、あなたたちを始末するよう依頼があったんです。わたしは、マーナの武器庫に押し入って武器をかき集めました」

「無茶なことをするやつだ。もう喋るな。死ぬぞ」

「もうわたしはだめです。後部座席に武器を積んでいます。使ってください」

 ソムニのシャツは暗がりでも分かるくらい真っ赤だった。何カ所か撃たれている。

「ソムニ」

「健吾、どうかご無事で」ソムニは運転席から転がり落ちると、地面で息絶えた。口のなかに苦いものがこみ上げてきた。人の命を踏み台にして生き延びるのがおれに与えられた運命なのか。そんなことで命をつないでも嬉しくもなんともない。だが、ソムニが命に代えて救おうとしてくれたことを無駄にしてはいけない。

 おれは車の後部座席のドアを開けた。座席に何丁もの銃器が無造作に置かれている。

 おれはその中から、M79をとった。榴弾(小型爆弾)砲だ。シートに散らばっていた榴弾はポケットに入れた。

 敵は八人だ。マイネシア語でなにか叫び合っている。その内容は分からなかったが、意味は予想がついた。分散して、おれを遠巻きにしようというのだ。何人かが道路から外れてヤシ林のなかに入ってきたようだ。

 おれは風を待っていた。ここに来る途中も何度か吹いた、あの強い風だ。いずれまた来るはずだ。敵の輪ができつつある中で、銃を発砲するのは危険だ。おれはグロックをズボンのベルトの下にはさんだ。

 それはやはりふいにやってきた。疾風がヤシ林のなかを吹き抜け、びっしりと茂ったブッシュをかき鳴らした。おれはその音にまぎれて走った。ポケットからバタフライ・ナイフを出すと、ブッシュをかき分け、おれをさがしている一人の男の背後に現れた。はがいじめにするが早いか、ナイフで首の頸動脈を深々と切った。そいつは、声をたてる間もなかった。

 風は続いている。おれはもうひとりを求めて再び走った。どのへんにいるか、だいたい予想はついている。遠くにちらりとおれの影を目にしたそいつは、恐怖にかられて銃を乱射するという愚を犯した。おかげで正確な場所が分かったおれは、やはり背後から回りこんだ。背中から飛びつくとすぐに同じ手口で首を切った。

 道路に目をやると、男たちは見あたらなかった。月明かりのなかにいることの不利をようやくさとったらしい。

 やっかいな状況だ。残りの敵がどこにいるのか皆目分からない。

 早く心を決めなければならない。躊躇するだけ狩られる側つまりおれが不利になる。おれはあえて自分の居場所を知らせる手に出た。ヤシ林を駆けながら、立て続けにグロックを撃った。とたんに、道路脇のブッシュの一角から銃火がまたたいた。一カ所にかたまっている。

 やはり彼らはマーナといっても接近戦のプロではないらしい。銃撃戦で散開するのは勇気がいる。恐怖から味方同士寄り合っていたいという心理が働く。しかし、攻撃する方としては散らずにかたまっていてくれるほうが、たやすいのだ。

 おれはM79に榴弾を装填すると引き金に指をかけ、愚か者のために三秒だけ祈ってやった。引き金を引くと短い空気の抜ける音とともに榴弾が一直線に、連中のもとに飛び込んでいった。

 それは着弾すると閃光を放った。激しい爆発に、一瞬、あたりが照らされた。爆風にブッシュが泳いだ。

 おれは腰をかがめて、両手にM79とグロックを構えながら、ゆっくりと着弾点に近づいていった。無残な体相だった。かろうじて死体が四人分あることは分かった。

 おれはきびすを返してヤシ林に入っていった。

「ハーシュ! 浅野さん!」

 おれの呼びかけに、がさがさと音がして、茂みのなかから二人の人影が現れた。暗いので、どちらがどちらなのか、にわかには分からない。

「やつらは?」ハーシュの影がたずねた。

「片付けたよ。ソムニが助けにかけつけてくれたんだが、かわいそうに死んだよ」

「アリスタが?」浅野が驚きの声をあげた。

「ああ、マーナに殺されたんです。わたしたちを助けるために危険を冒したんです」

 浅野の表情は分からないが、兄が殺されたと知り、いままた同僚のソムニ・アリスタが殺された。恐れと悲しみで胸がいっぱいだろう。

「浅野さん、われわれはもうシーバース社には戻れません。首都リバラに行き、そこでホテルに泊まります。あなたも出社すると危険だ。われわれに付いてくるようお勧めします」

「はい」

「それでいい」おれは言った。「あなたのことはわたしが守る」ナイトの気分は悪くなかった。

 やにわにしがみつかれた。おれはなにがなんだか分からなかった。

 浅野がおれの首に手を回しているのだと気がついたときには、唇に柔らかなものが押し当てられていた。それが浅野の唇だと分かったとき、思わずおれも抱き寄せて、濃厚なキスを返した。

「で、どうする? タクシーでも通るのを待つのか?」ハーシュが、いいムードのおれたちに、冷ややかな口調で言った。

「ソムニが乗ってきた車がある。痛んでいるがなんとか走れるだろう」

 おれたちは道路に向かった。ヤシの木にぶつかったソムニの車がある。浅野はソムニの死体を見ると、顔を手で覆った。

 おれとハーシュで、車を道路に押し戻した。おれは運転席に乗り込み、エンジンをかけてみた。

「よし。動くぞ」浅野が助手席に。ハーシュが後部座席に乗り、ソムニが残してくれた武器を片付け、座る場所を作った。

 おれは車を発進させた。アケラの町に向かった。細い道をたどり、アケラに入ると国道に出た。町並みは、三分の一ほどを残して、灯りが消えていた。時計を見ると十時を回っていた。

 アケラを出ると、例の未舗装の道にさしかかり、スピードは落ちた。車は激しく揺れる。

 そんな中、ハーシュが叫んだ。

「後ろから車が来るぞ」

 振り返るとヘッドライトが二つ、距離をつめてくる。まだ追っ手かどうかは分からないが、こんな時間にここを走る車もそうそうないはずだ。

 両者の距離が五十メートルほどに迫ったとき、向こうの車が閃光を放ち、銃声が聞こえてきた。

「マーナだ。浅野さん、運転できますか?」おれはたずねた。

「え? は、はい」

「代わってください」

 おれは浅野と体を入れ替えて運転をまかせた。相手はしきりに撃ってくる。

「浅野さん、できるだけ体を沈めて運転してください」

 浅野はいわれたとおり、身を小さくしてハンドルを握った。

 おれは後部座席に移り、武器の中からM4カービン銃を二丁取り、ハーシュにも持たせた。

「引き金を引くだけでいい。引きっぱなしはよせ。弾を無駄にするな」

 おれもM4を取り、リア・ウィンドウをなでるように連射した。けたたましい音を立ててガラスが飛び散る。浅野が悲鳴をあげた。

「大丈夫。攻撃するための窓をあけたんですよ。浅野さんは運転だけに集中してください」

 お互い撃ち合いが始まったが、この悪路のために弾はまったく当たらない。

 だが敵が放った一発が、おれたちの車のすぐ後ろの地面に着弾し、轟音とともに火柱が立った。おれたちは勢いでシートに沈み込み、浅野は思わずブレーキを踏んだ。

「ブレーキを踏むんじゃない!」おれは叫んだ。浅野はあわてて猛加速した。

 ハーシュが言った。

「いまのはなんだ?」

「RPG、つまりロケット弾だ。こんなものまで持ってるのか」

 向こうがRPGを持っているなら、おれたちにはとても勝ち目はない。この悪路はあと三十分もすれば舗装道路になる。そこがおれたちの墓場だ。確実にとらえられたら車もろとも木っ端みじんになる。

 だから、この未舗装の凸凹道で決着をつけなければならない。

 敵は軽機関銃でひっきりなしに撃ってくる。ハーシュも撃ち返していた。

 おれはM79に持ち替え、榴弾を放った。しかし、惜しいところで当たらない。その榴弾も残り二発になった。

 おれは激しく揺れる車の中で慎重に狙いを付けた。

「当たれ」引き金を引いた。しかし飛び出した榴弾は無情にも敵の車の上を飛び越し、はるか後ろで爆発した。おれは落胆せずにいられなかった。

 残る榴弾は一発。どうするか。手がぐっしょりと汗をかいていた。おれはそれをシャツにこすりつけた。

 一か八かの賭けに出るしかない。

「浅野さん、停めてください」

 おれは浅野に言った。停車することで、確実に狙うことができる。むろん、停まればそれだけRPGを食らう危険性も増す。

「えっ? 停めるんですか」

「そうです。停めて。そしてわたしが撃ったら、すぐ急発進です」おれの声は上ずっていた。自分にも勝算はまったくない。

 浅野はうなずくと、急ブレーキをかけた。タイヤが悲鳴をあげる。おれたちは停まった。敵はぐんぐんと近づいてくる。おれは狙い定めてM79の引き金を絞った。榴弾はまっすぐに相手の車に向かい、グリルを突き破ってエンジンルームに突入した。

 ただちに大爆発が起こった。相手の車は四散したが、惰性で少しの間走り続け、事切れるように停まった。

 浅野が再び車を発進させた。相手は、もちろん走れるような状態ではないし、一発の弾丸も飛んでこないところを見ると、全滅したに違いない。

 おれたちはそのまま走り去った。


 首都リバラに入ると、おれたちは公衆電話を見つけて車を寄せた。

 おれは、どうしても月形部長と直接対決しないと気が済まなかった。

 シーバース社の月形部長の部屋に電話をかけると、相手が出た。

「もしもし」

「やはりまだ残っていましたね? マーナから首尾を聞くまでは帰る気にはなれないでしょうから。あいにくわたしたちは生きていますよ」

「石崎さん……」

 受話器の向こうの顔はうかがい知れないが、さすがにいつもの無邪気な笑顔は浮かべていないだろう。

「盗聴していたのだからご存知だと思いますが、わたしたちの調査結果では今回の火災はクロです。

 そして、火災があったのになぜ保険が下りないのかシーバース本社の内部監査も入るでしょう。あなたたちは終わりです」

「……なぜ、わたしのことが怪しいと気づいたんです」

「最初のきっかけという事で言えば、月形さんの笑顔です。顧客にしてはあなたは人が良すぎた」

「人には笑顔で、というのは社訓なんですよ」

「それは殊勝な事で。他の社訓も残らず守っていたら、こんなことにはならなかったでしょうね。それでは」

 溜飲が下がった。

 そのあともう一件電話をしておれは車に戻った。

「終わったよ」

「これからどうします?」運転席の浅野がたずねた。

「例のホテルに部屋を三つ取ったよ。ソムニのお墨付きだ、きっとまともな宿だろう」

「あの……」言いよどんだ浅野におれがたずねた。

「なにか?」

「……その、着いたら、一部屋キャンセルしてくださいませんか。石崎さんさえ構わなければ……」

 ハーシュが、じつにハーシュらしくない含みのある笑みを浮かべた。

 おれは初めてハーシュを殴りたくなった。


(了)


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