姫殿下の青くない春
シュヴィアが十六歳を迎えた年、ストラウ国との国交が開始された。
対価や取り引きというより、交流や情報交換を主とした国交だが、閉鎖的なストラウ国との縁をつないだことで、シュヴィアはさらに名を上げることになった。
そして。
「う、わあ……! なんて身体が軽い!」
「ふふ。よかったわ」
浅黒い肌に、漆黒の髪と目。エキゾチックな美女が妖艶に微笑む。
このたび兄の妃として輿入れした、ストラウ国の王姪である。
ストラウ国は、大陸で唯一精霊に愛される魔法国。
国交のきっかけは王太子だったが、交流の中で兄と妃は自然と惹かれ合い、成婚と相成った。
その新王妃も魔法に長けており、家族になったからとシュヴィアの麻痺を治癒してくれたのだ。
身体の隅々まで、血の巡りを辿られるような感覚は少しばかり気持ち悪かったが、通り抜けた後は嘘のように澱みが消えた。
なんというか、神経や細胞までもが喜んでいる気がする。
「お義姉様……!」
きらきらと輝かんばかりの目で、まるで恋い慕うように見つめてしまうのも、仕方のないことだと思う。
動くようになった手で彼女の両手を握り、深く頭を下げる。
「ありがとうございます……! 嬉しい、これで色々捗ります!」
「これ以上何を捗らせる気かは知らないけれど、無茶はいけないわよ?」
「約束はできません!」
「まあそうよねえ」
やる気に満ち満ちる身体は、同時に浮き立つようでもある。ここ数年で一番心が軽い。
ヒロインを失った兄も新たな出会いがあり、国内の情勢は落ち着いており、外交も特筆した問題はない。
これで身体が健康ならば、シュヴィアの縁談も進めやすい。
「お兄様! どこへ嫁ぎましょうか! ストラウはお義姉様がいますから、ドラン公国? デルファ? ドートアもいいですね!」
「急ぎすぎだ! 後継もまだいない。王族を減らすべきじゃないと言ったのはおまえだろう」
「でも、婚約くらいは。外交も強められますし。カードを切るのは今です!」
「だからおまえは、またそういう……」
近頃、以前より口数が増えた兄は、何かと口うるさい。
シュヴィアが遠慮なく言い返すようになったのは、受け止めてくれるというちょっとした甘えもあるのかもしれない。
兄を兄と呼ぶようになったせいか、少々距離が近くて困ってしまう。
────失えないじゃない。
もう絶対に、絶対にだ。前以上に、兄を守りたい。傷なんか一つもつけないくらい安全に、大切に。
そのために力が必要なら、シュヴィアは何だってしてやる。
地図を広げてあれこれと考え出すシュヴィアに、苦笑しながらお茶を出したアンネのお腹はふんわり大きい。
一年前に幼馴染と婚姻した彼女は、もう少ししたら職を辞して家に入る。とても幸せそうだ。
「だいたい、外交を一手に引き受けておいて、そうそう容易く国外に出られると思うなよ」
「使節団は優秀ですよ」
「そういう話はしてないな」
広げていた地図をバサバサと折り畳み、妃に手渡した兄が顎を上げる。
義姉はにこやかに執務室を出て行き、場には兄妹と護衛を務める深紅の騎士だけが残った。
「おまえには、外政室の室長および外交官長を任せる」
「……」
「それと、女大公の位を与える。おまえが婿を取れ」
えっ、と、思わず声が漏れた。
「そんな……そんなの、今と変わらないじゃないですか。お兄様の近くにいることになります」
「おまえは、いつまでそうなのだ」
そう? そう、とは、どういう意味だろう。
訝しげに眉を寄せるシュヴィアに、兄は大きくため息をついた。
「私は、おまえを邪魔とも不要とも、思ったことはない。一度たりともだ。昔の不仲がおまえにそう思わせたのだろうが、その時だって思ったことはないぞ」
「…………」
「寂しい、と言ったな。私が呼び戻さなければ、会えたのにと。どこかへ行きたかったのは、いつだっておまえの方だ」
それは、毒矢に魘された時のことだろうか。以前のシュヴィアに会いたいと願った時の。
そういえば、深紅の彼にも言われたことがある。どこへも行かないでくれと。
────離れたがりは、わたしの方だった?
兄が厭うなら離れなければと思っていた。
もうずいぶん記憶の薄れた小説の中では、追い出される立場だったから。
でも。
「おまえは私の近くにあり、私の治世を、次代の治世を支える柱だ。自身を低く見積もるな」
シュヴィア。ああ、シュヴィア。
未だ心の奥底で眠る相棒に、泣きたい心地で呼びかける。
報われたんだ、シュヴィア。あなたはもう、求められる人になった。
「女大公シュヴィア。望みを言え」
叶えてやるからと、家族の顔をした兄が言う。
いいだろうか。不安がって怖がって竦む幼子の願いを、叶えてもらっても。
もうちっとも動きづらくなんかない手を、深紅の騎士に伸ばす。
すかさず柔らかく、支える無骨な手がある。
「あなたが望んでくれるなら、セルジオ。一緒に守っていきたいです」
彼がずっとそうしてきたように。シュヴィアがこの先もそうしたいように。
最も尊き国王陛下を、共に。
「もちろんです。姫殿下」
ふ、と肩の力が抜ける。
知っていた。この人が、シュヴィアの中身が以前とは違うと悟っていること。
だってこの人は、転生して以来、たったの一度たりとも『姫様』と呼ばない。
昔、姫と騎士ごっこに付き合ってくれてからは、個人的に話す時には、アンネのように『姫様』と呼んでくれた。
以前のシュヴィアは、大好きな人にそう呼ばれることが嬉しかった。
今のシュヴィアは、『姫殿下』と呼ぶこの人を、信頼している。
「頼りにしています、我が騎士」
この信頼が愛になるまで、あとほんの一歩。
進め。勇気を、シュヴィア。お願い。
伸ばした手の距離を、決意と共に踏み出した。
お粗末様でございましたm(*_ _)m




