荒野の金欠魔女
荒野には、だいたい何もなかった。
草はない。水もない。人通りもない。たまに通るのは、風と、骨みたいに痩せた砂蜥蜴だけである。
その荒野の真ん中に、一本だけ大きな木が立っている。
枝も幹も黒く、夜を磨いて固めたように艶があり、しかし生気はない。
葉は一枚もなく、根は乾いた岩盤を抱くように広がっている。
それは黒曜樹と呼ばれた大樹だった。
もっとも、今は枯れており、そう呼ばれた頃の力は殆ど失われてしまっているが。
それでもなお、枯れた大樹は異質で張り詰めた空気感を漂わせていた。
普通の人間なら、近づいただけで「ここに長居するのはやめておこう」と思う。
普通の魔法使いなら、「ここに住むのは趣味が悪い」と思う。
――しかし、その魔女は、そこに住んでいた。
黒曜樹の中腹に、やや傾いたツリーハウスがくくりつけられている。
板は不揃いで、窓は斜めで、煙突は風が強い日になると悲鳴のような音を立てる。入口の札には、かろうじて読める字でこう書いてあった。
――荒野の魔女、ミリア・ノクト。相談可。支払い前払い。
ただし、前払いしてくれる客など、もう数か月来ていない。
ミリア・ノクトは、床に座り込んでいた。
床といっても、厳密には床ではない。
床板の上に、魔法陣を描いた紙と、割れた瓶と、干からびた茸と、昨日の昼に食べた硬いパンの欠片と、返済期限が赤いインクで書かれた羊皮紙が散らばっているため、床そのものはほとんど見えなかった。
ああ、お金がない――。
ミリアは、その赤い羊皮紙を両手で持ち、三度読み直した。
そこには赤い文字で、途方もない大金が記されている。
額にすれば、貴族の屋敷がひとつ建つ。庭付きである。
もちろんそれはミリアの所持金ではない。借金である。
何度読み直しても、数字は減らなかった。
「……おかしいわね」
彼女は真顔で言った。
「昨日より増えている気がする」
もちろん、増えていた。
利子である。
むしろ、見ている目の前で、末尾の数字がじわりと滲んだ。魔力を持った赤いインクが紙の繊維を這い、乾き、別の数字になった。
借金が、目の前で育っている。
もはや呪いに等しい。
ミリアは魔女だったが、利子を消す魔法は使えない。正確に言うと、呪詛返しを応用して利子を消そうとしたことはある。羊皮紙に書かれた数字を煙に変えるところまでは成功した。だが、借金取りの帳簿と記憶と契約印から数字が消えるわけではなかった。むしろ「証文を燃やした」と怒られて、慰謝料が追加された。
あれは、実に教育的な事件だった。
ミリアは羊皮紙をそっと裏返し、見なかったことにした。
視線をそらすと、目の前には、小さな錬金釜がある。
錬金釜といっても、先祖代々受け継がれたような由緒正しい魔道具ではない。近所の廃坑で拾った銅鍋に、自分で魔法銀の線を彫り、足りない部分を黒曜樹の樹皮で埋めたものだ。見た目は悪い。効率も悪い。たまに底から妙な声がする。
しかし、理論上は働く。
理論上は、だいたい何でも働く。
問題は現実である。
昨日、この釜では高額で取引されるポーションが作られているはずだった。
予定では、透明な青色の液体ができあがり、目の色を変えた王都の薬師が買い取ってくれるはずだった。
しかし、実際にできたのは、青く光る湿った毛玉だった。
それは今、部屋の隅で小さく震えている。
「……もう金を作るしかないわ」
ミリアは錯乱していた。あまりの借金額に。
「金を作る。金を作る。金を作る……」
ミリアは錬金釜の暗い底を見つめたまま、低く呟く。
暗い釜の底を見つめる彼女の目は、焦点が合っているようで、合っていなかった。
金を作るのは、ほとんどの錬金術師にとって永遠の夢である。
永遠の夢というのは、つまり、だいたい成功しないという意味でもある。
だが、今のミリアにそんなことは関係なかった。
金でなくてもいい。王都の貴婦人が泣いて欲しがる香油でも、竜の血と偽って売れる赤い水でも、最近やたら値が上がっている異国の香辛料でもいい。
とにかく、借金取りが一瞬だけ黙るもの。
もちろん金の錬成すら自分には不可能なことをミリアは忘れていた。
もはや何を作りたいのかもわからないままミリアは材料を投入する。ヤケクソである。
ミリアは錯乱したまま、材料を並べた。
黄鉄鉱の欠片。
金色の貝殻。
狐火草の粉末。
乾燥した月蛾の翅。
魔物の素材を精製したあとの残り滓。
黒曜樹の細い枝まで取り敢えず家の棚にあるものを色々いれた。
本式の錬金術師が見れば、泡を吹いて倒れる配合である。
だがミリアには、確信があった。
――借金が限界に近づいた魔女の確信ほど、危険なものはないのだが。
「大丈夫。昨日の失敗は、魔力の流し方が雑だっただけ。今日の私は違う。今日の私は冷静。今日の私は画期的にして天才的。今日の私は、返済能力のある女」
言い聞かせながら、彼女は床の魔法陣の中心に指を置いた。
指先から、魔力を含んだ水が細く流れる。床に敷いた紙の上を、淡い青の線が滑った。
普通の魔法使いは、魔法陣を羊皮紙に魔術用のインクで描く。
慎重な人物なら、魔術用の金属板に刻む。裕福な魔女なら、専門の彫金師に頼む。
しかしミリアは水で描いていた。
一度発動させれば蒸発して消えるので、片付ける手間がない。何度も式を書き直せる。材料費も安い。
安い、という部分が特に重要だった。
通常、魔力を含ませた水は不安定で、線の太さが少し変わるだけで式全体が壊れる。
普通の魔女がやれば、発動前に陣が崩れるか、発動後に部屋が崩れる。
しかしミリアは、平然と線を足していった。
その線は均一で、まるで水の方が彼女の指先に従いたがっているかのようだった。
そうだ、せっかくなのだから魔力はほとんど注ごう。
この際、錬金術に拘る必要はない。魔法陣は自分なりにもう好きな式をいっぱい書いてしまおう。
昔習った魔法物理学、現象学、霊障魔法、遠隔魔法、うろ覚えだろうが構わない。
左上の余白が寂しかったので、古代式の封止文様を足したりした。意味は半分しか覚えていないが、なんとなく形は綺麗だった。
淡い青色の光が、床の上を走る。
線が繋がり、魔法陣を魔力が駆け巡り、オンボロの木の家全体がきしんだ。棚の瓶が震え、干からびた茸が転がり、煙突の中で何か小さなものが咳き込む。
釜の中で、材料が溶ける。
黄色い泡が立つ。
金色の煙が上がる。
ミリアは息を呑んだ。
「来た……!」
煙は、ふわりと宙に浮かび、渦を巻き、やがて一つの形を取り始めた。
金。
に、見えなくもない色。
丸く、薄い。そして光っている。
ミリアの背筋が伸びた。
頬が緩む。
胸の前で握った両手が、勝手に震えた。
「勝った!」
彼女は、まだ何も得ていない者だけが浮かべる、一発逆転大勝利の顔をしていた。
ミリアは自らの偉業を確認するために、釜の中を覗き込む。
――しかし、よくみるとそれは黄金ではなく、金色に輝く泥だった。
しかも。
「……すっごく臭い」
ミリアは三秒ほど沈黙した。
それから、顔を引き攣らせながら言った。
「……これは、失敗……いえ、きっとまだ中間生成物ね」
誰に聞かれるでもない言い訳を並べる。
なんだか疲れた。ほとんどの魔力は持っていかれたし、冷静になると足元ではもはや意味不明で謎の魔法式が動いていた。
錬金術の式だったはずである。
少なくとも、最初の三割くらいはそうだった。
だが、今も床を這う淡い青の線は、金属の変性や薬効成分の抽出などという、まっとうな目的をとっくに置き去りにしていた。円の内側で円が回り、補助式の端が遠隔魔法の流路を噛み、霊障魔法の式がなぜか物性変換の核に直接接続している。
錬金術というより、錬金釜を使って発動した何かだった。
見た目だけは綺麗にまとまっている。だからミリアの魔女としての直感は、これは奇跡のような魔法として発動したのだと告げていた。
ただし、結果は臭い泥である。
「はあ、どうかしてたわ。私」
「……真面目に金を作る方法を考えないと」
ミリアはまだ現実を見ることができていなかった。
片付けはどうしよう、などと考えながらぼんやりと鍋から離れようとしたとき――。
足の裏で、何かがころりと転がった。
昨日使った溶液の空き瓶だった。
「あ」
身体が傾く。
右手が宙を掻く。
つまり――思いっきりバランスを崩してコケた。
とっさに左手が何かを掴む。
それは、錬金釜の支えだった。
次の瞬間、支えが外れた釜が悲鳴のような音を立てて傾き、金色の泥――失敗作、いや中間生成物Xが、床板の上にどろりとこぼれた。
この床を作ったのは王都の腕利きの大工ではなく、借金取りから追われてこの地に逃げ延びた金欠魔女だった。当然、中間生成物Xは隙間と傾斜だらけの床から更に下にこぼれる。
下にあるのは黒曜樹だった。
金色の泥が、黒い幹に落ちる。
その瞬間、ミリアの背筋に冷たいものが走った。
彼女は金欠で、無計画で、失敗作を中間生成物と呼ぶ程度には往生際が悪かったが、今この瞬間の魔女としての勘だけは正確だった。
まずい。
黒曜樹は枯れている。
少なくとも、人間の目にはそう見える。
だが、神話の時代から荒野に立ち続けたものが、ただの枯れ木であるはずがなかった。根は岩盤を抱き、岩盤の下にあるものを抱き、そのさらに下にある、人の魔法では名をつけられないものに触れている。そんな噂さえまことしやかに語られている大樹。
そんなものに、魔力を限界まで注ぎ込んだ失敗作を浴びせた。
ミリアは、ようやく自分が何をしたのか理解した。
「……あ」
黒いはずの樹皮の奥から、骨の内側に灯るような淡い光が滲む。枝がぎしりと鳴った。枯れているはずの大樹が、眠りの底で身じろぎした。
床の上で、棚の瓶が一斉に跳ねた。
干からびた茸が震え、蠢いていた昨日の失敗作がぴたりと動きを止めた。
窓の外から、黒曜樹が一瞬、白く淡く光ったことがわかった。
「え、待って。何。何が起きたの。私、金を作ろうとしただけなんだけど」
ミリアは自分を客観的に見ることができていなかった。
金を作ろうとしただけ。
そのために、用途不明の素材を混ぜ、意味を半分しか覚えていない文様を大量に書き足し、魔力をほとんど注ぎ込み、黒曜樹の枝まで入れた。
黒曜樹は、また一時的に目覚めた。神話の奇跡が、ミリアの暴走に共鳴し、さらなる奇跡が起ころうとしていた。
ミリアは外へ飛び出した。
もちろん、窓は開いていなかった。
窓枠ごと外した。
ミリアは浮遊魔法で空中に躍り出る。黒いローブの裾が風に広がり、銀色の髪が荒野の光を受けて跳ねた。普段なら、荒野の魔女らしい不吉で優雅な姿に見えただろう。
ただし、その顔は完全に混乱していた。
「ちょっと、私の魔力、どこ行ってるの!?」
黒曜樹の根元。
そこに、渦があった。
ミリアの魔力に由来する渦だった。
魔力が砂を巻き上げ、円を描き、空間を捻じ曲げている。錬金釜に注いだはずの力が、なぜか別の何かを呼び込んでいた。
普通なら、ここで魔女は距離を取り、観測し、術式を逆算し、安全を確保する。
ミリアは滑空速度を上げた。
なぜなら、混乱していたからである。
「止まれえええええええええ!」
渦の中心が弾けた。
白い光が溢れる。
そして、その光の中から、一人の男が現れた。
年の頃は二十歳前後。黒髪。見慣れない布の服。片手にはなにかが入った平たい鍋。もう片方の手に、黒い粒の入った小さな筒。脇には、なにやら容器を抱えている。
彼は目を見開き、口を半開きにしていた。
おそらく、彼の人生において最も理解不能な瞬間だった。
そして、滑空中のミリアはその男に、真正面から突っ込んだ。
「ぐえっ」
「きゃっ」
魔女と男は、荒野の砂の上を仲良く転がった。
鍋が高く舞い上がり、太陽の光を受けてきらりと光る。
容器が空中で回転し、中から白い粉が祝福の雪のように散った。
黒い粒の入った小さな筒は、男の手から離れなかった。
彼は、それだけは握りしめていた。




