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第37話 傀儡師

 翌日には市場でも芝居を打ったが、ここではもっぱら庶民が相手とあって、剣戟など激しい動きを伴う芝居と、李家では演じられなかった百戯ひゃくぎの類が中心である。なかでも紅鸞の傀儡は評判で、集った人々の喝采をさらっていた。人形に吊るした糸のさばきが目にも鮮やかで、愛姐は改めて感心したかのように宝余のほうを向き、恥ずかしそうに言った。


「あんたには悪いと思うし、あたしだって紅鸞にはむっとすることも多いけれども……やっぱり紅鸞の腕は確かだと思うんだ。ご覧よ、あの人形の動き。まるで生きてるようだねえ」

宝余は笑った。

「いちいちそんなことを詫びなくてもいいのよ」

とはいえ、彼女は気がかりでもあった。そう、あまりにも傀儡が生きているような…。

すると、小雲しょううんと名付けられたその童形の傀儡が、何やら不気味な影を帯びているかのように思えてきて、宝余は頭を振って埒もない考えを一蹴した。


そうやって五日ばかり李家と市場で百戯や芝居を演じ、いよいよ宿泊先の李の邸を辞そうとするその前夜、忠賢は乾いた洗濯物の山と格闘している宝余に声をかけた。

「そうやって洗濯や煮炊きばかりさせているのも酷な話だ。そなたさえ良ければ、短剣投げなどやってみないか?」

宝余はいぶかしげに班主を見た。

「私がですか?」

そうだ、と忠賢は頷き短剣を三本ばかり、懐から出した。

「そなたの身ごなしと物事に集中する力、度胸を見ていると、出来そうな気もするのだ。まずは私が投げる短剣の的になるところから練習してみないか。もっとも……そなたと私、互いに信頼せねばこの芸は成り立たん」

――信頼。

その言葉を聞いた宝余の胸の内に、苦いものが満ちていく。かつて歩み寄ろうとしたのに、遂に信頼できなかったある人物のことを思い出したからだった。

――でも。

「…やってみます」

宝余はきっぱりと返事をし、忠賢の眼を見据えた。

「よろしい、ではさっそく明日から、移動と芝居の合間を見ながら始めてみよう」


 芝居の稽古がひと段落すると、忠賢は宝余に目配せした。彼女は頷き、愛姐と二人がかりで彩色された戸板を運び、大樹の幹に立てかけた。宝余は言われるまま板の中央に背中をもたせかけ、両腕を水平に上げる。忠賢はそこから五尺離れたところに立った。彼の腰の帯には、赤い房のついた短剣が五本ばかり挟み込まれている。

「まずは、ごく近いところから投げる、場所はそなたの左耳の近くだ。力を抜いて、俺の眼を見ていろ。大丈夫、怪我などさせぬ。一、二、の三で投げるからな」

 そう言われても、五尺というのは近いようで遠くに見えた。すっと忠賢が構えたときに、身体が強張るのを感じたが、身じろぎもせず相手の目を見据えていた。乾いた喉がごくりとなる。忠賢が数をゆっくり数え、振りかぶったと思うと、「とん」と鋭い音を立てて宝余の耳元で板が鳴った。さすがに怖くて目をつぶってしまったが、忠賢はそれに対して怒ることはしなかった。

「まあ、身動きしなかっただけ、偉いものだ」

 そう言って宝余に近寄り、投げた短刀を板から抜いた。見守っていた愛姐が、笑顔で自らの額をぽんと叩く。

「恐いか?」

「――いいえ」

唇を引き結んで答えた宝余に、「強情だな」と忠賢は一笑すると、二投めを行うべく後ずさりに下がった。


そのとき。

ひゅっとまた空気が鳴って、今度は宝余の右の頬近く、本当にすれすれの位置に、青い房の短剣が突き立った。

 忠賢は顔をしかめて振り返り、また眼を瞑る暇もなかった宝余は、呆然と正面を見つめていた。二つの視線の先には、傀儡を脇に抱えた紅鸞が立ち、穏やかならぬ笑みを浮かべている。

「やればできるじゃない。そうそう、今のように、眼を開けたまんまでいるのよ」

「紅鸞!危ないじゃないか」

 怒りの色を露わにした班主を歯牙にもかけず、ふん、と傀儡師は鼻を鳴らし、後も振り返らず歩み去ったが、宝余はまだ胸の動悸がおさまらない。

「大丈夫か?」

「……ええ」

 忠賢は頭を横に振った。

「気にするな。あいつは性格がきつくてな…」

 始めたばかりだが、今日はもうやめよう。――忠賢の判断で初日の稽古はあっけなく終わりを告げ、また宝余は愛姐に手伝ってもらって戸板などをしまった。


「…紅鸞も、班主とは昔は仲が良かったはずなのに」

 愛姐がぽつりともらした。

「それは、私のせいかしら?」

 眉根を寄せて宝余が問うと、愛姐は「ううん」と首を振り、

「班主がうちの班に来た時からずっと仲が良かったんだよー。まるで兄妹か、恋人同士みたいにね。紅鸞はもともとは天朝の人間だけど、何かの事情で、村にはいられず逃げてきたんだって。で、班主は芝居、紅鸞は傀儡の違いはあるけど、互いに芸を磨くのを競ってさ。でも先代の班主が亡くなって次の班主を選ぶとき、班のほとんどが忠賢を推したんだ。紅鸞はなまじ芸の腕が良いだけに、自分が選ばれなかったことに悔しい思いをしたみたいで、それからさね、二人の間が上手く行っていないのは」


 だから宝余は関係ないし、心配しなくてもいいよ――そう慰められたとはいえ、宝余にはその話が頭にいつまでもひっかかっていた。


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